子どもだった頃の同時代史 ー『日本の子ども 60年』(日本写真家協会・編/新潮社)
8月15日ではなく8月6日の広島原爆投下直後、よろよろと火傷に油を塗ってもらう子どもたちの姿の写真から始まる。
日本写真家協会がまとめた戦後60年の子どもたちの写真204点を収録。
上)撮影:菊池俊吉 /1945(昭和20)年
上野駅地下道などでは餓死病死した子どもたちが折り重なるように倒れていた。
戦後間もない時期、東京の戦災孤児収容所で。
アメリカの直接軍政下に置かれて途絶させられた沖縄を除き、全国の戦災孤児者は12万名を超えた。
下)撮影:白井和成 /2000(平成12)年
渋谷を闊歩する「ヤンママ」たち。
このあいだに、このなかに、私たちと私たちの子どもと、そして若い世代にとっては自分と自分の親たちの子どもだった頃の同時代史がつまっている。
8 23, 2010 12.写真・映像・映画・演劇, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://radical-imagination.net/mt/mt-tb.cgi/5161
この記事へのトラックバック一覧です 子どもだった頃の同時代史 ー『日本の子ども 60年』(日本写真家協会・編/新潮社):

コメント
さらささん、コメントありがとうございます。
この記事は『日本の子ども60年』への誘いとして書かれています。
また、いつも読んでくださっているならお分かりだと思いますが、単独ではなく、今月になってから少し集中して載せている、若い世代への「歴史」や「戦争」に対する、知ろうとすること、考えることへの意欲、イメージの喚起の契機になるようにと意図した一連の記事の一部でもあります。
この対比表現は、この誘いのための私のデザイン表現です。
2枚の写真が「世の中の一部分しか見せていない」のはもちろんその通りです。しかし「世の中のすべてを見せる」などということは誰にもできません。
「○○のことだけ出すのは××の現実を否定しかねない」「現実を捻じ曲げる意図がある」というのは、対象がアートであれデザインであれ、ドキュメンタリーであれ、小説であれ、私の個人ブログの記事ビジュアル表現であれ、もっと厳密な脈絡に即してでないと成り立たない議論です。
また私はこの2点のみをつないで「あいだ」と言ってはいません。
「あいだ」「なか」として表現したものは、歴史的空間的な流れと拡がりを言っており、ある一時点をとれば自覚しているかどうかに関わらない「共時性」へのイマジネーションといっていいと思います。
そのためのひとつの「切り口」として私はこの2点を対比表現したのです。
「現実を捻じ曲げる意図」と言われますが、「現実」とはそもそもひとりひとり違うものであり、「獲得さるべきもの」です。
そして「今の現実」は「過去の歴史」から創られているのですから、「歴史」もまた「獲得さるべきもの」だと私は考えます。
Toshio TAKAMI | 2010年08月24日 11:50
いつもブログを読ませていただいています。
この2枚の写真と記事ですが、
日本写真家協会が出版した本の写真を引用したとはいえ、
この1945年と2000年の「こども」を対比させる2枚の写真には、
現実を捻じ曲げる意図を感じてしまいます。
ヤンママは、子育て世代のほんの一部です。
現実は、多くのママたちはフルタイムで働いて、
子どもを保育園に預け、
夫と協力し合いながら、がんばって子育てしています。
子どもの育て方を取れば、この2つの年で、大きな違いはありますが、
こういった形で、2つの年を並べることは、
必死でこどもを育て、必死で働いている若いママのいる現実を、
否定しかねない・・・ように感じてしまいます。
わたしたちが居るのは、この2枚の写真の間・・・ではないような・・・
ヤンママの写真を、
写真家協会が写真集に載せることは意味がありますが、
こちらのブログで、
2枚の写真を対比して、戦後を語るのは、
世の中の一部分しか見せていないようで、
どうなのだろう?と思いましたので、コメントさせていただきました。
さらさ | 2010年08月24日 07:31