ほぼ満開、鎌倉の桜
3 30, 2007 06.私の好きな鎌倉の風景 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
フランス・リモージュからパトリックのアトリエのあるサン・ティリエ・ラ・ペルシェ(Sant-Yrieix-la-Perche)に行く途中で。
車を停めてロバの写真を撮ろうとしていると柵まで寄ってくる。
「無断掲載禁止と言いにきたのさ」と運転しているパトリックが冗談を言う。
ロバは古代エジプトで改良・家畜化され運搬・灌漑・脱穀などの用途で世界にひろまった。馬より粗末な餌でもよく働き40年以上生きる。
カイロでは荷車をひいているのをたくさん見たが、ここではそんな必要はないだろう。何のために飼っているのかと聞くと「ただ楽しみ(喜び)のため」なのだそうだ。
ロバは、従順と柔和から頑迷と知性の欠如、はては過度の性欲までさまざまな象徴として扱われ、文化史的にみてもおもしろい。
3 29, 2007 18.花・木・野菜・生きものたち, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
私のところ(多摩美術大学造形表現学部)の卒業式。
デザイン学科では108名が巣立っていく。
普段のジーンズ&Tシャツ姿ではなく皆目一杯おめかししているので、ん?君はだ〜れ状態。
それぞれ晴れやかでいい笑顔。
フォーシーズンズホテルで謝恩会。
<卒業制作図録に載せた教員からのメッセージの私のもの>
12月から3月初めまでヨーロッパをまわっているので、今年の上野毛デザイン展を観ることができず残念です。
自分が旅をしているからだけではありませんが、皆さんもぜひ「旅」をしてください。別に遠く外国に行くということにはかぎりません。自分の日常とは「異質」の世界に「積極的」「自覚的」に入り込んでいくこと。映像や本で知っているつもり、ではなく「その場に身を置いてみること」を少しでも多く経験し考えること。そして「自分と相手の歴史をできるかぎり知る」こと。そのためにはどうしても本をいろいろ読む必要があります。また「ことば」に関して鋭敏になってください。世界は英語で覆われているわけではまったくありません。デザインに限りませんが、こうした土壌をいかに耕していくか、が人生の豊穣につながります。
今後の健闘と健康を祈ります。
3 25, 2007 11.教育と学びのデザイン | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
イタリア中部、トスカーナの東端、アレッツォ(Arezzo)の大聖堂で結婚式に行き会う。
アレッツォは新興ローマなどよりはるかに古いウンブリア文明以来3000年の歴史を持つ町。
中央に飾られているのはピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca )のマグダラのマリア(Maddalena di Piero)。
マグダラのマリアは明らかにイエスの妻であり、サラという娘も産み、イエスの死後フランスに渡ってメロヴィング朝にダヴィデ以来のイエスの家系が残されたという説はあながち荒唐無稽ではない。
神の子が妻帯したり子供がいては困ると考えた正統ローマ教皇庁は、6世紀、グレゴリオ1世がマグダラのマリアは罪深い女で改悛した娼婦だという声明を出し、1969年(!)に密やかに撤回するまでそのイメージを流布した。
実際は厳格なユダヤ教ラビの家系のユダヤ人イエスは当時の律法からして結婚は必須のことであり、とりわけダヴィデの直系である彼には子供をつくることは絶対の義務だった。
イエスの磔刑、埋葬、そして「復活」に立ち会ったとされる彼女をおいてイエスの妻は他に考えられない。
メル・ギブソンは『パッション(受難)』(2004)でモニカ・ベルッチ演ずるマグダラのマリアをそのように描いている。
教皇庁の声明にもかかわらず、マグダラのマリアへの信仰は太古の女神とも結びつき各地で根強く残った。
3 24, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
お彼岸で亡父の墓参り。腰越の満福寺へ。
腰越漁港そばの漁師の店「池田丸」で昼食。
獲れたての生シラス、石鯛、マルアジの刺身、サザエの壺焼き、シッタカの塩茹で、シロギスの天麩羅…。
卓上に磯の香り。昼間から酒がすすまざるをえない。
3 21, 2007 02.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
長旅に重い本はもちろん持って行きたくない。
しかし昨秋翻訳が出た『西欧言語の歴史』(アンリエット・ヴァルテール/平野和彦訳/藤原書店)だけは600ページほどの大著なのだがずっと持ち歩いた。
「西欧」と邦題につけられているが原タイトルは "L'aventure des Langues en Occitent" であり、扱っている言語も狭い意味での西ヨーロッパではなくヨーロッパ全体にわたる。
今回の旅行はヴァチカン市国も含めれば西欧・南欧・中欧・北アフリカ14ヶ国にわたり言語もさまざまだ。
あちこち移動するたびに、そこで話されている言語についての章を読んでいた。
日本人はフランスはフランス語、イタリアはイタリア語、ドイツはドイツ語などと無意識にのっぺり「国」と結びつけてしまうが、いうまでもなく現在の政治的国境範囲と人々に使われている言語は一致しないし、「国語」などという日本的なイデオロギーは存在しない。そんな単純に考えていたらスイスはスイス語、オーストリアはオーストリア語などというおかしなことになってしまう。
それぞれの国の公の議会や役所や文書で使用される「公用語」ということにしても、例えばベルギーではオランダ語、フランス語、ドイツ語と3つあり、ルクセンブルクの公用語はフランス語とルクセンブルク語の2つだが、多くの国民はドイツ語を日常的に話している。スペインのカタルーニャ語、バスク語、英国のウェールズ語のように「地方公用語」というものもある。
ヴァルテールはそのような区分からではなく、7000年の昔、黒海の深奥から移動を始めた騎馬民族が数千年をかけて大草原から大西洋、地中海にいたるヨーロッパ全土に移動し、先住者たちとの接触のなかでいかに多様な分岐を生み出してきたか、そしてそれにもかかわらず「インド・ヨーロッパ(印欧)語」という共通の起源を持つものであること(例外としてハンガリー語はウラル語族、バスク語は印欧語ではないことは明確だが起源は不明)、スラブ系(ロシア語、ポーランド語等)・ゲルマン系(英語、ドイツ語、オランダ語等)・ラテン系(フランス語、スペイン語、イタリア語等)とまったく違うようにみえても互いに影響しあって現在の言語状況があること、ある地域地方の言語にすぎなかったものが近代史のなかでどのように特権的な地位を占めるようになったのか等々を実にわかりやすく説く。
写真はスペイン、サンティアゴ・デ・コンポステラの宿、Hotel "Reyes Catolicos"(カトリック両王のホテル)内サロンの見事な木彫り丸テーブルで。
1499年巡礼者のための宿泊施設兼病院として建てられたものが現在パラドール(スペイン国営の宿泊施設)となっている。
3 15, 2007 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 14.読書三昧, 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
ヨーロッパ3ヶ月の旅の最後の夕食は、ロンドンーパリのユーロスター車内で軽食が出たので、重いものを食べる気になれず日本そばの店、サン・ジェルマン・デ・プレの「YEN」。
オンワードがやっている。
漬け物10ユーロ(約1600円)、そば味噌7ユーロ(約1000円)などなどなかなかいい値段。
鹿児島の芋焼酎と。
冷や奴がクリーミーでおいしい。そばもコシがあり旨い。
帰り際に気づいたが、12月にパリに来たときに偶然出会ったTBSの池田裕行さんにまたばったり遭遇。
3 9, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
Blogをアップする環境、時間が無く(いずれアップします)、とんでとんで……、ミュンヘンからアステルダム、ハーグ、デルフト、アントワープを経て、ブリュッセルからユーロスターでロンドンで一時帰国していたPartnerと合流。
翌朝、ハイドパーク脇のホテルに荷物を預けて身軽になり、由緒正しいブラックワゴンタクシーでパディントン駅へ、
喧噪と雑踏のロンドンとはさっさとおさらばして週末から4泊5日のコッツウォルズへの小旅行。
パディントン駅から50分で学園都市オックスフォードへ。
何層にも重なった雲が美しい。
オックスフォードのAvisでレンタカーを借りる。
運良くあったオートマチックの真新しいプジョーで。
ルートも泊まるところもはっきり決めてはいない、現地に行っての感触で判断する。
3 4, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
コートを探し出すのに手間がかかり、アムステルダム行きの発車時刻まで1時間少しになってしまった。
ミュンヘンはもちろん見所が多いが、残された限られた時間でどうしても見ておきたい、とタクシーをとばしてミュンヘン大学(正式にはLudwig-Maximilians-Universität)大講堂へ。
「白いバラ(Die Weiße Rose)」はハンス・ショル(Hans Scholl 1918-43)を中心に、その妹ゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl 1921-43)らミュンヘン大学の学生5名、クルト・フーバー教授が組織したナチスへの非暴力レジスタンス運動。
今の日本の学生にはなかなかイメージできないだろうが、第二次世界大戦下であり、彼ら学生もフランスへの侵攻やソ連との苛烈な東部戦線にかり出された帰還兵。特にスターリングラード攻防戦(1942.6〜43.2)でドイツ軍の精鋭30万が壊滅し敗走を始めたことを受け、一段と活動を先鋭化させた。
43年2月18日、講義終了にあわせて一斉に6冊目のリーフレットが学生たちに配布される。
ゾフィーが最後の一部を中庭の屋根から撒いたのをナチス党員である大学の守衛が通報、彼らはゲシュタポに拘束され、22日の裁判で反逆罪による死刑判決、その日のうちにギロチンの露と消えた。
ハンス 享年24、ゾフィー 享年21。
写真は、大講堂の入り口前の彼らの制作配布したリーフレットを復元したレリーフ。
白いバラのようだ。
通りがかった学生に聞いてメインホールの一角にある6名の彫像へ。
真新しいバラが供えられている。
この一角は「Geschwister-Scholl-Platz(ショル兄妹広場)」隣接する広場は「Professor-Huber-Platz(フーバー教授広場)」と名付けられている。
『白バラの祈りーゾフィー・ショル、最後の日々』(監督:マルク・ローテムント 主演:ユリア・イェンチ 2005)は昨年1月日本でも公開されDVDも出たので帰ったらぜひ観直したい。
3 1, 2007 27.ヨーロッパ行・考 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)