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2008年08月27日

昭和7年の世田ヶ谷へ『マイナス・ゼロ』(広瀬正)

私はSF(サイエンス・フィクション)のあまり良い読者ではないが、それでも若い頃からずいぶんと読んではきている。
しかし、沖縄で暮らしていた頃に発表された広瀬正(1924〜72)の1970年から71年の一連の作品『マイナス・ゼロ』『ツィス』等は抜け落ちており、今回復刊されて初めて読み、瞠目した。

広瀬正『マイナス・ゼロ』(集英社文庫・復刊)

タイムマシン、タイムトラベルものはH.G.ウェルズ以来たくさんあり、「親殺しのパラドックス」(過去に戻って、自分が生まれる前の親を殺してしまったら自分はどうなる?)や「パラレルワールド」(今現実だと思っている世界とは分岐した別の世界が並行して存在する)など、相対性原理等学術的な問題もからんでつきつめると頭が混乱してくるのだが、『マイナス・ゼロ』はタイムトラベルの「ズレ」が生み出すドラマを実に巧みに表現していて秀逸。たしかに「日本人によって書かれたタイムトラベル小説の最高傑作」(啓文社コア福山西店・三島さん)」

昭和20(1945)年、昭和38(1963)年、昭和7(1932)年が交錯する。

藤田敏八(『八月の濡れた砂』/1971等)はこの作品を映画化しようと企画したが、小説で活写されている昭和7(1932)年の銀座を再現するには、今の『Always 三丁目の夕日』(監督・山崎貴)で駆使されたようなCGやVFX(ビジュアルイフェクツ)技術の無い時代、コスト的にとても無理であり断念せざるをえなかったという。
今だったらできるのでは?どうよ、山崎貴さん。


この小説で面白いのは昭和7(1932)年の東京、世田谷梅ヶ丘という設定。
この年、旧東京市(現都心)の人口を周辺郡部の人口が上回り、合併して大東京市(人口500万)が誕生する。

しかし同書の中で引用されている当時の『アサヒグラフ』によれば、「東京市」に組み込まれたその頃の世田ヶ谷はこんな具合。
私の勤める多摩美世田ヶ谷上野毛キャンパスができるのもまだこれから3年後。

「野原がある、畠がある、田もあれば、林もある。これから市内という以上、もちろん人家も、町もあるにはある。ただ、撒きちらしたように点在する住宅であり、電車の沿線に細長くならんでいる町だ。
駒沢、世田ヶ谷両町に玉川、松沢両村が一緒になって出来たこの区は、11.734.698坪という膨大な面積。その中で元から町の形態を具えていたのは、わずかに玉川電車線路を中心とする世田ヶ谷町だけで、その他は、小田急、京王電車、目蒲電鉄二子玉川大井町線の駅々を中心に出来上がった新市街、新住宅地だ。

要するにこの世田谷区は今のところ田園が主であり、都市は従である。田園都市!そうそうこの田園都市という名称は何と、この区にぴったりとあてはまるではないか。従って、世田ヶ谷町の一部を除くほかは、すべてこの区に住む人々は田園の憂鬱と田園の喜びを味わっているといって間違いない。
ともあれこの区は、従来の市内という観念からは遙かに遠い区、したがってこの区に住むマダム連が、これまで口にしていた”一寸東京まで買い物に”という言葉を忘れるまでには相当の月日を要するであろう」

8 27, 2008 14.読書三昧, 16.都市・住い・インテリア・暮らし |

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