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2007年08月13日

もうひとつの原爆容認


1949(昭和24)年に出版(脱稿は被爆1年後の46年8月だが占領軍検閲で当初は出版差し止め)された『長崎の鐘』(永井隆)は、ベストセラーとなり、人気歌手、藤山一郎が歌う歌謡曲ともなって人々の記憶に残り、今に読み継がれている。

一方で、永井は戦前、浦上天主堂で洗礼を受けたクリスチャンだった。

浦上のカトリック信者たちが、天主堂崩壊後、爆死者たちの合同葬儀を行った際に、永井が読んだ弔辞が『長崎の鐘』に収録されている。

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「…午前十一時二分、一発の原子爆弾はわが浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の深夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これとまったく時刻を同じうして大本営に於いては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。

この日は聖母の被昇天の大祝日に当たっておりました。

投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話をききました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。

世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか?

互いに憎しみ互いに殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神に詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。

主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。
浦上が選ばれて燔祭(はんさい)に供えられたる事を感謝します。この尊い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。
希わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを アーメン
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浦上地域は16世紀のポルトガル宣教師による布教以来、「キリシタン」の里であり、江戸幕府の度重なる弾圧にさらされながら住民たちは「隠れキリシタン」として暮らした。これらの弾圧は「崩れ」と呼ばれ、幕末の「四番崩れ」では三千余名の全村総流罪にあい、帰村できたのは1973(明治6)年になってからだった。

幕府は旧長崎市街と北にある浦上地区との間に、一種の緩衝地帯として、いわゆる「被差別部落」を置き、キリシタン摘発に「部落民」を使ったという。

私には直接はわからないが、旧長崎市街の住民と、爆心地浦上の住民とには微妙な差異感が当時も引きずられていただろう。

「そりゃそうばってん、誰に会うてもこういういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと」(『長崎の鐘』)と言われていたなかで、永井は、そうではない、原子爆弾が浦上に落ちたのは神の摂理、神の恵み、浦上は神に感謝をささげなければならない、としたのだ。

残された浦上のカトリック信者にとって、肉親、同胞の死を、無惨で無意味なものとして、あるいは天罰としてではなく、戦争を終結させ、世界に平和をもたらすための神の摂理であり、彼らは聖なるものに昇華した羔なのだ、という論理は、慰めや救いをもたらしただろうことは想像にかたくない。


しかし、この論理はカトリック信者のなかでは通じても、社会的政治的歴史的にとらえれば、きわめて重大な戦争責任の問題につながっている。

ひとつは、明白な「戦争犯罪」であるアメリカによる原爆投下の免責だ。
「広島、長崎への原爆投下がなければ、本土決戦となり、さらに100万(当初は5万の米兵と言っていたが後にだんだん数がふくれあがった)の命が失われただろう」というアメリカ政府と御用学者の宣伝(米国民の大半は今もこれを信じ込んでいる)に永井の言説は好都合だった。
だからこそ、被爆の悲惨さが記されていながら、占領軍GHQの検閲下(国防総省まで送られ、日本軍によるマニラでの残虐行為の記述を付加するという条件で)『長崎の鐘』は刊行を許された。

もうひとつは、昭和天皇の戦争責任の免責
戦後アメリカは日本統治の上で天皇制を利用した方が得策と考え、象徴として残し、東京裁判でもこの戦争の最高責任者を起訴しなかった。
神が天啓を天皇に与え「御聖断」を下された、という永井の今からすればとんでもない詭弁は、アメリカと、「聖断神話」を維持したい天皇にとって、責任追及を封ずる願ってもない好ましいものだった。
昭和天皇が戦後初めて長崎を「巡幸」した際、永井はいわゆる「拝謁」を許されている。

さらに言えば、戦争に向かって行く中で、「宗教を超えた宗教」である国家神道に屈服、服従し、「銃後」体制を支えるように成り下がった(カトリック、プロテスタント、仏教、教派神道を問わず)宗教者としての戦争協力責任の糊塗であり免責でもある。


永井隆が献身的で真摯な医学者であり良き教師であり敬虔なクリスチャンであったことは疑いない。

しかし原爆投下について、戦争責任について、国家の側からではなく、民間の立場から、米日支配層に都合のいい納得感、気持ちの持ちようを大衆に広めたひとりであることもまた確かだ。


関連過去記事:
原爆しょうがないの本家
ナガサキの日に

参考文献:
高橋哲哉『国家と犠牲』(NHKブックス)
高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫)

映画(公開中):
スティーブン・オカザキ『ヒロシマナガサキ』

8 13, 2007 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ |

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