母のテラコッタ人形
8 31, 2005 10.美術工芸 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
銀座「竹富島」で沖縄料理。
私もパートナーもあまり脂っこいものはだめなのでさっぱり系の定番。酒は泡盛久米仙古酒。
「ゴーヤ」
ほんの少し湯がいて薄くスライス。たっぷりの削り節と。
「島らっきょう」
普通のらっきょうとは違い細長くシャキッとした食感。血が固まるのを防ぐアデノシンを多く含み、これを食するためかどうかわからないが沖縄は脳卒中や心臓病が日本一少ない。
「海ぶどう」
沖縄本島、宮古島、伊良部島などの海域に生息する海藻。たくさんの小枝に分かれ、2〜3mmの小さな緑色の球状の葉がぶどうの房のようになっている。噛むとぷちぷち口の中ではじける海のグリーンキャビア。
「豆腐よう」
中国の「腐乳」という大豆の発酵食品が伝わり、沖縄の島豆腐(大豆の生搾りを苦汁や海水で固め、重石で凝縮する固く濃い豆腐)をもとに工夫されたらしい。島豆腐をサイコロ状に切り、塩をふって干乾しして乾燥させる。泡盛と紅麹あるいは白麹の漬け汁に漬け込み3ヶ月以上寝かせて熟成させる。まさに大豆のチーズ。
「スク豆腐」
スクガラスと呼ぶアイゴの稚魚を塩、酒で漬けたものを島豆腐に載せて。小さいがけっこう骨っぽいので口の中に刺さることも。塩味と島豆腐がよく合う。
「ソーメンチャンプルー」
ゴーヤチャンプルーも好きだがソーメンチャンプルーもいい。チャンプルーというのはもともとは野菜と豆腐を炒めたものを総称したが、なんでも一緒くたに混ぜ合わせてしまうということでもあり、朝鮮の「ビビン(ビビンバ)」などアジアの食文化と通じている。
8 29, 2005 19.食と農、健康と病 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
パートナーと一緒に観たのだが、観終わった後ふたりとも放心状態で食事をする予定だったのがしばらくは食べるなどという気にもならなかった。
1919年、第一次世界大戦直後のパリにあちこちから集うアーティストたち。
成功し先頭を走るスペインからのピカソ、一方のリトアニア出身のユダヤ人スーティン、幼少からのアルコール中毒者ユトリロ、スペイン系ユダヤ人とイタリア系ユダヤ人の子でトスカーナ生まれのモディリアーニらの貧しく「呪われた」画家たち。
この映画は監督・脚本のミック・デイヴィスが少年の頃から親しみ、10年以上構想を暖めていたモディリアーニの最後の1年を描く(ただしフィクションと断ってある。モディリアーニの生活の真実は諸説あってわからない)。
ラストでリフレインされるパリの夜の裏街を恋人ジャンヌと歩く姿の映像はエディット・ピアフの「バラ色の人生」と重なって限りなく美しく、バラ色とはほど遠かったしかし自由に生き愛を受けた彼の人生を際立たせる。
コンペに向かって彼らが絵を描く様が圧巻。アーティストの、絶望落胆と充実歓喜を振幅する狂気の眼差しと筆使いが迫真的。
ガイ・ファーレイの音楽とその映像への付け方、キーディーの歌が素晴らしい。
オリジナル・サウンドトラック盤
ただ一点、やはりこの映画は英語ではなくフランス語で作ってほしかった。モディリアーニは完璧なフランス語を話したという。フランス人が観てどう思うのだろう。
1920年1月24日、子どもの頃からの結核を麻薬と酒と煙草のデカダンな生活のなか悪化させ35歳で死去。
翌25日、二人目の子を宿していたジャンヌ・エビュテルヌはアパートの6階から身を投げ自殺。享年21。
8 28, 2005 12.写真・映像・映画・演劇 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)
銀座地下道の銀座和光のショーウィンドウ。
扱っているポーランドの磁器フィギア「チメルフ」が他の商品を引き立てている。
写真上の「マンモス」、下の「髪を洗う女」はチメルフの代表的デザイナー、トマシェフスキー(L.Tomaszewski)が1959年にデザインしたもの。
8 28, 2005 10.美術工芸 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
本業の酒はもちろん、オリジナルのピクルスビネガー、薬膳ソースや国内外から選りすぐって仕入れた調味料、乾物、缶瓶詰などの食材が2000種以上。
創業は1883(明治15)年。鎌倉はまだ寒村だったろう。
その後鎌倉は政財界人や将校、駐日外交官などの別荘地として注目され、彼らが求める高級食材の需要に応えてきたという。
日本の庶民がパスタだのオリーブオイルなどの存在を知りもしない頃から扱っていた。
ネット通販で購入もできる。
三留商店ホームページ
8 27, 2005 06.私の好きな鎌倉の店・その他 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
私のところはデザイン学科なので、普通の大学のように卒業研究論文を書くのではなく、デザイン作品を制作する。11月末の提出、12月はじめの審査会まで3ヶ月余り。担当するデジタルコミュニケーションデザインの4年生のクラスは毎年夏末に一泊合宿して進行状況をチェック検討している。
今年も山中湖の大学のセミナーハウスへ。
台風接近で山中湖もどんより。
湖畔の「マ・メゾン」で昼食。
これで3回目だが、このあたりの食事どころとしてはとてもいいレストラン。富士桜高原ビールと、ここの祖父の味という「ご隠居カレー」。大粒の黒胡椒が効いて旨い。
セミナーハウスの「リッキー」が例年通り歓迎の拝み(?)ポーズ。
みっちり4時間、各人のプレゼンと質疑検討。
学生18名、教員3名、副手1名、総勢22名の大宴会。
最後になった私が寝たのが3時半。
セミナーハウスを囲むハリモミ(針樅)純林は天然記念物。今朝は雨にかすむ。
今朝11時ころの東名高速。車はどれも散水車状態。
ワイパーは最速にしてあるが視界がきかない。あちこち50km規制だが2時間ほどで上野毛に無事帰着。
お疲れさま。
8 25, 2005 11.教育と学びのデザイン | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏季食欲減退対策第17弾。
坂の下、星の井通りの三留商店で購入したタラのレバーオイル煮。
デンマークで揚がった新鮮なタラのレバーを植物油脂、塩で調味し、加熱殺菌。合成保存料や着色料などは一切使っていない。
口の中で溶けるように柔らかく、濃厚な栄養感があるのにさっぱりしている。KIBIYAベーカリーのカンパーニュにのせて。
8 23, 2005 06.私の好きな鎌倉の店・その他 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏季食欲減退対策第16弾。
ゴーヤチャンプルー。
今でこそゴーヤは九州などあちこちで栽培されて流通しポピュラーになったが、私が沖縄に住んでいた35年くらい前は沖縄出身者以外はほとんど知らなかっただろう。
街の食堂でも安く、家でもよく作って食べた。
ラードを鉄鍋に入れて熱する。切り身の肉などは使わず、米軍政下で安かったアメリカ製のポークランチョンの缶詰を開けて適当に切り、本土のものより固めの沖縄豆腐をちぎってゴーヤと炒める。その他あり合わせのものもついでに放り込んでしまう。
スーパーに並んでいる九州などの在来種(ニガウリ・レイシと呼ばれてきた)は細長くて苦みが強いが沖縄ゴーヤはたっぷり太くて苦みは少なめ。
8 22, 2005 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック(0)
夜9時過ぎの「ラ・ジュルネ」(鎌倉由比ガ浜)で。
ミニチュア・ダックスの2歳「アジ」くんと。なんでも同時に4匹産まれ、犬舎がすべて魚の名前を付けて「鰺」くんはそのまま「アジ」くんになったそう。際限無くじゃれ合う。
8 22, 2005 24.犬と暮らす | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック(0)
益子では「フォレスト益子」に泊った。
益子県立自然公園・益子の森という31haある広い里山の中にあり環境も抜群。
牧野富太郎記念館、海の博物館、旭川駅舎などで知られる内藤廣氏の建築デザイン。1/1から1/2000まで、というのが氏の一貫した設計姿勢。1/1、つまり原寸でパーツやディティールを整え、1/2000、すなわちその建物がおかれる環境や風景のもとで考える。
高い素材は使っていないがデザインが行き届きゆったりしている。わずか10室と併設のレストランだけだが弧状に配され美しい。町営(運営はNPO法人)なので宿泊費も格安。
8 21, 2005 22.旅先で | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
20-21日と、多摩美上野毛キャンパスで進学相談会が開かれています(AM10-PM4╱開催時間中の出入りは自由)。美術学部(八王子)と造形表現学部(上野毛)のすべての学科・専攻が対象です。
合格者の入試作品が見られ、入試や案内など各種の資料が入手でき、また専任教員が個別の相談に応じます。受験を考えている方はぜひ足を運ばれるといいでしょう。
また、造形表現学部デザイン学科の情報誌「KAMINOGE COMMUNICATION DESIGN 2005」(B5版24ページ・無料)も発行されました。専任教員による最新の紹介や卒業生の活躍、受験生へのアドバイスなど上野毛デザイン学科の特長と魅力が見て取れます(郵送をご希望の場合は私宛にメールしていただければ手配します)。
8 20, 2005 11.教育と学びのデザイン | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
フェルメール(1632-75)の描く日常の世界の一瞬の静謐とそれが威厳にまで高まっている表現が好きだ。
「牛乳を注ぐ召使い」「手紙を書く婦人と召使い」「天秤を持つ女」等。
『真珠の耳飾りの少女』(監督ピーター・ウェーバー・2003・イギリス/ルクセンブルク)はストーリーはどうでもいい。フェルメールが生き描いた17世紀オランダの街と室内の光と影と色彩と風俗の映像表現にぞくぞくさせられる(撮影:エドゥアルド・セラ)。
実物は見たことがないが画集で見慣れた「真珠の耳飾りの少女(通称・青いターバンの少女)」(マウリツホイス美術館蔵)から抜け出たようなスカーレット・ヨハンソンが素晴らしい。
写真左:フェルメール「真珠の耳飾りの少女」、中:スカーレット・ヨハンセン扮する少女、右:ぜんぜん関係ないが私が時々行く横浜の「しゃぶせん」(ざくろの直営店)の女の子。気配り良く、てきぱきしゃきしゃき働いている。なぜかイメージがいつもだぶる。
8 19, 2005 12.写真・映像・映画・演劇 | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック(1)
中央のくびれた容器に砂を入れ、上から下への砂の移動によって時間を計る砂時計というのは8世紀には作られたともいわれるが起源ははっきりしていない。砂は大きさが揃い滑らかで湿り気がないことが必要。黒大理石の微細な粒を葡萄酒で煮ては干すことを繰り返して作る、という14世紀の記録があるそうだ。
砂時計は決めた一定の時間を限定して示すので17世紀頃まで教会の説教の際などに使われたという。
3分とか5分とかいう尺度の「時間」ではなく、現代のわれわれの知見・情報やアートを砂時計で表現するとどうなるか、が西村さんたちの「砂時計I〜VII」。
究極はVIIの砂の入っていない、つまり測りようのない砂時計。
測られて生きる必要はない、のだ。
8 18, 2005 07.デザインの世界 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
宇都宮からレンタカーで益子へ。1時間もかからない。
私のところ(多摩美上野毛デザイン学科)の非常勤講師もされている西村佳哲さんと西村たりほさんの「リビングワールドの仕事展『窓』」が益子で開催(8月25日まで)されているのでそれを見がてら、焼きものは好きなので益子を見ておきたい。以降の益子行記事は時系列ランダム。
写真上は「STARNET ZONE」前庭での『窓』の展示のひとつ「風灯:Solar」。
風に応じて光が灯るという4年前にプロトタイプが発表されたものの2ndバージョン。ひとつずつの風灯に太陽光パネルが埋め込まれ昼間は充電する。暗くなってくると検知した風に応じてLEDの光が灯る。
まあ仕組みはともかく、太陽と風と灯りという私たちにとって当たり前すぎてふだんとくに考えもしないことをこういうカタチで闇の中(写真は夜10時ころ。真っ暗なところから西村さんがこんばんわというので驚いてしまう)で向き合うことで大いに感じ取りたい。
写真は5秒間露光したのだが、ひとつひとつが太陽と風による個性を持っているよう。
背景の高く細い樹の上の方にも植木職人の手によって風灯がいくつも付けられている。
写真下はSTARNET ARKのカフェテリア「YUSEI」の天井明かり取りにつるしてある風灯(まだ予約も受付中。1個1万円だったかな)。
8 16, 2005 07.デザインの世界 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
日本国はいかなる意味でも共和国ではない。天皇は英語で言えば「Emperor」(それをまた日本語に訳すと「皇帝」)だから「日本国民統合の象徴」だなどと言ってみても外国から見ればせいぜい19世紀の遺物の「立憲君主制」くらいだと思われている。
ところが宇都宮に「共和国」が設立されたのだ。その名も「宇都宮餃子共和国」。
市内に散在する餃子の名店7店をはじめ餃子の戦後日本発祥の流れを汲む東京神田「天鴻餃子房」などご当地4店を一同に集め、餃子の「聖地」をめざす。
旧ジャスコを改装した複合商業ビルの一角に、餃子が宇都宮に急速にひろまった昭和30年代の繁華街の再現(横浜ラーメン博物館の餃子版)をコンセプトに7月30日にオープンしたばかり。
それぞれ個性があるのだろうが、ここはまず地元出身の学生に聞いた銘店「みんみん」の焼き餃子。
店それぞれの飲食スペースがあるわけではなく、路地やちょっとした広場のテーブルで食べる。
白菜がたっぷり。生姜が少量効く。皮はやや厚めだが胡麻油でカリッとし、噛むと具がジューシー。
これで一人前(地元ではシングルと呼ぶ)6個でわずか¥220。
宇都宮は戦前、帝国陸軍第14師団の司令部および駐屯地がある軍都であり、彼らは中国東北部に出征した。
餃子はもともとこの地が発祥であり清代に他の地方にもひろまった。
戦後復員した人たちが安価で滋養に富むこの食を、同じように寒暖の激しい内陸性気候の土地のニラやニンニクなども工夫して日本風餃子を作り上げた、といわれる。
まあおおいにがんばってほしい。
8 15, 2005 19.食と農、健康と病, 22.旅先で | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)
「終戦記念日」だという。
今やっているNHKハイビジョン特集「8月15日・あの日世界は何をめざしていたのか」という番組でも、「ポツダム宣言を受諾し戦争が終了したのは60年前の8月15日」などと偽りの情報を流している。
すでに8月9日から10日にかけての「御前会議」でポツダム宣言受諾の「聖断」がされ、「聯合国」米英中ソに通告された。14日再び天皇によりポツダム宣言受諾が確定され「終戦の詔書」に署名、渙発、再び聯合国に通告。夜半、翌15日正午からの「玉音放送」が録音された。
終戦(敗戦でも降伏でも休戦でも)というのは対外外交事項だから、15日に「玉音放送」で「帝国臣民」に報せたということは関係ない。対外的に降伏を通告した14日が本来の「終戦」(ただし14日夜間にも米空軍の空襲はあり、旧満州では受諾を認めないソ連軍の攻撃が9月になっても行われた)であり、また9月2日のミズーリ艦上での公式調印が世界的に見れば第二次大戦の公的な終結日。
「8月15日終戦」そして「終戦記念日」へ、という「日本国民の共通認識」が、占領から独立にこぎつけた「日本国民」が「先の大戦」をどうとらえるかを誘導するために主としてマスメディアを中心にいかに形成されたか、を『八月十五日の神話ー終戦記念日のメディア学』(佐藤卓己╱ちくま新書)は検証していく。
あらゆる記念日は意図的に作られる。国家によって作られる場合、国民「統合」・歴史認識誘導のため以外に目的はありえない(なぜ「甲子園児」は8月15日正午に黙祷などするのかを見るまでもなく)。
日本の「終戦記念日」(法的な根拠として「終戦記念日」の正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」が閣議決定されたのは戦後37年もたってからの1982年)は、8月15日の「戦没者追悼・平和祈念」によってあたかも戦前とは「断絶」したかのような幻想を振りまき、アジアに対する戦争責任を国民あげて自己免責し、そして21世紀のグローバリゼーションとナショナリズムの「共犯」の時代につきすすむための日本国家のイデオロギー装置にほかならない(もちろん「宗教の上に立つ宗教」「したがって宗教とは言えない」という国家神道・靖国神社とますます結びついて)。
8 15, 2005 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
友人にお祝いにもらった「ダロワイヨ」の菓子。
私はスイーツ系はまったく駄目なのでよく知らないのだが、「ダロワイヨ DALLOYAU」というのは1700年、ヴェルサイユ宮殿でルイ14世のおかかえパン職人として仕えていたシャルル・ダルワイヨが始まりという。以来フランス王家代々の食膳係として名声をはせ1802年ジャン・パティスト・ダルワイヨにより創業とある。
興味の有る方はダロワイヨサイトへ。
8 13, 2005 19.食と農、健康と病, 23.日々のなかで | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
『パッチギ』の1968年から10年後の1978年が舞台の日韓版「ロミオとジュリエット」。
釜山と下関は国際親善都市。釜山での陸上競技大会で知り合い惹かれ合った韓国の高校生と日本の少女。
下関の少女は父親に「韓国人とだけはつきあうな」と言われ、釜山の若者は日本人に親族を殺された母親に交際を禁じられ、下関の親善交流会では日本語で「なごり雪」を歌って同行の教師に止めろと制止される。
そういう時代があったことを私たちは忘れてはならない。
ジュリエット役の17歳郁子を演ずる水谷妃里が清楚ですばらしく、まわりの仲間たちがもり立てるさまも実にほほえましい。
監督は『半落ち』の佐々部清。下関は彼の故郷。
私の叔父のひとりは晩年関釜フェリーの社長をしていた。
8 12, 2005 12.写真・映像・映画・演劇 | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック(2)
ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は69歳の1633年、コペルニクスの地動説を証明したが、ヴァチカン教皇庁により聖書を冒涜するものとして罪に問われ、あらゆる著述を禁じられ、終身監視状態にされた。
「それでも地球は動く」と言ったというのは後からの伝説で、彼はこの裁判に服した。自説を曲げたわけではない。最愛の娘を失い、失明してからも密かに弟子たちに口述し、オランダ等で出版した。
死後も「なお教会の迫害はつづき、約百年間その遺体は棺に納められたまま教会の地下室に置かれ、墓をたてることは許されなかった。ヴァチカンが教会側の非を認め、ガリレオに謝罪したのは、右の宗教裁判から350年後の1983年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によってであった。むろん、ガリレオの知ったことではない」(山田風太郎『人間臨終図巻III』徳間文庫)
彼は、あくまで観測や実験をもとにした事実と考察で真理を探究するという「近代科学」の基礎を築き、自説を主張したのであって、もちろん当時の人々の「常識」からはかけ離れており、論文をラテン語ではなくイタリア語で書くことでできるだけ多数の人々に知らしめたいとはしたが、「多数決」だの「国民の信」などに頼ったことは一度もない。
郵政民営化ごときで小泉に引き合いに出されるのは墓の中で怒るか呆れているだろう。
8 9, 2005 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
きょう9日は第57回鎌倉花火大会(7時〜8時15分)。
25万人ほどが由比ガ浜から材木座海岸の砂浜を埋め尽くすが海風が心地よく、打ち上げと水中花火の競演は毎年素晴らしい(昨年の記事)。
一日曇りで、それほど猛暑ではないよう。
8 9, 2005 01.私の好きな鎌倉の風景 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
7月27日の記事では青かったミニトマトが次々に赤くなる。
人と同じ、一斉に熟したりはしない。
赤くなったものから毎日何個かずつ。
皮の歯ごたえが気持ち良く、文字通り甘酸っぱい味わい。
8 5, 2005 18.花・木・野菜・生きものたち | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏季食欲減退対策第7弾。
これはもう夏バテ解消の定番。つるやの鰻重。
※すでに一度書いているので、読んでおられない方はこちらをどうぞ。
昨年から今年、気候の不順、台風地震などの影響か稚魚が不漁で苦労している、と1929年(昭和4年)創業以来の味を守る三代目のご主人が言う。
下は創業時から使い続けている鎌倉彫の重箱。
8 4, 2005 03.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏季食欲減退対策第6弾。
深夜2時のSEEDLESS BAR。昼の軽食から後は何も食べていない。
さまざまな香辛料がきいたイタリアンソーセージの細切りとチーズたっぷりのピザ・ペパローニ。
メニューの8インチとあるのを見て急に昔を思い出した。
8インチは何センチか?私は即答えられる。ニー・マル・サン、つまり20.3cm。
2.54cmを掛けて暗算しているわけではない。なぜこんなことが答えられるかというと、若い頃インチ巾で決まっている製版フィルムを毎日使って仕事をしていたからだ。12インチがサン・マル・ゴー。このロールをカットすると見当合わせ用ピン穴を含めてA4トンボ入りの4色フィルムが取れる。
デジタルデータからのダイレクト刷版(さっぱん)が増えてきてもうフィルムの時代も終わってくる。直し無し増刷のときの「在版流用」などという指定用語も死語になるのだろう。
8 3, 2005 02.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
夏季食欲減退対策第5弾。
鎌倉駅大船寄り踏み切りそばの「ソンベカフェ Song Be Cafe」の「海老とホウレンソウのグリーンカレー」。
タイカレーの定番。タイはインド文化の影響を強く受けたためカレーも伝わり独自に工夫されてきたのだろう。ココナッツミルクで辛さも調整してもらえる。
「アジアのビールフェア」というのを8月末までやっており、普段にはないラオス、インドネシア、タヒチのビールなども飲める。で、ベトナム・ハノイで代表的な「ハリダ(Halida)」を試す。なかなかスキッとしていて現地で飲んだらもっと旨いだろうなと思わせる。
ベトナムコーヒーが落ちるのをじっと待ち、少しカカオっぽく濃い味わいを楽しむ。
この店の名である「ソンベ」はホー・チ・ミン市(旧サイゴン)の北東近くにある民窯の村の旧名。下写真がソンベ焼きの食器。ベトナムはタイとは異なり、日本以上に中国文化圏にあったため、陶磁器製造も伝わったと思われる。
ムラやゆがみ、ひとつひとつへの手書きの模様絵付けなど、とても素朴でほっとする作り。
残念ながら最近では工業化の波に洗われ、生産は激減しているという。
ここでは、これらを含め、オーナーたちがベトナムで選び買い付けてきたさまざまな雑貨が買える。
8 2, 2005 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)
今晩やっていたNHK-BSハイビジョン「山田風太郎が見た日本・未公開日記が語る戦後60年」が若い頃からの愛読者として面白かった。
『戦中派虫けら日記ー減失への青春(昭和17年〜昭和19年)』『戦中派不戦日記(昭和20年)』『戦中派焼け跡日記(昭和21年)』『戦中派闇市日記(昭和22年・昭和23年)』までは出版されているが、93年(平成5年)まで実は日記は書き継がれていたのだ。
戦時中山田風太郎(1922-2001)は召集令状を受けるが前月の肋膜炎のために不合格となり、医科大学で医者の道をめざしていて23歳で敗戦を迎える。
戦後、忍法帖ものなどで人気作家となっても風太郎は小学校の同窓生34名中14名が戦死し、自分は「不戦」であり「傍観者」であったあの戦争がなんであったのか、をずっと考え続ける。いわゆる戦記を千数百冊も読みふけるが合点できない。「皇国青年」であった戦時中の自分をさらけ出す日記をあえて出版した意図の中には、この番組で紹介されていた戦後日本と日本人、そしてこれからに対する深い憂慮があっただろう。
60年の政治の季節を過ぎ、64年の東京オリンピックへむけてひたすら経済発展と土木工事に狂奔するさまを「これは戦争である。国内戦争である。戦争中アジア・太平洋にあふれ出たエネルギーが国内に沸騰している。これは国内に封じ込められるものではない。なんとか昇華させないと必ず国外に出て行く」と評し、75年のオイルショックに「いずれ欧米諸国は十字軍を組織し、石油の確保に向かうだろう。座視しているものに報酬はない。そのとき日本はどうする?」と書き記す。
30年前の風太郎の憂慮は今現実となっている。
写真は最後の日記の終節。「雨中散歩 終日水底にいる如し。」
8 1, 2005 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)