落ち込んで - 小さな教会
個人的なことでいろいろあり精神的身体的に最悪の状態に落ち込んでいるなかで、何度も訪れたことのある大好きな小さな教会をなぜか想い起こす。
フランス・リモージュ旧市街にある「Chapelle Saint-Aurelien」(建立15世紀)
過去記事:
小さな教会(2007年04月05日)
7 14, 2010 23.日々のなかで, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
個人的なことでいろいろあり精神的身体的に最悪の状態に落ち込んでいるなかで、何度も訪れたことのある大好きな小さな教会をなぜか想い起こす。
フランス・リモージュ旧市街にある「Chapelle Saint-Aurelien」(建立15世紀)
過去記事:
小さな教会(2007年04月05日)
7 14, 2010 23.日々のなかで, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
あまり好きでないミラノに行ったのは、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)に併設されたドミニコ会修道院食堂の壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を観るため。
1977年から1999年にかけ20年以上にわたって修復作業が行われオリジナルの線と色彩がある程度よみがえったといわれる。
電話予約し、空調された二重ドアの部屋を通り、規定の25名とともに復元された修道院の食堂へ。見学時間は15分。
幅9m,高さ4mの絵が拡がる。
一点透視はみごとで天井と壁に一体化している。
いくらでも印刷物やTVなどで観てはきたが、印象はそれよりずっと色彩は淡く輪郭もぼんやりとしている。
描かれたときにこうだったわけではもちろんないだろう。
この絵が現存しているだけでほとんど奇蹟としかいいようがないから、それはもうどうしようもない。
イエスの左はヨハネとされているが「ヨハネによる福音書」に「イエスの愛しておられた弟子」と記されているように、マグダラのマリアに見える。
ユダの左後ろから突き出されたナイフを持った手はやはり誰だかわからない。
7 10, 2010 10.美術工芸, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ボローニャの旧市街は、ミラノやローマのような大都会と違って、私にはとても気分がいいサイズ、なにか「身の丈+アルファ」といった感覚がする。
鎌倉の旧市街がせいぜい3キロ四方ほどで、ボローニャのチェントロ(歴史街区)2キロ四方と似ているせいもあるかもしれない。
住民数も鎌倉旧市街地区、チェントロ地区とも同じ約5万。
しかし、古いものや街の景観を徹底して残し補修・修復し、さらに単なる歴史的遺物とはせず、現代の市民的要請にあうように内部と使い方は作り替えてしまう、というボローニャ方式を生み出し守っている住民の自治意識と文化環境への情熱は、安易な観光収入に寄り掛かり、どんどん新建材の住居とあふれる車とパーキングの街と化している今の鎌倉とは比べものにならない。
マッジョーレ広場に面するアックルシオ宮殿は現在市庁舎として使われているが、その一部に19世紀末パリ証券取引所を模して鉄とガラスでサラ・ボルサ(証券取引所)が造られた。
それを外観、現状はできうるかぎり保存、修復させた上で、ウンベルト・エーコ教授の監修で、2001年に新しい図書館に生まれ変わった。
徹底してIT化され、ネットワークにリンクされた900以上の座席やゆったりした革のソファー、各種マルチメディア機器の利用、絨毯敷きでベビーベッドもある幼児室、役者が読み聞かせをする部屋…。
学生たちも熱心に勉強している。
中央吹き抜けのガラス張り床の下には、修復時に発掘された紀元前2世紀古代ローマの住居跡が残され、さらに下にはエトルリア時代の層もあり、見学もできる。
ボローニャには図書館は80以上、本屋もまたたくさんある。
映画館が50、劇場は41、美術・博物館が50。
どれも日本のハコモノ行政で造られたような半端なもの、生き生きと活用されていないものなどはない。
そして圧倒的な数の修道院と教会。
鎌倉市内には中央図書館ほか図書館は5つしかないし、内容が充実しているとはとてもいえない。映画館は最盛期、由比ガ浜通りだけで4〜5軒あったようだが今はひとつもない。小演劇もコンサートも皆場所に苦労する。
ボローニャをつぶさに観た井上ひさしさんも今の鎌倉を嘆いているだろう。
しかし私たちが後を考え続けねばならない。
この間参考にしてきている書籍:
・井上ひさし『ボローニャ紀行 - イタリアの街から世界の在りかたを考える』(文藝春秋)
・星野まりこ『ボローニャの大実験 - 都市を創る市民力』(三推社 /講談社)
・梅原浩次郎『イタリア社会と自治体の挑戦 - ボローニャ再生に向けて』(かもがわ出版)
・佐野敬彦『ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか』(平凡社)
・八木宏美『違和感のイタリア - 人文学的観察記』(新曜社)
・ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方 - 日本人のためのイタリア入門』
7 9, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
映画少年だった頃、新宿の名画座の「戦前フランス名画特集」に通いつめ、ルネ・クレール(René Clair /1898-1981)の『巴里の屋根の下(Sous les toits de Paris)』(1930)もそのとき初めて観た。
冒頭、パリの下町の屋根の俯瞰、建ち並ぶ煙突と煙(後にすべてセットで作ったと知ったが)、カメラがゆっくりとチルトダウンすると、アパルトマンの各階の窓にそれぞれの生活。
そして印象的に流れる主題歌「巴里の屋根の下」。
ホテルの窓から見る朝のパリの屋根の風景は、補修は重ねてきただろうが、その頃とおそらくはたいして変わらない。
ひとつひとつの煙突はひとつひとつの部屋と人生(la vie)につながっている。
6 30, 2010 12.写真・映像・映画・演劇, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
柱廊そのものは他のヨーロッパの街にも部分的にあるが、街中でこれを奨励し、「公共の安全と通行人の目を楽しませるため、木製の柱は石製に、壁や天井はできるだけ美しく装飾するように。また一般の通行の妨げになる固定物は置かない」などの「ポルティコ条例」(1567年)が制定され、それが今に生きている街は他にない。
わずか2Km四方の「チェントロ・ストリコ(歴史的市街地)」に、中世から造られ続けたポルティコは総延長42Kmに及ぶ。
井上ひさし『ボローニャ紀行』よりー
すべての柱廊を歩き回ると、早足でも丸一日はかかります。もちろん、雨の日に市内をたとえば東から西へ横断しても濡れることはありません。こうしてボローニャの歴史的市街地は建物と広場と道と柱廊とが織りなす密度の濃い空間となりました。
6 26, 2010 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
パリ、サン・ジェルマン・デ・プレ(Saint-Germain-des-Prés)の「カフェ・ド・フローラ(Café de Flore)」で。
サルトルやボーヴォワールも朝食はここでとり、友人たちと談論したところ。
であるせいもあるかもしれないが、クロワッサンをかじり、あたりを眺めながら、今回のWIF2010の課題にもあった「Presence」という言葉のことを考えていた。
サルトル『存在と無( L'Etre et le néant)』(1943年)の「Etre」でもある。
フランス語の「présence」も英語の「presence」もごく普通の日常語だ。
そしてそれがそのまま抽象的な思考論理の文脈のなかにも使われる。
しかし日本語でそれらに対応することばは、明治の時代「存在」として翻訳、造語された。
一般庶民の日常の生活に根ざしたことばとはかけ離れていた。
以来、私たちはこの乖離のくびきをずっとひきずった「近代日本語」を基礎として欧米の知とむきあい思考せざるをえなかった。
「止揚」とか「疎外」とか訳された、普通の人がまず使わないような「哲学用語」を学生時代得々としてふりまわしていたが、実はドイツ語でも英語でもフランス語でも日常語、あるいはそれに発したことばであることをずっと後になって知ることになる。
6 21, 2010 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
パリ、サン・ジェルマン大通り(Boulevard Saint-Germain)のラルフ・ローレン(Ralph Lauren)。
女性用売り場で、丁寧で繊細な作りの手編みニットの生成りブラウスが一目で気に入り、XSサイズもあったので、担当の店員のところに持っていく。
「試着なさいますか?」
ヨーロッパに来るたびに「マダム」に間違えられることにはもう慣れっこになっているので別に驚かない。
リモージュで合流した日本の友人は、二人で店に行くたびに私がマダムと思われ、私が別に否定もしないので年配の夫婦と見られることに困惑していた。
長身美貌のマドモワゼル店員は言ってからすぐに気付いて、昨晩パーティーがあり、このブラウスを着たとても素敵なマダムがいらしたので、というようなことを言い(多分)、少し笑い転げながら誤解を詫びた。
写真はラルフ・ローレンが併設している中庭にしつらえられたとても気持ちよさそうなレストラン。
From Europe with Love - Not Madaaaaaaa~m !(2007年02月27日)
6 20, 2010 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 19, 2010 02.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar, 10.美術工芸, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夜遅くまでにぎやかなボローニャ市場通りの建物の一角にレリーフがある。
近くのサンタ・マリア・デッラ・ヴィータ教会の司祭だったマレッラ神父。
「貧困と共にあった」というような意味の形容が付けられている。
第二次大戦中、ナチスドイツ軍の占領下、独軍兵士が一人殺されると、無差別に市民十人を引き立てて広場で銃殺するという暴虐がボローニャでは行われていた。
あるとき引き立てられた住民のなかに乳飲み子をかかえた母親がおり、死ぬ前にもう一度だけこの子に乳をあげたいと兵士に懇願するが聞き入れられない。
このときマレッラ神父は、私が身代わりになりましょう、あなたはゆっくり乳をあげなさい、と進み出た。
神父を住民たちの前で撃つのさすがにははばかられ、このときの銃殺は中止になったとボローニャ市史に記録されているという。
パルチザンによる市の解放後、神父は毎日食料品店の壁の前に座り、黒い帽子を差し出して喜捨を乞い、その金で戦後復興期のたくさんの孤児院、母子寮、無料宿泊所などを作った。
神父の死後も代わりの神父や修道女たち、そしてボローニャ大学の若い学生たちが志を継ぎ、現代のグローバリゼーション下の貧困と向き合っている。
井上ひさしさんは『ボローニャ紀行』でこれらを紹介して書く。
「自分のせいでもないのに仕事や住まいを失ってしまうことがあります。ボローニャでは、こんなとき”自己責任”なんて冷たいコトバは使わない。困っている人間がいたら、とりあえず手を差し出してあげる。ボローニャの街づくりのやり方を”ボローニャ方式”といい、世界のあちこちの都市が手本にしていますが、じつはこの方式の基本にあるのは、このマレッラ神父の精神なのでした」
6 17, 2010 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ボローニャは紀元前からすでに町を作っていたが、ローマからヴェネチアへの中間地であり、また靴の踵(イタリア南東部)ターラントからミラノへ至る街道も交差するところであり、古くから物資の集散、交易が盛んだった。
この商業的繁栄に関わるためには、契約やそれを保証する法についての学問が必要とされる。
街に住んでいる学者のもとへ、学びたいものが教えを乞いにいくというかたちから、それらの若者たちが組合を作り、各地からも学者を招いて給料を払い講義させるというかたちで大学が作られた。
ラテン語で「ウニウェルシタス(Universitas)」、後の英語の「ユニヴァーシティ(University)」はこうした成り立ちからして基本的に「自治的な組合」という意。
1088年のこと、ヨーロッパ最古の大学とされる。
日本はまだ平安後期、後三年の役が終わり、白河上皇が院政を始めた頃。
しかしこの大学はしばらくはキャンパスや校舎のようなものはなく、広場や教会や教授の家などで授業が行われた。
ヨーロッパ中から熱意ある青年が集まり、そのなかには、ダンテ、ペトラルカ、エラスムス、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイなどがいる。
1563年に「アルキジンナジオ(Archiginnasio)」館が校舎として建てられた。
今は大解剖室などを含むミュージアムとなっている。
柱廊の壁や天井には歴代の教授や卒業生たちのおびただしい数の紋章。
6 17, 2010 11.教育と学びのデザイン, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ボローニャのサンタ・マリア・デッラ・ヴィータ教会(Santuario di Santa Maria della Vita)のピエタ像。
1470年ニッコロ・デッラルカ(Niccolo dell'Arca)作「死せるキリストへの哀悼」。
マッジョーレ広場に面するサン・ペトローニオ大聖堂(Basillica dei San Petronio)にも3人のマリアのピエタがあるが、こちらはなにか説明的で感動に乏しい。
このデッラルカのピエタは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロのピエタ(1498)の静かな荘厳さに比べて素晴らしく動的だ。
すでに冷たくなったイエスの遺骸と中央の聖母マリアの嘆き、急を聞き駆けつけたマグダラのマリアの風になびく衣と手と迫真の表情。
6 15, 2010 10.美術工芸, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
二つの塔は街を歩くといやおうなしに目に入ってくるが、ボローニャを訪れてまず第一に行き敬意と哀悼の意を表したかったのは、街の中心マッジョーレ広場に面する今は市立サラ・ボルサ図書館となっている建物の壁に掲げられた数百人の遺影。
故井上ひさしさんは『ボローニャ紀行』で「二つの塔と並んでボローニャのシンボルであり、もっといえば、この街の精神そのものです」と書いている。
第二次大戦で、イタリアはムッソリーニ・ファシスト政権のもと日・独・伊で「枢軸」を形成し、英・米・仏・露などの「連合国」と対戦した。
1943年には米軍を中心とした連合国軍がシチリアを攻略する。ナチス・ドイツは弱体ムッソリーニに替わり、ナポリ以北のイタリアに進駐して攻防を続ける。
連合国軍はなかなか北上できず、北部イタリアのパルチザンたちは孤立していく。
しかしボローニャでは、占領したナチスとそれに呼応しているイタリアファシスト黒シャツ隊に対して、市民たちはデモ、ストライキ、サボタージュを徹底して行い、1945年4月21日、ついに自力で街を解放した。
この間「パルチザン(遊撃兵)」として参加した市民は約1万7000名、うち2000名以上が戦死あるいは銃殺刑に処された。
戦後、遺族、友人たちが壁に写真を貼ったことがきっかけで今のようになった。
その後、強制収容所で亡くなったユダヤ人、反フランコのスペイン市民戦争に義勇軍として参加し戦死した人等、抗議、反ファシスト権力の闘争過程で落命した人たちの写真が加わっている。
6 13, 2010 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
2006年から07年にかけてヨーロッパをあちこち廻ったときは、ボローニャでの日程はとれず、フィレンツェからラヴェンナに行く途中通り過ぎただけだった。
最近ヨーロッパでは格安というより激安の航空券があるので、ネットで調べ、パリからボローニャへの便を約70ユーロ(ユーロ安でもあり日本円にして¥7,700!)で。
ボローニャのランドマーク、アッシネッリ家の塔(右・高さ98m)とガリゼンダ家の塔(左・48m)。
アッシネッリの建立は1109年、日本でいえば平安後期、鳥羽天皇の頃にあたるからちょっと気が遠くなる昔だ。
ガリゼンダの方は、土台に金をけちったために3.2mも傾き、途中で工事を中止してしまった。アッシネッリも実は1.3mほど傾いているという。
こちらは中の500段ほどの螺旋階段を登ると、ボローニャ特有の赤いテラコッタ屋根が海のように連なる「歴史的市街地(チェントロ・ストリコ)」が眺められる(今回は時間的に断念)。
中世からルネッサンス期にかけ、ボローニャは「百塔の街」と呼ばれるほど塔が林立していた。
180本もあったとういうが現在では15本のみ。
豪族、貴族の富力の誇示でもあり、街の防衛の物見のためともいう。
しかし軍事的防衛の見張り台であれば、街は城壁で囲まれていたのだから、それに沿って必要な数を作ればいいはずだから、やはり権勢、虚栄の象徴の面が大きかったのだろう。
6 13, 2010 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
リモージュの国立高等アート学校(Ėcole Nationale Supleure d'Art)へ。
ここは3年ないし5年間、Art(ここでいうArtは原義としての技術そして芸術)を専門に学ぶ国立学校で、いわゆるアート、デザイン、写真、そしてリモージュの伝統工芸であるPorcelaine(磁器制作)が含まれ、外国からの留学生もたくさんいる。
マルチメディア教育を担当するソニア・マルケス(Sonia Marques)さん。
ソニアさんは、もともとポルトガル出身だが、パリなどで8年間マルチメディアの教育に携わったあと、今年初めからここで教えている。
授業時間外だが熱心に制作をする学生たち。
学生たちの作品がネットにアップされている。
私のところと同じだがここは公開ではなく学内のみ。
中国からの留学生が漢字をモチーフにして作品を作ったりしている。
特徴的なのは、アートもデザインも、リモージュの中心である磁器制作と緊密に結びつけられていること。
6 11, 2010 11.教育と学びのデザイン, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 6, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 6, 2010 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 6, 2010 22.旅先で, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
今日5日の夜発表される賞には、一般視聴者の投票による「パブリック賞」もある。
下記ページからログインし、メールアドレスと自分で設定したパスワードを入れ、3作品を選んで投票(日本時間5日PM11くらいがリミット):
6 5, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 5, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
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6 4, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
6 4, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
さまざまな試行錯誤の後に、もう一度テーマの基本におそらく戻る。
あるいは立ち戻らなくてはならない。
"Je pense à toi"
"I'm thinking of you"
君のことを想ってるよ
あなたのことを想うわ
とはどういうことなのか。
その「pense」「think」「想う」とはどういうことであり、それを「伝える」、その「プロセスや結果」として「コミュニケートする」とはどういうこと、関係の総体なのか。
「情報」を単に整理したり、「効果的」に「伝える」ことだけやってきた人にはおそらく表面的なものしか作れない、人生のこれまでの経験をどれだけ思惟化してきたか、そしてWIFが一貫してコンセプトとしてきた「sensitive」にも関わる深いテーマ。
6 4, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
Team「o(’.’* v(*’w’*)v *’ ’)/」(面白法人カヤック)の林真由美さんは、国内予選のときと同様(ただしiPhoneのカメラでだが)、USTREAMでのリアルタイム動画配信を試みている。
「つうことはあと6時間くらいですよ」
「あと4時間くらいでそちらフィニッシュしてほしいです」
「わかりました」
などのやりとり。
両隣りのイタリアチームの話し声の方が多く入る。
6 4, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏日のような天気の下のESTER Technopoleに、世界から35チーム、約100名のファイナリストたちが制作を始める。
あちこちでまずはミーティング。
台地で風の通りがよく気持ちいい外に出て話し合うチームも。
初期段階で重要なこと:
1. 課題を注意深く十分に検討し、何を求められているか的確に掴むこと。条件についてもすべてを点検し押さえておかねばならない。
たとえば、この課題ではモビリティ(携帯性、移動性)がすべての前提条件。
また、ウェブサイト上で見せるものは、ビデオあるいはインタラクティブなシミュレーションであり、アプリケーションないし機器システムの提案。
「一日のうちで」というのもキーとなる。
2. 課題の目的とカタチ、条件の関係のなかで、何に着目し、どのような視点、角度、アイディアで取り扱うかのコンセプトメイキング。
二人の恋人どうしという存在を抽象的なままで機能を中心に扱うという方向と、二人の人格と関係、「一日」のストーリーやシチュエイションを具体化するなかで見せるという方向ではずいぶんと違ってくるだろう。
24時間の制約があっても、この段階には4〜5時間かけてもいい。
3. ここまでが決まったら、それに基づいた最適な構成プラニングに進む。
1. 2. 3. があいまいなまま、部分作業にわけ入ったり、手持ちのテクニックを組み合わせて作ろうなどとしたらまず失敗する。
4. 実際のデザイン制作作業に入っても、常に1. 2. 3. に立ち戻って点検すること。
5. 仕上げチェックによってきちんと連携しているか、目的通りに動くかといった基本的なことだけでなく、審査で不利になる「未完成感」をできる限り減らし、センスやバランス等を含めた完成度を上げてほしい。
6. ユーザーインターフェイスは、できる限りシンプル、明瞭であること。短時間の審査では、奥の奥に重要なことが潜んでいるとか、どこをクリックしたらいいかなかなか分からないようなものはハネられる。
7. 付属説明にある、短いイントロで、基本コンセプト、アイディアがまず見て取れるようにすることは(よほど巧妙なサイト構成でない限り)絶対に必要。
6 4, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
フランス時間午前11時、課題が発表され、24時間のWebjamが始まる。
課題はフランス語と英語で提示されるが、ざっと訳すと以下:
"Je pense à toi"
"I'm thinking of you"
「君のことを想ってるよ」
愛する人に、モビリティ(携帯・移動性)を条件に、あなたの存在・大切な思いをコミュニケート・伝えなさい。
一日のあいだのふたりの恋人どうしで、存在(思い)を表明する(記す)パレットをイメージしなさい。
ウェブサイト上での、ビデオやインタラクティブなシミュレーション(サウンド、イメージ、アニメーション、対象あるいは他の環境の要素、ジェスチャーなども含まれうる)によって、経験の様々な瞬間や、注意・関心の表明・表現を例証・説明するためのウェブアプリ、モバイルアプリ、コミュニケートするモノ(機器)を提案しなさい。
文脈・脈絡(場所、時刻、まわりの人々)をはっきりさせるために、もし適切と思えば、短いイントロダクションと同時にデザインの基本的な考え方を示しなさい。
6 3, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
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6月3日午前11時(日本時間午後6時)から、WIF2010の24時間Webjamがフランス、リモージュで行われる。
パリでun-T factoryチームとも合流し、リモージュの会場(Ester Technopole)へ。
国際本選に選抜された、日本からの3チーム。
Team「o(’.’* v(*’w’*)v *’ ’)/」(左から林真由美、飯塚直、島田工聖さん)
Team「un-T Factory ! Team STARMOUNTAIN」(左から中野章一郎、星山哲廣、廣岡良さん)
「Team Reverie」(左からニコラス・ケンプ、松原正享、小野健太さん)
WIF2010サイト
6 3, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ドバイから同じくエミレーツ航空パリ行きに乗継ぎ。
たぶんサウジアラビアを横切ってカイロ上空辺りから地中海を一直線、と思っていたらまったく違った。
飛び立った後、ペルシャ湾をぐんぐんと、まるでパパ・ブッシュ「湾岸戦争」時の米軍のように奥へ進む。
やがてクウェート。
パパ・ブッシュはここで軍を止めたが、ブッシュ・ジュニアの命のように機はイラクに入る。
バスラ、ナジャフといった「イラク戦争」で馴染んでいる南部の要衝の名が画面に現れる。
あのファルージャからバグダードの間、蛇行するチグリス河とわずかな畑、米海兵隊が次々と「制圧」しただろう点在する家々を見て思わず少し涙した。
バグダード近郊を過ぎ、北東キルクク、モスルといったクルドの人々が暮らす地を飛び、シリア東端をかすめて、同じくクルド人が差別のなかで多く暮らすトルコ東部山岳地帯へ。
時速900Kmでトルコを北西へ横断、ほどなく黒海へ抜ける。
ルーマニア上空からヨーロッパに入る。
ハンガリー大草原からスロヴァキア、そして、プラハ、ドレスデン、ライプチッヒと訪れたことのある街を飛び越えパリへ。
6 2, 2010 22.旅先で, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
もろもろの事情でぎりぎりまで航空便が決められず、出発数日前にドバイ乗継ぎのエミレーツ航空にした。
で、ドバイへ。
成田を旋回して北アルプスあたりに達すると、後はひたすら西へ向かう。
富山の南で日本海に出、慶州あたりから韓国を横断。ソウル南を黄海へ。高度12,000mでは右手におそらくは平壌の灯が見えるだろう(灯火管制しているだろうが)。
大連から北京を通り、チベット北部、新疆ウイグル地区から崑崙山脈を越え、アフガニスタン手前パキスタンのペシャワール付近でようやく南西に進路を変え、アラビア半島からペルシャ湾に三角に突き出たアラブ首長国連邦ドバイに至る。
この航空ルートは私にとってはとても想像力をかきたてられる。
往きは夜なので街の灯の他は見えないが、飛んでいるこの下の人々の歴史と生活と様々な苦難を想う。
6 2, 2010 22.旅先で, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 21, 2008 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 20, 2008 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 11, 2008 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 10, 2008 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 9, 2008 18.花・木・野菜・生きものたち, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 8, 2008 18.花・木・野菜・生きものたち, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 7, 2008 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 6, 2008 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
WIF2008のクロージング・セレモニーで、国立リモージュ大学の学長(Jacques Fontanille)と同席できるようスタッフが手配してくれて話し、後日あらためて大学を訪れる。
リモージュ大学(Université de Limoges)は国立の総合大学で、人文関係から人間工学、ケミカル、ITの最先端科学技術まで、リモージュ市内を中心に多くのキャンパスを持っている。
学生数は5200名。フランス語圏だけでなく海外からの留学生も多く集めている。
日本からも10名ほどの留学生がいるそう。
特に明治学院大学は毎年4~5名の短期(1年間)留学生を送っている。
学長のJacques Fontanille教授(中央)は「意味論(Semiotics)」の国際的権威。
副学長のMichel Théra教授(左)は数学者。
リモージュ大学が「e-Pole」と進めているウェブデザインのプログラムとの交流を手始めに進めたいむね話し、担当責任者を紹介してもらう。
5 6, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
「パリでチベット料理」で触れたオーナーが1979年にオープンしたパリのサン・ジャック通りのチベット雑貨店「La Route du Tibet(ラ・ルート・デュ・チベ)」で購入したポシェット。
もちろん今の中国が支配するチベットから直接輸入などできない。
インド、ネパール、ブータンなどに逃れたチベット人たちに仕事の機会を提供し、パリジャンたちにチベットの文化を伝える。
フランスのデザイナーがコーディネイトし、チベット人が制作することも。
このポシェットはネバールの亡命チベット人が作ったもの。
5 4, 2008 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 4, 2008 18.花・木・野菜・生きものたち, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
5 3, 2008 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
Baggageの荷重制限を甘く見ていたのが失敗。
ヨーロッパを3ヶ月まわったときは、荷物はもちろん重かったが、ほとんどすべて鉄道なので、重量数量制限は無く、またあちこちから本、資料など重いものは日本へ郵送していたので最終的な帰国時便に問題はなかった(リスボン〜チュニスの空路でExtra Chargeを150ユーロほど取られたが)。
今回の渡仏の荷物は、フル撮影機材などで行きは24Kg。Air Franceはリミット20Kgなのだがなんとか通る。
しかし帰りは本、資料などが加わりスーツケースは43Kg。
これは見逃してもらえなかった。
搭乗時間が迫っているので、今更なにかバッグを買って23Kg分減らすなど不可能。
まともにExtra Chargeを払うと780ユーロ(12万円)かかるという。
なにか他に方法はないの?
カーゴで別送扱いならもっと安くなるはずですが…。
それでも308ユーロ(48,000円)払うことに。
で、別送品到着の連絡を受け、成田空港まであらためて。
代行を頼むとさらに3〜4万円かかる。
空港ビルから1Kmは離れた、大型トラックやフォークがびんびん行き交う貨物ターミナルで、書類申請、税関届け、審査、受け取りとあちこちのビルに行かされ、いっぱい書類を書かされる。
ほぼ一日がかり、交通費、手数料等で1万円超。
5 2, 2008 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
リモージュの「アドリアン・デュブーシェ国立博物館(Musée National Adri en Dubouché)」で、古い「リモージュ・ボックス(Limoges Box)」を数十点撮影させてもらう。
友人の美術工芸史家の池田まゆみさんが原稿を準備しているリモージュ・ボックスの本のためのもの。
ヨーロッパの磁器博物館はずいぶん観たが、世界中の磁器に関してここほど集め、かつ歴史的系統的に展示しているところはない。
だから磁器工芸に関して研究したかったら、まずここを観るのが一番いい。
ルーブルやドレスデンのツヴィンガー宮殿にはたしかに最高のものが集められているが、やはり奢侈にまかせたものが多く、またヨーロッパ各地の産地の美術館はその地のものが中心。
前庭に咲く、花びらの先が尖った日本ではあまり見ないチューリップが美しい。
4 28, 2008 10.美術工芸, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
パリは移民の街であり亡命者たちの街。
異質の文化が常に出会い、もちろん摩擦を生み、しかしお互いに受容し、共生してハイブリッドの新しい文化を不断に作り続ける街。
パリにはチベット人が100名以上は暮らしているという。
特にカルチェ・ラタン、パンテオンの丘のあたりは「Little Tibet(リトル・チベ)」とも呼ばれるほど料理、雑貨、アクセサリー、本屋などが集まる。
1959年のダライ・ラマ亡命時、家族に連れられてインドに逃れ、フランス留学の機会を与えられたのを期に26年ほど前からパリに住む女性が、1979年にまず雑貨店を開き、82年にはパリ初のチベット料理店「Tashi Delek(タシ・デレック)」をオープンする。
午後8時、まだ外は明るいが店内は客がいっぱい。
子連れの「普通の」フランス人家族や、パリジェンヌのグループ、独り黙々と食べる初老の男性などなど。
「ツァム・タン(Tsam thang)」(麦焦がしスープ)
チベットは高地で米はとれない。大麦を乾燥させ、軽く焦がして粉にしたものを主材料にしたものが「ツァンパ」料理。
本来は「ヤク」のチーズを入れるのだが、もちろんチベットから輸入などできないので、代用品を工夫している。
歯にあたる具はニンジンの細切りと少しのハーブしかないのだが、とろっとしたスープは倍煎茶のような香りと奥深い滋味に溢れている。
アムド地方のパンと。
チベットの餃子「モモ(Momo)」
パリでも人気のよう。皆注文している。
テーブルに「キッコーマン」も置いてあるのだが、何が原材料かわからないタレととても合う。
私にちょうどいい分量だと思っていたら、下段もあった。
食後の塩とバターの茶が実に旨く、短いが濃密だった12日間の滞仏の疲れを癒す。
静かにかわす "Free Tibet !"
4 26, 2008 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
2週間前に日本で会っていたばかりのパトリック(Patric Audevar)と奥さんのシャンタル(Chantal)が、私が田舎を好きなことを良く知っていて、息抜きに郊外に連れ出してくれる。
リモージュ市街をちょっと出ただけでリムーザン(Limousin)地方の美しいカントリーサイトが拡がる。
連日の雨でヴィエンヌ川の流れも速い。
畦に咲く可憐な花々。
「Paquerettes Montgifaud」という花だそう。
パトリックは花や植物模様もたくさん描くのでよく観察しており詳しい。
なだらかに続く丘陵の牧草地に、羊、牛、馬、ときにロバがのんびり草を喰む。
4 26, 2008 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
フランスを代表する新聞社「リベラシオン(Libération-fr)」が運営する有名サイト「エクラン(écrans)」に「今日のサイト(La Site du jour)」として、WIF2008国際コンペで「オリジナル賞」を受賞した日本チーム(Team203)の作ったサイトが、予選のときの作品「Life Pool」とともに紹介されている。
4 25, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
グランプリはスウェーデンの「Team TORSK」
2位はブラジルの「Bope」
3位はインドの「1st DECEMBER」
エスポワール賞はフランス、ストラスブール大学生などの「Team Rigaud」
各サイトは
こちらから
4 21, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
4 21, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
私を含めた国際審査員11名による40チームサイトの評価審査は何度もの投票、議論を4時間にわたり行いようやく終わる。
くたくたなのだが、今回のWIF2008に初めて参加し貢献したということで招待客、WIF関係者、コンペ参加者たちが一同に会するクロージングセレモニーでスピーチすることに。
日本のウェブクリエイターがおかれている状況、克服すべき課題とWIFコンペへの初参加の意義、多摩美術大学上野毛デザイン学科でのコミュニケーションデザインとしてのウェブデザイン教育の取り組み、リムーザン、リモージュとの私の関わりと思い、今後のWIFやリモージュ大学との共同関係の深化などについて、英語でスピーチ。
リムーザン地方長官、国立リモージュ大学学長などと一緒のVIPテーブルに戻ると、地方長官が握手の手を差し伸べてくる。
4 21, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
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4 19, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
「e-mailによるコミュニケーションは2020年にはどのようなものになっているだろうか、それはまだ存在するのだろうか?
電子的なメールのための将来のインターフェイスを考え、将来的なビジョンをウェブサイトとして完成させなさい。
創造性、独創性、革新性が望まれます」
難問だ。
まず2020年という設定をどうとらえるか。
ここ2〜3年から5年程度の「ある程度」予測できるだろう時ではなく、さりとて2050年などという、私などの世代がいなくなってからでもない12年先。
そして12年前の1996年といえばインターネットが日本でもようやく黎明期から普及期へ移行しようとするくらいのスパン。
その後は年々加速度がつき、携帯の普及で携帯メールが爆発的に普及した。
しかしここはたぶんあまり厳密に考えず、また経済的・技術的な予測などにとらわれず「近い将来」程度にとらえた方がいいだろう。
ただ、2、3年先の話ではないのだから、iPhoneの手直し程度のインターフェイスの提案では評価されない。
「コミュニケーション」ということを、日頃からどれだけ深く、広く考えているか、その上にたって電子的なコミュニケーションツールや環境の意味をとらえているか、が問われるだろう。
アラン・ケイが「Dyna Book」を構想したときくらいの、あるいはもう「インターフェイス」などということが意識されないくらいの、夢のある提案が出てきてほしいが、24時間でウェブサイトとしても完成させなくてはならない。
日本からの2チームを含め世界14カ国からの40チームが今現在苦闘している。
あなたならどうプラニングする?
4 19, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)
4 18, 2008 09.ネットワーク・コミュニケーション, 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
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4 16, 2008 27.ヨーロッパ行・考, 32. WIF(Webdesign International Festival) 2008/2010 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
イタリア中部ウンブリア地方の州都ペルージャ。
標高500mほどの山の上にあり古くウンブリ人が住んだ(彼らに関してはほとんど分かっていない)。
その後エトルリア人が紀元前5世紀頃城壁都市を築く。
彼らが築いた周囲3キロメートルほどの城壁は今も残されている。
毛利元郎さんの扉の絵はこの城壁に作られた門だ。
中心にあるクワットロ・ノヴェンブレ広場際のバルで一休みしていると、雪が降り始めた。
「イタリア中世のもっとも美しい噴水彫刻」といわれるフォンターナ・マッジョーレ(1278)に雪が降りかかる。
後ろにあるサン・ロレンツォ大聖堂はこの噴水より100年も後で建てられた。
古代、中世から現代の営みまでが溶け合った街並みを雪の中歩く。
エトルリア人が紀元前4〜5世紀築いた堅牢なアーチ石門(アルコ・ディ・アウグスト)。
彼らは前3世紀ローマに屈するが、ローマも城壁や石門は焼き尽くせず、その上にイオニア柱やアーチを付け加えた。
後にローマ帝国の巨大領土に広めたアーチ式建築(ローマはギリシャ文化から多くを学ぼうとしたが、ギリシャ人はこのアーチ式建築は知らなかった)はエトルリア征服から学んだもの。
2 13, 2008 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
プラハの「Museum of Communism(共産主義博物館)」の入り口表示。
ロシアのマトリョーシカ人形が牙をむいている。
実質的に支配したソ連共産党幹部の執務室を再現。
ときどき電話が鳴り、当時のラジオ放送が流れる。
共産主義時代のほとんど何も商品がない食料品店。
当時の小学校の制服と教科書。
貧しい農民の農機具。
取り壊された「ベルリンの壁」の一部を展示。
ソ連軍戦車に圧殺された1968年「プラハの春」の後、永い苦難を経て1989年「ビロード革命」に至る。
1989年「ビロード革命(Velvet Revolution)」で連行される女性。
1989年「ビロード革命」。
ソ連は崩壊し、初代ボヘミア王ヴァーツラフに由来するヴァーツラフ広場を埋め尽くす民主化を求める100万の市民に対し軍事介入する力はすでになかった。
彫像はヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel 1936〜) 。
チェコの劇作家。チェコスロバキア大統領(1989〜92)、チェコ共和国初代大統領(1993〜2003)。
2007年2月撮影のヴァーツラフ広場。
プラハ随一の繁華街。
2 10, 2008 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
プラハの「ドヴォルザーク博物館」の前で。
いかにも胡散臭げな連中だという目つきでわれわれを見上げるビーグル。
Partnerの撮った写真はこちら。
開館を庭で待つ間に駆け寄ってきた人なつっこいミニチュアダックス。
2 9, 2008 24.犬と暮らす, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
WOWOWで放映している全米TV視聴率No.1の科学捜査ドラマ「CSI(Crime Scene Investigation)科学捜査班」シリーズ(ラスベガス・ニューヨーク・マイアミ)は事件現場に残された些細とも思える物的証拠の緻密な科学分析とチームメンバーの人間描写が大好きで、仕事をしながらよく横目で見ている。
なかでも「CSI・マイアミ」のホレーショ(デヴィッド・カルーソ)が最高だ。
犯罪者を人間として見つめ、しかし被害者の立場にたって犯罪自体を絶対に許さない姿勢、チームリーダーとしての采配とメンバーへの心配り…。
写真はハンガリー、ブダペスト市内で見かけた「CSIマイアミ」の番組広告(2007年2月撮影)。
中国産餃子中毒問題を、「そこまでは調べなかった」とかなにか半素人っぽく、連絡・報告もバラバラな日本の検査機関ではなく、できるなら彼らに委ねてみたい。
ホレーショの決めぜりふ「お前を必ず捕まえてやる」。
2 5, 2008 19.食と農、健康と病, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
マルセイユからバルセロナへ遅延と乗り継ぎ不能で明け方まで12時間半の旅となった途中駅、たしかモンペリエ(Montpellier)とナルボンヌ(Narbonne)の間だと思う。すでに二人とも疲れ切っていて駅名も確認できなかった。
南仏ラングドック(Languedoc)の土地の人々や街の風景が針金細工で駅舎の壁に浮かして付けられ、暖かい照明で陰影を刻む。
8 30, 2007 10.美術工芸, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
日本では「ホームレス」はいても「乞食」「物乞い」というのはもう死語になっているだろう。
しかし現代のヨーロッパでは60ほどの街を訪れたがどの街にも必ず「乞食」「物乞い」がいる。
カシードラル(大聖堂)の入り口にはまずいる。縄張り争いなどもしている。
フィレンチェの教会前では乳飲み子を抱いた乞食をみた。
旧社会主義圏で社会福祉に比較的成功してきており、ここにはいないだろうと思っていたプラハにも、空き缶を前につっぷしている男を街の中心部で見かけた。
実際のところの貧窮度と生きていかれるのかどうかはわからない。
キリスト教的喜捨精神の伝統のなかでそれなりに暮らしていけるのかもしれない。
写真はパリ、ルーブル美術館そばの繁華街で。
小銭を渡し、犬を撮らせてほしいというと、暗い目をして男に寄り添っていた犬がぱっとうれしそうに立ち上がって私の手をなめた。
7 3, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック(0)
ヨーロッパ3ヶ月行の写真画像データはコンピュータ、ハードディスク環境の問題がいろいろあり、まだきちんと整理できていない。
で、たまたま「日付不明」などとなっていた画像データの気まぐれアップ(撮影は1月22日)。
ナポリのサンタ・ルチア港そばのカフェでビールと絶品のオリーブをつまみながら、深まる夕景を眺めて。
6 29, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
1946年の第1回以来60回目になるカンヌ国際映画祭が開かれている。
かつて映画少年だった頃、アメリカのアカデミー賞などというハリウッドのお祭りは鼻でせせら笑い、カンヌのグランプリ(今はトロフィーの形にちなみ「パルム・ドール Palme d'Or 黄金の棕櫚の意と呼ばれる)を最高の指針として考え、その当時都内あちこちにあった名画座の上映予定広告に目をこらしていたものだった。
こうして、ナチスに対するレジスタンスを描いたルネ・クレマンの『鉄路の斗い』(46年第1回グランプリ)に始まり、キャロル・リード『第三の男』(49年第3回グランプリ)、フェデリコ・フェリーニ『甘い生活』(60年第13回パルム・ドール)、ルキノ・ヴィスコンティ『山猫』(63年第16回パルム・ドール)などの世界にわけいっていった。
ニュースでおなじみ、映画祭メインホールのあるパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ(Palais des Festivals et des Congres)正面の赤絨毯で。
5 17, 2007 12.写真・映像・映画・演劇, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ヨーロッパ旅行中に泡風呂の気持ちよさにすっかりはまってしまった。
子供の頃の1950年代東京。
大家族で、銭湯の時代ののち、木製の小判型をした上がり湯がついている家庭用ガス風呂が入っても、そのような風呂の入り方は想像もつかなかった。
スクリーンの中で、エリザベス・テーラーが、ナタリー・ウッドが、カトリーヌ・ドヌーヴが、すんなりした脚をときどき泡の中から上げるさまを、あこがれを思い切りこめて少年は眺めていたものだった。
4 29, 2007 25.My Ex Partner, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
写真はわかる。
写真に撮られ、その中に撮されているということは現代のリテラシーとしてすんなり受け入れられる。
では絵画(それがどのような種類のどのようなレベルのものであれ)に自分が描かれ、それが残されるということは、写真とはどう異なる意味を持つのだろうか。
君は永遠を得たいとは思わないか、とどこかの画家がモデルをくどくとき言ったような気もするが…。
Partnerによる記事はこちら
4 11, 2007 10.美術工芸, 25.My Ex Partner, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
フランス・リモージュからパトリックのアトリエのあるサン・ティリエ・ラ・ペルシェ(Sant-Yrieix-la-Perche)に行く途中で。
車を停めてロバの写真を撮ろうとしていると柵まで寄ってくる。
「無断掲載禁止と言いにきたのさ」と運転しているパトリックが冗談を言う。
ロバは古代エジプトで改良・家畜化され運搬・灌漑・脱穀などの用途で世界にひろまった。馬より粗末な餌でもよく働き40年以上生きる。
カイロでは荷車をひいているのをたくさん見たが、ここではそんな必要はないだろう。何のために飼っているのかと聞くと「ただ楽しみ(喜び)のため」なのだそうだ。
ロバは、従順と柔和から頑迷と知性の欠如、はては過度の性欲までさまざまな象徴として扱われ、文化史的にみてもおもしろい。
3 29, 2007 18.花・木・野菜・生きものたち, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
イタリア中部、トスカーナの東端、アレッツォ(Arezzo)の大聖堂で結婚式に行き会う。
アレッツォは新興ローマなどよりはるかに古いウンブリア文明以来3000年の歴史を持つ町。
中央に飾られているのはピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca )のマグダラのマリア(Maddalena di Piero)。
マグダラのマリアは明らかにイエスの妻であり、サラという娘も産み、イエスの死後フランスに渡ってメロヴィング朝にダヴィデ以来のイエスの家系が残されたという説はあながち荒唐無稽ではない。
神の子が妻帯したり子供がいては困ると考えた正統ローマ教皇庁は、6世紀、グレゴリオ1世がマグダラのマリアは罪深い女で改悛した娼婦だという声明を出し、1969年(!)に密やかに撤回するまでそのイメージを流布した。
実際は厳格なユダヤ教ラビの家系のユダヤ人イエスは当時の律法からして結婚は必須のことであり、とりわけダヴィデの直系である彼には子供をつくることは絶対の義務だった。
イエスの磔刑、埋葬、そして「復活」に立ち会ったとされる彼女をおいてイエスの妻は他に考えられない。
メル・ギブソンは『パッション(受難)』(2004)でモニカ・ベルッチ演ずるマグダラのマリアをそのように描いている。
教皇庁の声明にもかかわらず、マグダラのマリアへの信仰は太古の女神とも結びつき各地で根強く残った。
3 24, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
長旅に重い本はもちろん持って行きたくない。
しかし昨秋翻訳が出た『西欧言語の歴史』(アンリエット・ヴァルテール/平野和彦訳/藤原書店)だけは600ページほどの大著なのだがずっと持ち歩いた。
「西欧」と邦題につけられているが原タイトルは "L'aventure des Langues en Occitent" であり、扱っている言語も狭い意味での西ヨーロッパではなくヨーロッパ全体にわたる。
今回の旅行はヴァチカン市国も含めれば西欧・南欧・中欧・北アフリカ14ヶ国にわたり言語もさまざまだ。
あちこち移動するたびに、そこで話されている言語についての章を読んでいた。
日本人はフランスはフランス語、イタリアはイタリア語、ドイツはドイツ語などと無意識にのっぺり「国」と結びつけてしまうが、いうまでもなく現在の政治的国境範囲と人々に使われている言語は一致しないし、「国語」などという日本的なイデオロギーは存在しない。そんな単純に考えていたらスイスはスイス語、オーストリアはオーストリア語などというおかしなことになってしまう。
それぞれの国の公の議会や役所や文書で使用される「公用語」ということにしても、例えばベルギーではオランダ語、フランス語、ドイツ語と3つあり、ルクセンブルクの公用語はフランス語とルクセンブルク語の2つだが、多くの国民はドイツ語を日常的に話している。スペインのカタルーニャ語、バスク語、英国のウェールズ語のように「地方公用語」というものもある。
ヴァルテールはそのような区分からではなく、7000年の昔、黒海の深奥から移動を始めた騎馬民族が数千年をかけて大草原から大西洋、地中海にいたるヨーロッパ全土に移動し、先住者たちとの接触のなかでいかに多様な分岐を生み出してきたか、そしてそれにもかかわらず「インド・ヨーロッパ(印欧)語」という共通の起源を持つものであること(例外としてハンガリー語はウラル語族、バスク語は印欧語ではないことは明確だが起源は不明)、スラブ系(ロシア語、ポーランド語等)・ゲルマン系(英語、ドイツ語、オランダ語等)・ラテン系(フランス語、スペイン語、イタリア語等)とまったく違うようにみえても互いに影響しあって現在の言語状況があること、ある地域地方の言語にすぎなかったものが近代史のなかでどのように特権的な地位を占めるようになったのか等々を実にわかりやすく説く。
写真はスペイン、サンティアゴ・デ・コンポステラの宿、Hotel "Reyes Catolicos"(カトリック両王のホテル)内サロンの見事な木彫り丸テーブルで。
1499年巡礼者のための宿泊施設兼病院として建てられたものが現在パラドール(スペイン国営の宿泊施設)となっている。
3 15, 2007 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 14.読書三昧, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ヨーロッパ3ヶ月の旅の最後の夕食は、ロンドンーパリのユーロスター車内で軽食が出たので、重いものを食べる気になれず日本そばの店、サン・ジェルマン・デ・プレの「YEN」。
オンワードがやっている。
漬け物10ユーロ(約1600円)、そば味噌7ユーロ(約1000円)などなどなかなかいい値段。
鹿児島の芋焼酎と。
冷や奴がクリーミーでおいしい。そばもコシがあり旨い。
帰り際に気づいたが、12月にパリに来たときに偶然出会ったTBSの池田裕行さんにまたばったり遭遇。
3 9, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
Blogをアップする環境、時間が無く(いずれアップします)、とんでとんで……、ミュンヘンからアステルダム、ハーグ、デルフト、アントワープを経て、ブリュッセルからユーロスターでロンドンで一時帰国していたPartnerと合流。
翌朝、ハイドパーク脇のホテルに荷物を預けて身軽になり、由緒正しいブラックワゴンタクシーでパディントン駅へ、
喧噪と雑踏のロンドンとはさっさとおさらばして週末から4泊5日のコッツウォルズへの小旅行。
パディントン駅から50分で学園都市オックスフォードへ。
何層にも重なった雲が美しい。
オックスフォードのAvisでレンタカーを借りる。
運良くあったオートマチックの真新しいプジョーで。
ルートも泊まるところもはっきり決めてはいない、現地に行っての感触で判断する。
3 4, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
コートを探し出すのに手間がかかり、アムステルダム行きの発車時刻まで1時間少しになってしまった。
ミュンヘンはもちろん見所が多いが、残された限られた時間でどうしても見ておきたい、とタクシーをとばしてミュンヘン大学(正式にはLudwig-Maximilians-Universität)大講堂へ。
「白いバラ(Die Weiße Rose)」はハンス・ショル(Hans Scholl 1918-43)を中心に、その妹ゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl 1921-43)らミュンヘン大学の学生5名、クルト・フーバー教授が組織したナチスへの非暴力レジスタンス運動。
今の日本の学生にはなかなかイメージできないだろうが、第二次世界大戦下であり、彼ら学生もフランスへの侵攻やソ連との苛烈な東部戦線にかり出された帰還兵。特にスターリングラード攻防戦(1942.6〜43.2)でドイツ軍の精鋭30万が壊滅し敗走を始めたことを受け、一段と活動を先鋭化させた。
43年2月18日、講義終了にあわせて一斉に6冊目のリーフレットが学生たちに配布される。
ゾフィーが最後の一部を中庭の屋根から撒いたのをナチス党員である大学の守衛が通報、彼らはゲシュタポに拘束され、22日の裁判で反逆罪による死刑判決、その日のうちにギロチンの露と消えた。
ハンス 享年24、ゾフィー 享年21。
写真は、大講堂の入り口前の彼らの制作配布したリーフレットを復元したレリーフ。
白いバラのようだ。
通りがかった学生に聞いてメインホールの一角にある6名の彫像へ。
真新しいバラが供えられている。
この一角は「Geschwister-Scholl-Platz(ショル兄妹広場)」隣接する広場は「Professor-Huber-Platz(フーバー教授広場)」と名付けられている。
『白バラの祈りーゾフィー・ショル、最後の日々』(監督:マルク・ローテムント 主演:ユリア・イェンチ 2005)は昨年1月日本でも公開されDVDも出たので帰ったらぜひ観直したい。
3 1, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
昨夜遺失物係から聞いた電話番号にかけると、英語で大丈夫だと言われていたのに通じない。
ホテルのレセプションで替わりに電話してもらうと「そんなものはない」と言われる。
そんなはずはない、ライプツィヒの係員がミュンヘンにあると言ったと食い下がっても「よくあることですよ」と肩をすくめるだけでまたまたラチがあかない。
ジャケットの上から着られるようなコートは薄いものしか持っていなかったので旅行前に買ったもの。
ポケットにはドレスデンのアイグナーショップで買い気に入っていた手袋も入っている。
落胆するが諦め切れず再度駅の遺失物係に行くと、昨晩の官僚的な男とは違う親切な女性が対応し、2ヵ所ほどまわって薄暗く冷え冷えとした保管庫で見付けたときは、おおこんな寂しいところでよく我慢して待っていてくれた、これからは離さないよといとおしい気持ちでいっぱいになる。
2 28, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
※写真はポーランド・クラクフのユダヤレストランで
私は日本人男性としてはけっこう長髪で分量も多い。おまけに体格も華奢で髭もいくらかの割合のイタリア人女性より薄いくらい。
ヨーロッパの男性はほとんどが短髪だ。
こちらの人にとっては日本人とあまり区別のつかない中国・韓国系の観光客も皆短かく刈り込んでいる。
アラブ系の男性も短い。友人の松田嘉子さん(ウード奏者・アラブ音楽研究家・多摩美大教授)によると、宗教的なものというよりアラブ系の男性は縮れ毛で伸ばすと爆発したようになってしまうので短くするのだそうだ。たしかにチュニジアでも多少長めの人はこってり油でなでつけていた。
こちらに来て私より髪が長く多い男性を見かけたのはもう3ヶ月近くあちこち廻っているのに10人もいない。それも観光客らしい人がほとんどだ。
しか〜し、私ぐらいの髪のおば(あ)さんはそこら中にいるのである。
で、よく女性と間違えられる。
服装で分かるかというとそんなことはない。
ほとんどの女性がパンツルックだし、冬場でコートをはおりマフラーを巻いていてはアクセサリーも胸のふくらみもわからない。
ワルシャワのエレベーターで乗り合わせたおばさんは髪の毛も私とほぼ同じ分量、同じ色合いで、同じような黒のタートルネックセーターに同じようなグレーのヘリンボーン柄ジャケットを着ていて思わず話をかわしたが、やはり私のことを女性だとばかり思っていた。
話せば判別されるかというとそんなこともない。
ベルリンの本屋の店員とこういう本はどこにあるかとか色々話したが、帰りに「ダンケ・シェーン、マダーム」と言われた。
リスボン空港では金属探知機のアラームが鳴ったためボディチェックした(!)警備員に「行っていいですよ、マダム」。
チュニスでは客引きのタクシードライバーがしつこく「マダ〜ム、マダ〜ム」とつきまとい、ついにキレて「Not Madaaaaaa〜m !」とできるかぎり低い声で吠えた。
フィレンツェのカフェでは並んで待っている女子トイレを横目に男子トイレに入ろうとしたら、「No! No! そっちは殿方用よっ!」と厳しく注意された。
あの〜、わたくし一応殿方なんですけど…。
Partnerが一時帰国して独りで行動するようになってからは間違われる確率はさらにぐんと高まった。これでネックレスでもしてみたら100%だろう。
ベルリンで3泊したホテルの朝食担当ウェイトレスは最後まで私を女性だと思いこんでいた。
今朝も郵便局で本を日本に送るためのパッケージ用ボックスの組み立て方にとまどっていると、近くにいた男性が駆けよってきて「こうするんですよ、マダム」とやさしい口調で親切に手伝ってくれ、20Kgほど本を詰め込んだ箱を窓口まで運んでくれる。
私のことをどこの国の人かははっきりとは分からないが異国の空の下で困っているおば(あ)さんと思ったのだろう。
う〜む、だんだん慣れてきて、マダ〜ムと呼びかける声がすると反応して振り向くようになってしまったではないか……
2 27, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック(0)
ライプツィヒの街をいろいろ歩き回ったあと「カフェ・バウム(Caffe Baum)」へ。
創業はカフェとしてはヨーロッパ最古の1556年というから、信長が清洲城を制圧し今川義元との桶狭間の戦いをひかえていた頃だ。
かつてシューマンやメンデルスゾーンらが集い、音楽論議にふけった1階カフェの一角。
2階はすばらしいレストランになっていて、シューマンが愛好したという骨付き肉などライプツィヒ料理が食べられる。
毎日さまざまな空間、場に身を置き、動きまわり、初めての事物、人々と接し、その土地土地の酒と料理を食し、長期滞在型と違って数日(時に1日)ごとに重い荷物をひきずって移動し、必要なデータ保存とバッテリーの充電をし、疲れ切って眠る、という生活を続けてきた3ヶ月にわたる旅もあと10日あまり。
身体的な体調はすこぶるいいが、精神的にはかなりのフラストレーションが溜まっている。
ネット環境の問題ももちろんある。
しかし根本的には、体験したこと、感じたこと、考えたことを、写真を含め自分のなかで推敲・整理し、文献資料を調べ、関係づけ、文章化を含めたなんらかの形で記録・表現するということをする時間的余裕がほとんどないからだ。
コンピュータ用語で言えば、「Input(入力)」ー「Process(処理)」ー「Output(出力)」という一連のサイクルのうち、「Input(入力)」が99.999…%の割合で、生データがメインメモリーにどんどんストックされたままほとんど処理も出力もできないという状態。
2〜3週間ならともかく、このアンバランスな状態は私にとっては3ヶ月がそろそろ限界だなと思いながら黒ビールを飲む。
2 27, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
で、デッサウはあきらめ、思いがけずライプツィヒに来てしまった(余裕があれば来たかった所だが)。
1915年に造られたライプツィヒ駅は鉄道駅としてヨーロッパ最大規模のもの。
なにしろ間口だけで300mもあり何層にもなっている。
ここに保管されているとばかり思って駅の遺失物係のようなところに行くと、書類を書かされ、それはミュンヘンに行っているであろう、と言われる。
数時間後に再び行くと、確かにそのコートはミュンヘンで保管している、というのでちょっと安心。
ベルリンに送ってもらえるかと聞くとそれはできない、ミュンヘンに取りに来い。
明日ベルリンから西のアムステルダムに移動する予定だったのだが、変更して南のミュンヘンへ向かわねばならない。ドイツの南北のたぶん8割くらいに渡る距離。
アクシデントや予定変更は楽しむことにしている。
まあ、それはそれで色々な風景を観られるし、旨いビールもまた飲めるし…。
2 26, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
今日はベルリンから約1時間40分ほどのデッサウ(Dessau)に行き、バウハウスを見て回ろうと思っていた。
が、本を読んでいて乗り換え駅(Lutherstadt Wittenberg)が近づいて来たのに気づかず、あわてて降りた際、座席の後ろにかけていたコートを車内に置き忘れてしまった。
デッサウ行きのホームに行ったところで気づき、駅のスタッフに事情を説明してこの列車と連絡をとって次の停車駅に預けてもらうよう頼む。
英語を解さないおばちゃんは、事情は理解したようなのだが、それはできない、私の仕事ではない、とニベもない。
駅前で当たり屋らしい腕を痛そうに押さえている男を尋問していた警官に頼み、再度おばちゃんにかけあうが、おばちゃんは何かやるそぶりは見せるがラチがあかず、警官は行ってしまう。
どうしたものかとホームへ戻ると「DB(Die Bahn)」(ドイツ鉄道)のマークを着けた交替要員のような人がいたので(この人も英語はできない)、なんとか事情を説明し、次の停車駅にキープしてほしいと伝え電話してもらう。
で、彼はこの電車がこれから停まるライプツィヒに行け、と言うので次の電車を待っているところ。
ヨーロッパに来て2ヶ月半、いわゆるホームシック的な感情を抱くことは一度も無いのだが、犬を見るとどうしてもMicのことを想い出し会いたいなあと思う。
2 26, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
ヨーロッパを廻って、実にさまざまな聖人像、磔刑像、ピエタ像、聖母子像、偉人・為政者像、噴水、ギリシャ・ローマの彫刻などに接して来たが、この彫像ほど心を打たれたものは無い。
ワルシャワとその周辺には第二次大戦前、ニューヨークに次ぎ世界で2番目、ヨーロッパで最多の約45万名のユダヤ系市民が暮らしていた。
ポーランドを占領したナチスは1940年広大なユダヤ人居住区(ゲットー)を建設し、煉瓦塀をめぐらして普通に生活していたユダヤ系市民を強制収容する。
ワルシャワ北東約90Kmに「トレブリンカ絶滅収容所」を造り、1942年までにおよそ30万人を即抹殺の列車に送り込み(この中には有名な「コルチャック先生」と孤児たちもいた)。さらに10万人の市民をゲットー内で殺し、あるいは劣悪な環境下で病死させた。
先に書いた「ワルシャワ蜂起」に先立つ1943年、ゲットーの人々は人間としての最後の尊厳をかけて絶望的に決起するが、ひとたまりもなく鎮圧虐殺され、ゲットーは徹底的に破壊された。
旧ワルシャワ・ユダヤ人ゲットー地域の中心に1948年に建てられた1943年のワルシャワゲットー蜂起のモニュメント。
2 24, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
1939年ナチス・ドイツはポーランドに電撃的に侵攻して占領下におく。
圧政と虐殺が続く1944年8月1日、ワルシャワ市民とロンドンのポーランド亡命政府指揮下の国民軍はあと10日ほどであろう指呼の間にいたソ連軍の介入を期待した上で一斉蜂起する。国民軍を基本的に反ソ的だと考えていたスターリンは最後まで進撃の指示を出さず、蜂起軍は熾烈な市街戦を63日間闘い抜いた末10月2日ついに鎮圧された。
この蜂起で亡くなったワルシャワ市民は20万人といわれる。
ワルシャワ蜂起記念碑。
「ワルシャワ労働歌」のメロディが2回出てくる「ワルシャワ蜂起記念ミュージアム」のショップで購入したCDをMacで聞きながら。
若い頃よく歌った。
ポーランドの若い人はほとんど知らない。
♪暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ
♪怯(ひる)まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖を打ち砕け
〜
♪起て 同胞(はらから)よ 行け闘いに
♪聖なる血にまみれよ
♪砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく
2 23, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
アップできるのはいつになるか分からないが、今ドレスデンのホテルで2月13日夜から14日になるところで記している。
62年前、1945年のこの夜、英国空軍、引き続いて米空軍の爆撃により、かつて「エルベ河のフィレンツェ」と讃されたドイツ中東ザクセンの古都ドレスデンの中心部は、ヨーロッパで最も美しいバロック教会「フライエン(聖母)教会(Frauenkirche)」も、アウグスト強王のツィンガー宮殿も、ザクセン王代々の居城も瓦礫の山と化し、23万名の市民が紅蓮の炎のなかで死んでいった。
絵はその夜を描いた Otto Griebel『Das brennende Dresden(Dresden Burning) 14. Februar 1945』(『The Destruction of Dresden in the night of 13-14 February 1945』より)
ゼンパーオーパー(Semperoper)でモーツァルトの『レクイエム』。
ゼンパーオーパーは1878年にゴットフリート・ゼンパーの設計によりイタリア・ルネッサンス最盛期の様式を模して造られた19世紀劇場建築としてヨーロッパ屈指の劇場。
これも徹底的に破壊されたが、永い年月を経て修復された。
教師の説明を聞きながら楽しそうに見学するこどもたち。
モーツァルトの『レクイエム』は東京で何度も聴きにいっているが、この夜のコンサートはこれまでにない経験だった。
聴衆にはもちろん観光客も混じるがかなりの年配の市民が多い。
おそらくは幼少時にあの空襲のなかを家族の誰かを喪いながら生き抜いてきた人々なのだろう。
後ろの脚の悪い杖をついた気品のある老人は奥の席に人が座ろうと通るたびに律儀に立ち上がって通している。
1時間ほどの奏唱が終わり、マンフレッド・ホーネク(Manfred Honeck)の右手の指揮棒がゆっくりと静かに静かに降ろされる。
普通のコンサートのような拍手喝采は、誰ひとりしない。
『レクイエム』は音楽会の単なる一演目などではなく、死者のためのキリスト教典礼で歌われるミサ曲であり(日本語に訳されている慰霊のための一般的な「鎮魂曲」ではない)、さらに今晩は特別な晩なのだ。
合唱団もオーケストラも独唱者たちも、そして聴衆たち(といっていいかどうか)も静粛のうちに立ち上がり、そのまま黙祷のようになる。姿勢はおのおのまちまちだ。
黙祷の時間が1分だったのか5分ほどだったのか、つい先ほどのことなのに私には定かでない。
それぞれの人がそれぞれの亡き家族親族のことを想い、天国が暖かく迎え入れてくれるように祈っているなかで、演奏中以外撮影OKの2Eを払っているのだがシャッターは切れなかった。
2 15, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ドナウ河畔に切り立つような高さ235mの「ゲッレールトの丘」に夕刻登る。
ローマが要塞を築き、ゲルマン民族が南方へ移動した後、ウラルからやってきたもともと遊牧騎馬民族であるマジャール族がこの地に定着し、896年ハンガリー王国を建国した。
初代国王イシュトヴァーンはカトリックに改宗し、ローマ教皇からイシュトヴァーン1世の称号を受ける。布教のためイタリアから呼ばれた伝道師「ゲッレールト」は異教徒によってこの丘からドナウに突き落とされ殉死した。彼は功績を讃えられハンガリーの聖人となり、この丘は「ゲッレールトの丘」と呼ばれるようになる。
丘の先端に作られたナチス・ドイツからの解放とソ連軍兵士の慰霊碑として立てられた女性像の台座の一部。むろんその後の歩みは解放と自由とはほど遠いものだった。
左側がブダと王宮、1849年に完成したブダと右側ペストを初めてつないだ「くさり橋」。
2 11, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ウィーンからブダペストへ。
広大なハンガリー平原が拡がる。
ハンガリーは第二次大戦後ソ連支配下「鉄のカーテン」に隠されてしまったので、ウィーンとブダペストというとまったくかけ離れて思えるかもしれないが、同じドナウ河流域、距離にして約200Km。東京から浜松くらいなもの。
かつてオーストリア・ハンガリー帝国としてハプスブルク家の支配のもとにあった。
ルートは逆だが、ブダペストからウィーンへのEC(Euro City)の列車で知り合った男女(イーサン・ホークとジュリー・デルビー)が、互いの生活に戻る朝まで、ウィーンの街で共にさまよい語り合うリチャード・リンクレイター監督の秀作『Before Sunrise』(邦題『恋人までの距離(ディスタンス)』1995)を思い起こす。
ジュリー・デルビーが脚本にも参画した続編『Before Sunset』(2004)とともに帰ったら観直したい。
2 8, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
チュニジアのチュニスからシチリアに渡り、パレルモ、メッシーナ、ナポリ、ローマ、アッシジ、ペルージャ、アレッツォ、フィレンツェ、ラヴェンナ、ファエンツァ、ベネチアとイタリアを北上してきたが、泊まったところはどこもネット環境は悪く、2週間ぶりにようやく。
今日はベネチア・サンタ・ルチア駅を14:44発ウィーン行きのECに乗り込み7時間の列車行。
ときどき現れる村落の家々もだんだんチロル風になってくる。
アルプスの東端をなんとかくぐり抜けるように進む。
トンネルとトンネルの瞬時のあいまで。
中欧と南欧を峻別するアルプスの存在を実感する。
オーストリアとの国境の駅で。
Partnerは、わ〜い、アルプスの雪だとさわりに行く。
乗務員も交替。グラッチェからダンケ・シェーンへ。
2 6, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
リスボンは古代ローマの頃からユリウス・カエサルも訪れ、町をなしていた。西ゴート族の支配の後、8世紀イスラームの支配下に入るが、カスティーリャから独立したポルトガル王国の首都として12〜13世紀、ヨーロッパ有数の都市となる。
1498年、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見とアジアとの香料交易でリスボンは未曽有の繁栄を遂げた。
ポルトガル人はインドのゴアに東洋支配の拠点を築いて通商圏を拡大し、イエズス会を通じてキリスト教を布教する。
1543年、ヨーロッパ人として初めて日本を訪れ、南蛮文化をもたらす。
ところがリスボンは1755年の大地震で市内のあらかたは廃墟と化す。
写真のアルファーマ地区は、その災禍を免れた地域で城塞に向かう斜面に入り組んだ路地と古い建物が残り洗濯物がはためく。
1 22, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
地中海最大の島シチリア(英語名シシリー)、紀元前8世紀頃からパレルモにはフェニキア人により、シラクーザ(シラクサ)、メッシーナにはギリシャ人により交易地として植民活動が始まった。
地中海の中心にあるシチリアのその後の歴史はもうわけがわからないほど複雑だ。
ローマはもちろん、ビザンティン、イスラーム、ノルマン、神聖ローマ帝国、フランス、スペイン、サヴォイア家、ハプルブルク家、スペインブルボン家、ナポリ王国との合併、ガリバルディによるイタリア王国への統一…。
このさまざまな支配と「ローマの穀倉」といわれた以来の収奪にあえぐ歴史のなかから「シチリア・マフィア」が生まれたといわれる。
ヨーロッパでも屈指の大歌劇場、パレルモの「マッシモ劇場(Teatro Massimo)」。
もちろんドン・マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)が娘メアリー(ソフィア・コッポラ)を殺されて慟哭し、「カヴァレニア・ルシティカーナ」が鳴り響く『ゴッドファーザーPart3』の舞台。
1 21, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
スペインをバルセロナ、ヴァレンシア、トレド、コルドバ、グラナダ、マドリード、サンチャゴ・デ・コンポステラと来て、ポルトガルに入りポルトに一泊。さらにリスボン空港からチュニジアのチュニスへ約80人乗りの飛行機で2時間20分ほどで着く。
ポルトガルはイギリスと同じグリニッジ標準時なので1時間時計を遅らせ、チュニジアはまたヨーロッパ時間なので1時間早める。
今回のヨーロッパ旅行は全13ヶ国だが、そのうちのひとつは北アフリカのチュニジア。
ヨーロッパと北アフリカなどとは全然別物だと思うかもしれないが、地中海世界としてとらえればずっと密接につながりあっている。
ボン・ジュール、メルシィ、オ・ルヴォワールの世界からオラ、グラシアス、アディオスに少し慣れたと思ったら、またポルトガルでセルベッサ(スペイン語でビール)はセルベージャだと言われ、チュニス航空ではまたボン・スワールと迎えられる。
毎日のように「世界遺産」のなかにいて、宿泊ホテルも旧市街と新市街があれば迷わず旧市街を、小さいものと大きいものがあれば小さいものを、できるだけ歴史や由緒と特徴があるところを、と渡り歩いているので、コンピュータ・ネット環境は良くなく、アップも前後錯綜します。ご容赦。
1 16, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
カタルーニャの人々はスペイン人である前にカタルーニャ人。
ヨーロッパの歴史はどこも重層的、複層的だが、現スペイン北東部のバルセロナを中心とするカタルーニャの歴史も実に複雑だ。
高校で世界史を習わなかった(?)若い人のためにものすごくおおざっぱに記すと以下。
現在のカタルーニャの地にはイベリア人が先住していたが紀元前1000年頃北から移住してきたケルト人と混血する。
その後フェニキア人、ギリシャ人が植民し、古代ローマ時代には「ヒスパニア・タラゴニア」と呼ばれる帝国の属州となり、古代ローマ遺跡が数多く残るバルセロナ南のタラゴナ(Tarragona)がイベリア半島支配の拠点だった。
ローマに対抗したカルタゴ(現チュニジア)のハンニバルもポエニ戦争でこの地を席巻し南フランスからアルプスを越えローマに迫った。
ローマ帝国が東西に分裂した後、5世紀からは西ゴート族が進出しこの地を支配する。
8世紀には北アフリカからイベリア半島に侵攻したイスラームのムーア人に占領されるが他の地方と違ってその支配は長くは続かない。
8世紀末にはフランク王国カロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)が奪ってスペイン辺境領とし、後にバルセロナ伯領として独立する。
12世紀から15世紀初めまで、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラーム支配からの領土回復運動)のなかで西隣のアラゴン王国と同君連合し、地中海貿易を独占して繁栄する。
15世紀末、アラゴン王国とカスティーリャ王国の合併と「新大陸の発見」、大西洋航路の開拓によってハプスブルク家の統治下カタルーニャの地位は低下するが、カスティーリャに抗し、政治的言語的自治を要求し続け、17世紀には大規模な反乱を起こす。
18世紀のスペイン継承戦争ではブルボン家支配に反乱を起こすが失敗して自治権を奪われる。
19世紀のイギリスに次ぐ産業革命のなかで、良港と豊かな水力に恵まれたバルセロナを中心として各種工業が発達し、国内有数の産業地域となる。
同時に労働運動も盛んになりスペインにおける中心地となり、マドリードからの分離、自治権獲得の運動も激化する。
マドリードの労働運動がいわゆる正統社会主義であったのに対し、バルセロナのそれはアナーキズム(無政府主義)、サンディカリズム(革命的労働組合主義)が濃厚だった。
第二共和制とその後のファシスト・フランコの反乱によるスペイン内戦(1936-39)では、最後まで人民戦線側の砦として抵抗する。
後に『動物農場』『1984年』で独裁管理国家の恐怖を著し著名になったイギリスの作家ジョージ・オーウェル(1903-50)は、人民戦線側に参加し、その内部抗争を含めて『カタルニア賛歌』(1938)に活写した。
フランコ独裁後は自治権を奪われ、カタルーニャ語も禁止されるが、フランコ死後の民主化で自治権を回復し、言語的にも地方公用語として認められる。
スペイン内戦におもむき1939年陥落寸前のバルセロナでロバート・キャパが撮った少女がもし生きていれば80代だろうか。
1 7, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
バルセロナといえばガウディ。
で、ホテル「Gaudi(ガウディ)」に宿泊。
最上階の部屋の窓を開ければ、細いノウ・デ・ラ・ランブラ通りを隔てて目の前にアントニオ・ガウディ(1825-1926)初期の傑作「Palau Guell(グエル邸)」(1886-90)の屋上が朝の光にまぶしい。
1878年のパリ万国博覧会で見た革手袋店ショーケースのデザインに惹かれ、設計者であるガウディを見い出し、終生パトロンとなったバルセロナのブルジョア、エウセビオ・グエル(1846-1918)のために、ガウディは25ものプランを立てたという。
邸前面その他補修中で残念ながら中も見られない。
屋上には19本の煙突、換気塔が林立し、むき出しのまま残されたものには後にさまざまなアーティストがカタルーニャ語で「トレンカディス」と呼ばれる陶製タイルやクリスタルの破片をセメントで固める「粉砕タイル」の技法で装飾を施している。
1 5, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
さて事態はくるくる変わる。
早口のフランス語だけのアナウンスはよく聴き取れない。
英語の話せる乗客たちにも聞くと、本来の乗り継ぎ駅であるモンペリエ(Montpellier)ではなく、その先の分岐駅(この電車はトゥールズ、ボルドーに向かう)であるナルボンヌ(Narbonne)で乗り換え、ペルピニャン(Perpignan)からバルセロナまでバスだという。
そんな深夜にバスがあるのか、誰に聞いても判然としない。
ペルピニャンに着くと、バルセロナ行きのいわゆる振り替えバスが用意されていた(バルセロナ行きのチケットを持っているのでもちろん無料)。
3〜4時間かかるという。
もうすぐ零時、マルセイユからすでに9時間でふたりとも疲れ切っている。
駅前にホテルがあるが、行ってしまおうと乗り込む。
PM11:59、バスが発車。0:26、スペインに入る。EU統合の進んだ現在はなんのチェックもない。
高速を走るが、本来の鉄道降車駅前までひとつずつ降りて寄る。
AM3:10、バルセロナ・フランサ駅に到着し、タクシーでようやくホテルへ。
マルセイユから12時間半の旅。
しかし、アクシデントのおかげで、プロヴァンスのマルセイユからラングドック地方、そしてカタルーニャ(ペルピニャンは13〜14世紀にはマジョルカ王国の首都であり、その後17世紀末にフランスに併合されるまではスペイン・カタルーニャ領に属していた)へという街々を夜中ではあるが見ていくことができた。
1 5, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
今日は23日間過ごしたフランスを離れ、マルセイユからスペイン・バルセロナへの予定、だった。
が、「ヨーロッパの鉄道は遅れることがある」とガイドブックにはきちんと書いてありその通りになる。
出発がまず45分ほど遅れ、40分ほど走ったまだマルセイユ郊外のような小さな町「Rognac」で、先行電車のアクシデントかなにかで2時間停車だという。
では、モンペリエでのバルセロナへの乗り継ぎはどうなるのか?車掌はそれはもうパーだと言う。
この小さな駅の駅員に聞くと、動き出してからモンペリエまで行き、そこに泊まるしかない、らしい。
ホームと空き地と道路がつながっているようなところで、同じ列車に乗っている犬が子どもと走り回っている。糸杉の横に陽が沈む。
1 3, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
元旦のマルセイユ。ホテルの窓を開けて。
絵はがきのようなマルセイユ「旧港(Vieux Port)」の景色が拡がる。
フェニキア人が地中海南の北アフリカに進出し、エトルリア人がイタリア西部に広がっていた紀元前600年頃、ギリシャ人がこの天然の良港に植民し「マッサリア」と名付けた。
「マルセイユ歴史博物館(Musee d'Histoire de Marseille)」で、その頃のギリシャ船の遺物やその後の発展を観ることができる。
カエサル(ジュリアス・シーザー / B.C.100-44)は、当時「ガリア」と呼ばれていた現フランスをマルセイユ経由で征服し(『ガリア戦記』)、その功績でローマ帝国独裁者の座につく。
その後この良港をめぐってはさまざまな戦乱があり、イベリア半島を東上したイスラーム勢力の攻撃も受けた。中写真の上は東側の要塞跡。
1 2, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
マルセイユで2006年大晦日。
行きたかったレストランも休みか満員なので、買ってきた食料、ワインとルームサービスの料理でホテルの部屋でのんびり港の夜景を観ながら。
レストランでメニューの選択や分量や時間や値段を気にしながらではなく、こんな風に好きなものを好きなだけ時間を気にせず食べかつ飲めるのは最高の幸せ。
サヴォア地方のボーフォール(Beaufort)チーズ、プロヴァンスのチーズ、シャンベリーのSATOMIさんからいただいた極上の鴨リエット、サラミ、アンチョビ入りオリーブ、別の味付けのオリーブ、枝着きトマト、ライチ、細長い金柑のような果物、日本ではあまり見ないチシャ、みっしりしたガーリックトースト等々。
いろいろな野菜で作られたカップ3杯分ほどもある滋味たっぷりポタージュ、レモンソースのタラ、ほうれん草添え。
プロヴァンス特産のロゼワインとコート・デュ・プロヴァンスワインと。
1 1, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
とっぱなのフランスで電気の確保に苦労するとはまるで思っていなかった。
カメラはバッテリーがなければ撮れないし、メモリーは計10ギガ分あるが、一日数百枚撮るといっぱいになり、取り込んでから空にしないと次が撮れない。
充電しなくてはならないものは以下—
・MacBookPro
・500ギガ外付ハードディスク
・ライカ D-LUX3用バッテリー 2個
・キヤノン ハイビジョンデジタルビデオHV10用バッテリー 2個
・国際携帯電話
・後から合流したPartnerのPowerBook
・Partnerの携帯
ひとつのコンセントからの容量を超えているようでしゅっちゅう落ちる。
夜遅く、疲れ切って帰ってきてまず画像の取り込みとバッテリーの充電を優先的にしなければならず、それが終わる頃にはベッドに倒れ込んでいるという日々が続き、ブログの更新もままなりませんでした。
WIFI(無線LAN)サービスはこれまで泊まったどこのホテルでもあるが、みなまちまち。
300分(5時間)で20ユーロ(約3千円超)とか、2時間5ユーロ(約800円)とか。
リモージュのシャペル・サン・マルタンのWiFiはWINDOWSオンリーでPowerBookProの私は使えなかった。
マルセイユの最初に泊まったホテルはWIFIはフリーとなっていたがやはりMacは使えない。
今、年明けまで滞在する予定のマルセイユのホテルのWIFIは問題なく使えるが、時間制限があり、18時〜9時。
12 30, 2006 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
地下鉄が初めて作られたのは1863年のロンドン。ビショップス・ロード〜ファーリンドン・ストリート間約6Km。当初は蒸気機関車が牽引し、排煙のために駅には天井を設けず、燃料には煤煙の少ないコークスを使用したという。
90年にはロンドンのチューブ式地下鉄道が誕生し、電気機関車にかわる。
1896年にはハンガリーのブダペスト、97年イギリスのグラスゴー、98年アメリカのボストンと続いて、パリの地下鉄は1900年のパリ万博に合わせて1号線が開通する。
19世紀末から20世紀初頭アール・ヌーボー期の天才建築家、エクトール・ギマール(Hector Guimared 1867—1942)は駅舎のデザインを多数担当した。
ルーブル美術館リシュリー翼北側の「パレ・ロワイヤル(Palis Royal)」駅入り口。ギマールデザイン。
タイポグラフィにも注目。
12 17, 2006 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
12 14, 2006 07.デザインの世界, 16.都市・住い・インテリア・暮らし, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
パリの街を歩いていると、ウィンドウディスプレイが実に楽しい。
もちろん、クリスチャン・ディオールやルイ・ヴィトン、カルティエ、ソニア・リキエル、エンボリオ・アルマーニなどなどサン・ジェルマン・デ・プレに店を構える有名ブランドのディスプレイは洗練されていてすばらしい。
しかし、それはNYでもTOKYOでも見られる類のものだろう。
パリの街の楽しさと良さはそんなところにはない。
チェーンの資本がバックについているわけでもない、時代の最先端をいっているわけでもない、小さな間口の狭い個人店舗でありながら「私はこんな素晴らしい商品を扱っているのです、作っているのです。どうぞご覧になってください」というプレゼンテーションの気持ちに溢れた、手作りのディスプレイと、中を見せてもらったときの対応が私は大好きだ。
セーヌ河畔の画材屋さん。
サン・ジェルマン・デ・プレの横道で思わず足を止め、中にも入って見せてもらった、木工細工、皮細工を扱っている店。
横道のタイル屋さん。
本を使った小物アクセサリーの楽しい演出。
オペラ座界隈で。
宝物箱の演出。
靴屋さん。さすがオペラ座が近いのでバレーシューズを華やかに。
古本屋さんもお洒落。
店のマドモアゼルが型紙を持ってガラスにスプレーしようとしている。マドレーヌ大通りで。
12 13, 2006 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
2週間後に出発するヨーロッパ3ヶ月旅行のスケジュール調整に追われる。
13ヶ国、およそ40都市。
日本からのフランス・パリ往復とリスボン(ポルトガル)〜チュニス(チュニジア)、チュニス〜パレルモ(イタリア・シチリア)間の航空以外はすべて鉄道を利用する(イギリスの田舎ではレンタカー)。
ヨーロッパ各国の鉄道サイトのリンク集サイトがあり、トーマス・クックの『ヨーロッパ鉄道時刻表』の冬版もまだ出ていないのでこれに頼っているのだが、スペインのものがどうにも使い勝手が悪い。乗り継ぎくらい示してもよさそうなのに「No Direct Line」とはねられる。
ヴァレンシア〜グラナダ間、サンチャゴ・デ・コンポステラ〜アヴェイロ(ポルトガル)間がまだ分からない。
11 28, 2006 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)