花かんざし
3 31, 2005 18.花・木・野菜・生きものたち | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
※「立像(シュザンヌ)」(1925)。ガラスの厚みに応じて白濁の具合が変化するオパルセント・ガラスの特性を生かしている。
きょうから4月11日まで、ルネ・ラリック展が日本橋高島屋で開かれる。
私は月初めに京都に行ったときに既に一度観た。
ラリック(1860〜1945)はとても興味深い経歴のアーティストでありデザイナーだ。近代の資本主義社会と産業化のなかにおける工芸、デザインのあり方、人々にとっての意味や意義をとらえ返す上で、アート&クラフツの挫折の後の時代をはるかに長い射程で生き抜いた。建築、彫刻、絵画などの「大芸術」に比してマイナーにとらえられていた工芸が芸術の名に値することを実証し、後に産業(量産)と融合することを目指した。
19世紀末、アール・ヌーボー華やかなりし頃、宝石の価値の高さを誇示する旧来の宝石細工ではなく、遠近法、色彩法、彫刻技法などの美術の手法を大胆に駆使し、自然界の生き物や妖精、女神、牧神たちなど独自のイマジネーションの世界を七宝細工で表現する。エミール・ガレに「現代宝飾工芸の創始者」と言わしめ、1900年のパリ万博では「ラリックの陳列こそがフランスの勝利を表している」と評された。
名声の絶頂で、すでに50歳になってから、彼はガラス工芸に本格的に転身する。
あらゆる素材を試し、色遣いを研究し、また逆に無色透明さの美を光と影だけで表現する。
アール・デコ期以降の産業化における問題は、もっと違うジャンルのモダン・デザインとの関係や比較の問題としても調べてみたい。
友人の美術工芸史家で日本におけるラリック研究の第一人者である池田まゆみさんが、この展覧会(池田さんが監修)の図録も兼ねた『ルネ・ラリック 光への軌跡』(平凡社)を刊行した。たくさんの写真と歴史的な流れが分かりやすい構成、詳細な解説がすばらしい。
今月は19日に「箱根ラリック美術館」(仙石原)もオープンしている。
3 30, 2005 10.美術工芸 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
この2週間、風邪で寝込んでいて、ほとんどろくに食事を摂らなかった。1日1食すらしていないだろう。
で、というわけでもないが、大学に入学する息子の服をPoloラルフローレン鎌倉で買ってやった後、由比ガ浜の「Ristorante Cipollino」へ。
若宮大路からちょっと入った住宅地にひっそりあるので観光客には分からない。地元のマダムたち御用達。
アンティパスタは鮮魚のカルパッチョ、ホタテのソテー、グリーンピースソース添え。ホワイトアスパラとポーチドエッグ、トリュフの香。パスタは仔ヤギのストロッツァプレティ。魚はポロネギ、あさり、赤たまねぎ添えの鯛のロースト。肉は仔牛のロースト。デザートはかぼちゃのタルト、レモンに漬け込んだフルーツとキャラメルのアイスクリーム。クレマコッタとバニラのアイスクリーム。ここのコーヒーは香り立っていてとてもおいしい。
2週間分の食事を取り戻したような気分。
3 24, 2005 03.私の好きな鎌倉の店・洋食 | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(1)
※図は同潤会青山アパートの一戸(『間取り百年—生活の知恵に学ぶ』吉田桂二・彰国社より)
「集合住宅(アパートなど)」「住宅団地」という建築・住まいというのは意外と新しい。建築家・山本理顕氏によれば1920年前後にドイツやオランダで作られ始めたのが最初という(『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』上野千鶴子・平凡社)。
第一次大戦後、労働者に大量の住宅を供給する必要があったと同時に、それまでのモニュメンタルな建築物が中心となる都市から、住宅という居住単位を中心にした都市へという新しい志向が背景にあった。
「集合住宅という形式の中では一つ一つの住戸がセルのようなものとして扱われる」「家族という生活の単位がこのセルの中に閉じこめられていいんだという考え方が(1920年代に)発明された」(山本・同上書)
職住分離、生産と消費の分離—住むところ、生活の場は生産の場所から徹底的に切り離された。
これらの動きは日本の建築や都市作りに大きな影響を与える。
1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東京で、最新の耐震性を備えた鉄筋コンクリート造りのアパートが初めて完成したのは1927年(昭和2年)だった。図の同潤会青山アパートは、風呂は無いが上下水道、都市ガス完備で当時としては最先端の設備であり、入居者は高収入の給与生活者が多かった。
3 21, 2005 16.都市・住い・インテリア・暮らし | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
『間取り百年』(吉田桂二)-1では、近代日本での「純住宅」の始まりをまず見てみた。
それまでの住まいは、農家であれ商家であれ、職人の家であれ「生業」と一体となったものだった。
普通の人々にとって「職と住」そして「生産(労働)と消費」が分離するというのは日本の歴史上初めてなのだ。
戦後の「間取り」に行く前にもう少し戦前をみておきたい。
明治日本は西欧に追いつき追い越せと急激な殖産興業をはかる。都市を中心とした工業化地帯には労働力として農村から人々が急速に流入する。
当時の主力である紡績業を中心とした単身労働者(圧倒的に女工が多い)に、今で言う「プライベートな住まい空間」などむろんなかった。ほぼすべて工場の「宿舎」で「寝起き」する。だだっ広い部屋に荷と寝を含め「畳1畳」ほどが割り当てられる。24時間交替制なので「実際は2畳ほどを使うことができた」(横山源之助『日本の下層社会』╱岩波文庫・細井和喜蔵『女工哀史』╱岩波文庫)。
大きな宿舎を用意できないような工場の労働者や家族を受け入れるために「長屋」が急増する。労働力は「再生産」されなくてはならない。
図は、昭和5年(1930年)頃、東京北区王子の工廠に隣接して建てられた一棟二戸建長屋。同じもの、少し広いものが並んで建っていた。用水は二棟に一カ所、外に共同井戸。放流下水は無いが都市ガスはある。
間取りは2畳の玄関の間と6畳、4畳半の3室と、2階に6畳1間。1坪の台所と便所。風呂は銭湯に行くから無い。
2階を工廠に勤める独り者に貸していた夫婦と子ども3人の家族はこれくらいでも狭いとは感じていなかったようだ。
当時東京郊外に一戸建て純住宅を建てられたような人々はもちろん高級官吏、経営者層、上層給与生活者、知識人などであり、一般の都市生活者の住まいはこの程度が普通だった。
なお、この下に膨大な「下層民」の「貧民窟」が存在した—松原岩五郎『最暗黒の東京』╱岩波文庫、中川清編『明治東京下層生活誌』╱岩波文庫等参照。
3 19, 2005 16.都市・住い・インテリア・暮らし | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)

仕事がら若い学生とよく話すので、彼らのことばの使い方に敏感になる。
「やばい」ということばが肯定的に使われるようになったのにもずいぶん前に気づいた。
最近は「ありえない」の氾濫だ。
単位不足の掲示を見ても「ありえね〜」。雪が降っても「ありえないよね」。付き合っているカレシが本当は30代だったと聞いても「ありえない」。
「ありえない」はむろん現実の客観的可能性の描写のときに使われることばだが、今の使い方は「現実を目の前にして」それを認めない、認めたくない、現実と切り結ばずただ自分的世界を保とうとする、という心情の吐露と仲間意識・共感の希求に使われている。
ひと頃の「ウッソ〜」「信じらんな〜い」に取って代わったようだ。
秋月高太郎は『ありえない日本語』(ちくま新書)で、「信じられない」というとらえ方にとっては、信じられないが現実世界はこうだ、という方向で自己の認識も世界も変更可能だったが、「ありえない」という話し手にとっては、自分の情報世界を保持し、それと合わない現実世界の方を切り捨てるという方向性を持つ、と述べている。「現実にはこうだけれど、わたし的にこうだ」。
「信じられない」から「ありえない」への変遷は、若い人をとりまく日本社会の閉塞状況の深まりにおそらく対応している。
3 17, 2005 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック(2)

ピンで留められたメモ—「いい波なので海にいます」
春の野草たち、土筆、ノビル、アシタバ…、山の新緑、夏の蛍、秋の柿、枇杷…。
そして一年中さまざまな表情を見せて拡がる海。
三浦半島西側の秋谷は自然と心地よい風と気持ちいい隣人たちがいっぱいだ。
海沿いの谷戸(やと)の古家に移り住んだ夫婦(後に自宅で出産もする)が、ゆったりと心豊かな生活を綴る。
絵と文は広田千悦子さん。写真は南の島や水、海、懐かしい風景にいる子どもたちなどをテーマとしている写真家の広田行正さん。湘南の風や空気感の表現がすばらしい。セピア色の写真の中の子どもは昔の自分ではないかとふっと思わせる。
『湘南ちゃぶ台ライフ』(阪急コミュニケーションズ)
広田さんのHP-Peace Blue
お二人のライフスタイルコラム
その後ブログも始められている。
「湘南ちゃぶ台ライフ」日記
3 16, 2005 14.読書三昧 | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック(0)
天ぷらは江戸の頃は屋台で供される立喰いの庶民の食べ物だった。
寿司と同じように、現代では高級化と低廉化の二極になりつつある。
鎌倉で天ぷらといえばまず老舗の「ひろみ」。
おまかせなどのコースのカウンター席は2日以上前からの予約が必要だが、テーブル席では気楽にさまざまなメニューから選べる。
小津安二郎は当時の松竹の俳優たちを連れてよく訪れた。天ぷらをつまみに熱燗と先代の主人、奥さんとの会話を楽しみ、最後に天丼を食したという。
小林秀雄は昼の散歩の途中や夜ゴルフの帰りなどに寄る。昼は決まって天丼で、かき揚げ、穴子、メゴチだけが載っている特注丼だった。この天丼がいつしか「小林丼」と呼ばれメニューとなった。
「ひろみ」のてんぷらは胡麻油をたっぷり使っていて香ばしく、少し狐色にカラッと揚がっている。活車海老、タラの芽、キス、ワカサギ、アスパラガスなど。写真のものにはさらにミニかき揚げ丼が付く。
酒は福岡の焼酎「蔵の平太」。スペイン産シェリー酒の樽で作るのでブランデーのような芳香がする。
3 14, 2005 02.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック(1)

やたらと絶賛されているようだが、私にはおもしろくなかった。
村上龍の小説に村上春樹の登場人物が配されたような、とか言って褒めている人がいたが、龍の竜頭蛇尾に春樹の優柔不断が組み合わさったようなというべきではないか。
だいたい主人公が「戦時拠点偵察業務従事者」に唯々諾々となるところが分からない。だから後半の彼の葛藤は「コップの中の嵐」にしか見えないのだ。
「私たちが本当に戦争を否定できるかを問う衝撃作」とか「新しい戦争のリアルがここにある」などとオビにあるが、そんな風には読めない。
「戦争のリアリティ」は「戦闘のリアリティ」の問題ではない。戦争をできるようにする仕組みと何もしないことによって戦争・戦時体制が作られ従っていく普通の人々の心理と行動についてのリアリティが問題なのだ。だからこの小説の設定の前段階のリアリティこそが描かれねばならない。
この小説のイマジネーションより現実の「有事体制」の動きの方が進んでいる。
3 13, 2005 14.読書三昧 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)

まだ合否判定会議は残っているが、一般入試の学科試験、実技・面接試験、採点の3日間が終わる(配点は国語・英語各100点、実技200点、面接100点)。
今年から一般入試にも面接を取り入れた。上野毛デザイン学科を志望した動機や、ここでデザインを学んだ上で将来どんなことをしたいのか、ということを話させ、質問する。顔や態度が見られ、基本的なコミュニケーション能力があるかどうか分かってとても良い。
受験生もたいへんだが、私も1日目の朝から発熱し、結局3日間とも38度7分状態で苦しかった。昨日は面接の進行をやっていたのだが、だんだん声が出なくなり、ゴッドファーザーのようになる。受験生をおびえさせたかもしれない。
3 13, 2005 11.教育と学びのデザイン | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
小泉誠さんのデザインするものは家具やプロダクトのどれも技巧の粋がこらされているのだが、それをことさらに感じさせず、スッとシンプルで、それでいてとても暖かい。木も喜んでいるようだ。
写真は木の香立て。右から神代スギ、メープル、欅、モンキー、タガヤ。
3 13, 2005 07.デザインの世界 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)

朝方、頭がグラッときたので熱を測ってみると38度7分。
きょうから私の学部の一般入試なのでフラフラしながら大学へ。幸い試験監督(立っていなければならない)ではなく待機要員に割り振られたので助かる。
脚を踏み出すと身体全体にジンと悪寒が走る。咳も少し頻繁になる。ホームの端を歩かないように気を付けて帰宅。まだ38度7分。胃にも来ている。
明日は実技試験と面接、あさっては採点と続く。
3 11, 2005 23.日々のなかで | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック(0)
『湘南に家を持つ』(寺倉力・湘南スタイルBOOKS・枻出版社)は、借家住まいから一念発起して、物件を探し、土地と中古の家をローンを組んで購入し、リフォームが一応完了するまでの(当時)三十代後半の夫婦(寺倉氏はフリーランスの編集者、奥さんは会社勤め)の5年間の記録だ。湘南で暮らしたい、と思っている人にはもちろん、これから家を造りたいという人にとても参考になる。
これを読むと、不動産とか住宅建築(リフォームを含め)という領域は、いかに良いアドバイザーあるいは「師匠」と巡り会うか、によって大きく左右されるものであることが分かる。なぜかというと、土地や建物図面の読み解き方とか不動産の評価だとか各種の法律・条件、住宅プラニングと施工などに関して普通の人はほとんど素人であり「クライアント能力」を欠いているからだ。
土曜の朝にどっと配達される不動産の折り込みチラシは、アメリカ人の履歴書と同じで、嘘ではないが限りなく誇大な美化表現にあふれており、かつ欠点、問題点には一切触れない。注文住宅などといってもさまざまな制約の中でけっきょくコンベンショナルな住宅になってしまうことも多い。
寺倉氏は強力なアドバイザーと師匠を持つことができた。
ひとりは、自分で確認した物件だけをそれぞれの顧客に合わせて紹介する、信用と信頼こそが生命線という独りで不動産会社(ケイエスハウジング)を切り盛りする石黒房子さん。
気に入っている今の借家を買って建て直すのはどうだろうか、と相談すると、即座に止めた方がいいと答えが返ってくる。旧建築基準法で造られた家なので、立て直すには土地を支える擁壁から造り直さねばならず多大な費用がかかる。それだけの予算があれば他に良い物件がたくさんある。今の持ち主もそのことを知らずに将来住もうと思って買って持てあまししかたなく貸家にしているのだという。
寺島夫婦の要望は、陽当たり、風通しの良さ、周囲を隣家で囲まれない、海まで徒歩か自転車の距離、予算(土地に3000万、建物に2000万)からいってオーシャンビューと交通の便は絶対条件から除外する。
石黒さん以外の不動産業者には鼻であしらわれる—「皆さんそうおっしゃるんですよねえ」。
もうひとりは友人に紹介された野口薫さん。戸塚で園芸雑貨の店「インターパーツ」を営み、またランドスケープデザイナーとして湘南の景観に調和した庭や家をデザインしている。建築家の故・佐賀和光氏が光と風を思い切り取り入れた湘南らしい建築スタイルを創ったとしたら、野口さんは湘南らしいランドスケープを創り続けている。
寺島氏は「この人を師匠と呼ばせていただこう」と決める。
師匠の指南はシンプルだ。「フリーターに毛の生えたような仕事をしてるとさ、いつなんどき何が起こるか分からないよな。そうしたときにスパッと売れるような家じゃなきゃ困るだろ。売るに売れなくて借金だけを払ってるなんて、ぜんぜんハッピーじゃないだろ。だから、ごく普通の、誰もがいいと思えるような土地を選ぶべきなんだよ」
家から海が見えるというのは都会人はあこがれるが、塩害、砂害と向き合って暮らしていくというのは実はたいへんなのだ。「オーシャンフロントの土地は、自分が窓ガラスを洗ったりしなくてもいいような、メンテナンスにお金をつぎ込める人が住む土地なんだよ」。山の上の眺望抜群といっても車もうまく入らず、家族に身体の不自由な人を抱えた場合は苦痛になるだろう。
広告につられて舞い上がっては師匠の冷徹な分析評価に頭を冷やすさまが活写される。
ようやく気に入った中古住宅付き土地を見つけ、師匠のプラニングでリフォームしていくプロセスもとてもおもしろいのでまた記したい。
3 9, 2005 16.都市・住い・インテリア・暮らし | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)
パトリックも奥さんも京都は初めてなので、まずは中学生の修学旅行のようなコース。
清水寺は「アルハンブラ宮殿よりインプレッシブ」。
「絶景かな」の南禅寺三門に昇る。パトリックは高所に弱いので端にはいかない。屋根の木組みにしきりに感心している。
昼食は「鹿ヶ谷山荘」。霊鑑寺とノートルダム女学院の間を大文字山に向けて登ったところにある。滋賀の古民家の材を運び別荘を改築したレストラン。ペルシャ、インドなどオーナーが買い付けた家具、食器などがあり、通されたコーナーは李朝家具で統一されている。虎脚盤に京懐石。つわぶきの葉の陰にたくさんの具。
足がしびれることをフランス語では、足に蟻がいるというそうだ。
北野天満宮は満開の梅の香りでいっぱい。日曜で天気も良くたくさんの人出。
金閣寺は京都が初めての人には欠かせないコース。まあ一度は。
龍安寺石庭。パトリックはむろん余白の美、レイアウトの妙には敏感だ。たっぷり1時間は堪能する。
3 8, 2005 22.旅先で | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
この100年で、日本ほど人々の住まいの有りようが変貌したところはたぶんないだろう。
世界的に見れば、100年や150年前の建物に住んでいる人はヨーロッパでは当たり前にいる。パリジャンが住むアパルトマンも、イギリス田園地方の民家も、ナポリの船宿も、プラハの庶民の家も、内部の設備機能は変わっても、根本的な相貌を変えたわけではない。
アジア、アフリカ、南米などでも、たとえば写真家・小松義夫の「世界の住まい」(週刊文春連載)を見れば、おそらくここ100年くらいはあまり変わっていないのではないかと思われる。
日本の住まいは100年でまったく変わってしまった。
石やレンガと木の文化の違いとは言えない。木でだってちゃんと作れば100年や150年は充分に保つのだから問題は違うところにある。戦災ですべてを失ったから?ナチスの空爆で徹底的に破壊されたドレスデンは以前の姿を見事に復興した。だからそういう問題でもない。
1930年生まれの建築家・吉田桂二著『間取り百年—生活の知恵に学ぶ』(彰国社)は、日本各地の実在した家々の間取りを図解し(ときに誰がどこに寝たかを含め—戦前までは性別就寝が普通だったという興味深い問題もある)、住まいの変遷とそれに基づいた暮らしや生活の変化はどうであったか、それはどのような社会的背景をもとにしていたのか、を描く。
吉田桂二氏は「この時代を生きた人間として、後世のために書きしるしておくのが義務ではないか」「21世紀へ願いを託す遺書のようなもの」として書いている。
20世紀の幕開け、日本では明治中期、日露戦争の直前、官公庁や学校などを除き、一般庶民の家や店はほとんど江戸時代の造りを継承していた。今で言う「民家」か「町屋」だった。また戦前は自己所有はほとんどなく9割以上は借家住まいが普通だった。さらに今の核家族住宅と違ってひとつの住まいには直の血縁以外のさまざまな人が共に暮らしていた。たとえば使用人(女中、下男)、書生、居候。商家であれば番頭、手代から小僧にいたるまで。
大正時代(1912〜26)になると、敷地も家も小さいが、生成されてきた中産階級が都市郊外(今の東京中野、杉並、世田谷といったところ)に一戸建て家族用純住宅を建て始める。日本における「近代家族」の住まいの始まりだ。
図は大正末期に製薬所経営者が今の東京中野区に建てた家。今で言えばかろうじて「4K」か。居住者は夫婦に子ども6人(この頃は子どもの数はこれくらいが普通)+女中の9名(ある程度の中産階級以上は女中を雇うのが通常で、主として地方農家の娘が経済的意味だけでなく行儀見習いなどの意も含めて「奉公」した。戦時中、女中の実家に疎開するということもよくあったようだ)。客間は常に空けていたので8畳と6畳の2間に8人が寝ていた。別棟で湯殿がしつらえてあるのは銭湯に行くのが普通だったころとしては異例だが、当時の中野は銭湯までほど遠い郊外だったかららしい。上水道は無いが都市ガスは敷設されている。風呂は石炭焚き。流しはその頃の東京で一般的だった木箱で土間にしゃがんで使う「座り流し」。
『間取り百年』の歴史は、狭い意味での建築史にはまったくとどまらず、日本における「近代家族」の成立とその後、日本の工業化と人々の住まい、生活用品と生活の変遷、等々政治・経済から文化にいたる広範な問題に関わっており、特に戦後の激変がまさに問題なので、また記したい。
3 5, 2005 16.都市・住い・インテリア・暮らし | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)
提携先のリモージュの友人、パトリック・オドゥヴァール氏が3度目の来日。
パトリックについては「絵付けの魔術師」パトリック・オドゥヴァールで以前書いたように18世紀からの伝統を受け継ぎながら、しかも現代的インスピレーション力に優れた素晴らしいアーティストだ。
銀座和光(B1F)で3月3日、4日、5日、7日と絵付けの実演をする。
写真は今回のフェアのために特別に創ってきたもののうちのひとつ。繊細でかわいらしくかつ豪華。
3 3, 2005 10.美術工芸 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)

起きて鏡を見ると顔が犬になっていた。
頬はふくらみ、鼻は少し丸くなって鼻の下が伸び、上唇は引き込まれて下唇に覆いかぶさっている。
飼い主は飼い犬に似るという。鏡の中の顔はビーグルというよりフォックステリア系なのだが、この際そういう問題ではない。
10日ほど前、ころんで歯を打った。歯医者には行ったのだが本格的な治療はまだの状態で、ここ数日頬がうずき出していた。
診察してもらうと、ぶつけた歯の根元が炎症を起こし急速に拡がったようだ。とりあえず抗生物質と痛み止めをガシガシ飲み、数日後にまた行くことに。
もちろんカフカを始めとするあらゆる変身譚が頭をよぎり、自分の顔と精神のアンビバレンツ、アイデンティティ・クライシスについてひとしきり思いをめぐらせたが、どうなるものでもないので仕事に戻る。
3 1, 2005 23.日々のなかで | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(1)