2004年10月30日
『夕凪の街 桜の国』(こうの史代/双葉社)

この漫画に関してはいろいろな想いがあるのだが今は書かない。
さまざまな先入観なしに、ただひたすら少しでも多くの、とくに若い人々に読まれてほしい。
私の薦めたものにはすべて心を打たれたと言ってくれた若い人がいた。ならば信じて読んでみてほしい。私で不足なら、漫画の歴史に目配りを怠らない漫画家みなもと太郎氏が「マンガ界この十年の最大の収穫」と言っている。
わずか100ページ、800円の本だが、もし私にお金の余裕があるなら何十冊でも買い入れて、周りの人に贈りたい。
3つの短編から成っている。
『夕凪の街』ー1955年(昭和30年)広島。二十代半ばの女性、皆美(みなみ)。
『桜の国1』ー1989年ころ。中野区新井薬師前。皆美の弟の娘、小学5年生の七波(ななみ)。
『桜の国2』ー2004年。二十代半ばの七波と父、そして広島。
3つの物語は時を追って語られてはいるのだが、ウロボロスの蛇のように循環するものでもあり、あるいは無限の螺旋の中途であるようにも思える。
1968年生まれの作者がこれを描きえた、ということに、文芸でも映画でもアートでもデザインでもなんでもいいが、想像力と創造力が試される仕事をしようと志す若い人々は学んでもらいたい。
そしてえらそうなことを言っている年長者は(私も含めて)恥じ入るしかない。
10 30, 2004 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク
|
| トラックバック(7)
2004年10月29日
子犬の成長の驚異

※写真はクリックすると拡大表示されます
生まれたての赤ん坊から成体になる成長過程での変化の大きさは、動物種によって異なるが、犬ほどすさまじいものはないそうだ。
「幼い子犬の頭蓋骨は縦横ほぼ同じ長さである。4ヶ月齢に達するまでに、頭蓋骨のプロポーションは驚くべき変化を遂げ、成犬と同じ形に近づく。その後は、プロポーションは変わらずに、大きさだけが変わる。つまり、形は変わらずにサイズが大きくなる」(『犬の科学ーほんとうの性格・行動・歴史を知る』(スティーブン・ブディアンスキー/渡植貞一郎訳/築地書館)
左上の生後3日目(6月6日)の写真は犬といわれれば犬に見えるが牛の子だといわれても分からない。
中上の生後4週(6月29日)になるとたしかに子犬のようである。体重1.0Kg。
右上の生後8週(7月29日)では脚の踏ん張り方が幼児的で顔も丸いが子犬そのものだ。体重1.6Kg。
20週(もうすぐ5ヶ月)の今はもう写真(下)だけでは成犬と区別がつきがたいだろう。体重5.0Kg。
う〜ん、あとはただ大きくなるだけか。
10 29, 2004 24.犬と暮らす | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月27日
さがみ包丁処 とり一(鎌倉御成)

1987年頃か、まだ鎌倉に越してくる前、鎌倉を散策中にとても風情のある割烹を目にした。銭洗弁天に抜ける佐助隧道にわかれる路を右に行った扇ガ谷の山つきにある閑静な邸宅が並ぶ一角、もう一本北側からの路だと小さなトンネルを抜けたところだ。庭のたたずまいの素晴らしさが生け垣越しにもうかがえた。
御成の「さがみ包丁処 とり一」で「地鶏キジ焼重」(写真)を食べながら店主の川崎肇さんに昔の話を聞いていたら「静かな谷戸 雅な庭(味のかくれ里 割烹とり一」という往時のパンフレットを見せていただいた。表紙に写っているのはまさにその割烹だった。女優の林美智子、作家の永井路子などが賛辞を寄せている。
昭和とともにそこは閉じ、1989年(平成元年)御成通りに店を開く。元になった1948年(昭和23年)創業の鶏肉店「とり一」(藤沢の契約農家で飼っている平場飼いの地鶏を売る鎌倉でも有名な店、弟の息子さんが今は切り盛りする)は斜め向かいだ。
川崎肇さんは鎌倉飲食研究会の会長でもある。800年前、鎌倉の武家料理はどのようなものだったか、を文献にあたるのはもちろん考古学者、陶芸家などに相談し「北条弁当」というメニューで再現した。
当時は豆味噌や醤油がまだ無く、味付けせずに蒸したり焼いたりした食品に粗塩や梅酢、麦から作った穀醤などを付けて食べるのが一般的だったらしい。「口中調味」が基本のようだが、もちろん現代人向けに味付けもされている。
京の「雅」に対して、鎌倉は見てくれより食して滋養になる質や実を追求したという。
10月から3月までメニューに登場する「鳥ちゃんこ」は誰もが満足する。
10 27, 2004 03.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | 固定リンク
|
| トラックバック(2)
2004年10月26日
『日本語から引く「食」ことば英語辞典』

仕事上の必要や何か特定のことを調べようと思って購入したわけではないが、発売されたばかりの『日本語から引く「食」ことば英語辞典』(小学館)がおもしろい。
食や料理に関する約4000の日本語から英語が引け、解説や用例、特に外国人にはわかりにくいものに関しては英語での説明、基本語についてはフランス語・イタリア語・中国語も載っている(ただ辞典としては英語での索引もできればほしい)。
普通名詞、特に日本に特有(とされている)ものについて英語でなんというかはそれなりに面白い。
そうだ「こんにゃく」は「devil's tongue jelly(悪魔の舌のゼリー)」と呼ばれるんだった、とか、「sashimi」はすでに19世紀後半に英語に取り入れられ、「tempura」がOEDに初出したのは1920年(大正9年)、「fugu」も英語になっているとか。
「味」や「香り」「匂い」に関しては複雑だ。
舌で感じる味は「taste(テイスト)」だが、においや香りを含む風味ということになると「flavor(フレイバー)」を使う。匂いは一般的には「smell(スメル)」だが嫌な匂いに使われることが多い。
花や木、ワインなどの芳香は「fragrance(フレイグランス)」、素材本来の香りや発酵・焙煎によるものなど鼻で感じる香りは「aroma(アロマ)」。これはウィスキーにも使われる。
「umami(旨味)」(池田菊苗博士の発見した昆布のだし汁の旨味成分であるグルタミン酸ナトリウムによる旨味ーのち化学調味料に工業化される)はそのまま英語に取り入れられ、甘い(sweet)、酸っぱい(sour)、塩辛い(salty)、苦い(bitter)と並んで5番目の基本の味としてAmerican Heritage Dictionaryに解説されている。
料理自体に関することばも食文化の違いが表れて興味深い。
同じ「焼く」といっても、英語では、肉や魚をオーブンで焼く「roast(ロースト)」、直火、焼き網などで焼く「grill(グリル)」、パン、ケーキなどをオーブンで焼くのは「bake(ベイク)」、パンなどをこんがり焼くのは「toast(トースト)」、強火でさっと表面を焼くのは「brown(ブラウン)」など使い分ける。
また「揚げる」のは単にフライではなく、英語の「fry(フライ)」は薄く油を引いて「炒める」の意で、日本でいう衣揚げ(天ぷら、えびフライ、トンカツなど)には「deep-fry」を使う。
クイズ番組に使えそうな記述もある。
「シーザーサラダ(Caesar salad)」は、レタス、ガーリック、アンチョビー、クルトンにオリーブ油、半熟卵、レモン汁、粉チーズを加えたものだが、ローマ帝国のシーザーとはなんの関係もなく、メキシコのレストラン「Caesar's Place」で、大勢の客にあわてた店主が店にあったものをすべてぶちこんで作ったことから、とか、
「持ち帰り」はもうすっかり日本語になってしまった「take out(英ではtakeaway)」だが、レストランなどで食事を食べきれないときに残りを持ち帰るための袋のことを「doggy bag」という。元々「うちの犬のためだ」と恥ずかしそうにお客が言っていたことが始めだが、今その言い訳がなくなっているのに袋の呼び方は変わっていない、等々。
10 26, 2004 19.食と農、健康と病 | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月25日
『風雲児たち』みなもと太郎

歴史を題材、背景にした文芸は数多い。
私は「文芸」のなかに漫画・コミックを当然入れるが、歴史を扱った漫画という範疇では、みなもと太郎『風雲児たち』が圧倒的におもしろい。今までに出た三十数巻(いろいろな版があるが私は潮出版社のもの)は何度読み返したかわからない。何回読んでもげらげら笑い、勇気づけられ、そして少し涙する。
1947年京都生まれの彼は、70年代初頭のナンセンスギャグマンガ『ホモホモセブン』でブレイク。いしかわじゅんは「計算しつくされたイイカゲンさ」と評し、復刊された『レ・ミゼラブル』に糸井重里は「ふざけた本気が胸を撃つ」とオビに書いた。
79年、雑誌『月刊少年ワールド』の依頼に応じて始めた連載の当初のタイトルは「幕末チャンバラ伝・風雲児たち」。だからもちろん「幕末」をテーマに描く「つもりだった」。
ところがいろいろ調べ、構想を練っているうちに、幕末を描くのだったらその遠因となっている「関ヶ原の戦い」に遡らねばならないと考える。「なんのために関ヶ原にきたのかまったくわからない藩が三つある。すなわち長州、薩摩、土佐の三国であった」。これらの国の江戸幕府との300年の伏流を捉えなければ、幕末で活躍する風雲児たち(長州の吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎・大村益次郎・伊藤博文、薩摩の西郷隆盛・大久保利通・桐野利秋、土佐の坂本竜馬・武市半平太・岡田以蔵・中岡慎太郎・板垣退助)らは描けないではないか。そして倒幕の薩摩・長州・土佐を描くなら佐幕方の会津にだって歴史と人材と言い分はあるだろう…という具合で、連載誌は途中で『コミックトム』に替わったが、毎号編集者に「早く幕末に行け!」と作者が叱咤される絵がお馴染みの笑いを誘いながらなかなか幕末までたどりつかない。20年描き続けて竜馬がようやく18歳になったところ、というペースだ(すでに登場人物は抜粋しただけで300人を越える)。
私の理解したこの江戸〜幕末を背景とした大河漫画のテーマは「外を知って己を知る」ということだ。必然的に「外を知ろうとした」平賀源内、前野良沢、最上徳内、伊能忠敬、林子平、大黒屋光太夫、高野長英、渡辺崋山、シーボルトなどの先駆者たちがクローズアップされ、江戸の世が単なる太平ではなく、世界との関係のなかで次の時代への蠢動をはらんだ緊張したものとして生き生きと描かれる。
そして、みなもとの視点は為政者・権力者中心のNHK大河ドラマや偉人たちの物語をつぐむことではない。
たとえばシーボルトが残した娘イネが異邦人として医学をめざす姿と漂流という偶然から同じく異邦人として運命を切り開いたジョン・万次郎に一巻をささげている。
「素人に耐えられる状況ではない…であるが故に、この二人は、なるたけ明るい性格に描きたい。史実を歪めてまで描くつもりはない。実際どこかに底抜けの明るさをもっていなければ、環境に押しつぶされ、挫折するはずだと思えるからである。しかし、わずか15〜16歳で第一歩を踏み出した二人は、それぞれ人生を立派に切り拓き天寿を全うして亡くなった。見事である、と思う…この二人がもし出会えることがあれば、夜通し語り合わせてあげたい。互いの苦労がわかりあえる、多分、数少ない”仲間”だと思うから」(2人はともに同じ1827年生まれ)
もっと知られていない市井の人の運命も情感豊かにポッと出てくる。秀忠の子、後の保科正之を宿す娘を幽閉の寺へ送り出す父、浪人神尾某の章は本筋には関係ないようにみえるが、そのユーモラスな表現に笑いながら私はいつも目頭が熱くなる。
一応の完結として刊行された潮出版社『風雲児たち』第30巻が出版されたのは1999年。描き始めてから20年だ。
そして25年目の今、実はまだ終わらせず描きついでいる。みなもと太郎はもうこれをライフワークとするしかない。私もつきあいます。
10 25, 2004 14.読書三昧 | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月22日
「おしずかに」「おもうわよ」ー悼・川崎洋さん

詩人の川崎洋さんが10月21日亡くなった。73歳。
私にとって若い頃からことばの持つ根源的な力と優しさを教えてくれた人だった。
あちこちから「さよなら」を言おう。
※以下の別れのことばは『ことばの力ーしゃべる・聞く・伝える』(川崎洋/岩波ジュニア新書)より
東北からは
「んでぁまず」「ひまだれかけすた」「おみょーにず」「ほんじゃらまだなえ」「おやすみなんしょ」
関東からは
「ごめんない」「ごめんなすって」「さいなあ」「ごめんなんしょ」
信越からは
「ごめんなせぇー」「やすまっしぇー」「ごめんなさんし」
東海からは
「おじゃまさん」「さいなら」「きーつけてかえってな」「あばえ」「あばえなあ」
近畿からは
「おしまいやす」「さいなら」
中国からは
「さえなら」「やすんなはえませ」「ごめんさぇー」「しつれーします」「おじゃまじゃったのー」「またきんさいよ」「まーきをつけておかえりさんせーよ」
四国からは
「もうかいるぜ」「おやすみなはんせ」「ごめんなして」「ちようなら」「いにましょわい」「ほんならまた」「しっけい」
九州からは
「これは」「おそーまでおせわしございましつろ」「そいじゃー」「おせわゃーなってのまい」「やすまんの」「ごぶれいします」「さよなり」「ちいない」「だれやみないよ」「さいなー」
奄美からは
「いきょーろい」
沖縄からは
「あんせー」「いかびらうー」
そして川崎さんが「とくに気持ちを打たれた別れのことば」ふたつを静かにつぶやきたい。
「おしずかに」(盛岡・京都・昔の東京でも聞かれた)
「おもうわよ」(港の堤防で沖へ去っていく艀に向かって中年の婦人が叫んだことばを青ヶ島で教員を務めた人が記したものから)
10 22, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月21日
台風一過の由比ガ浜で

※写真はクリックすると拡大表示されます。
台風一過(といってもまだ強風圏内)の午前7時、家から100mほどの由比ガ浜に行ってみた。
空も海もやや茶褐色がった鈍色。波は高くはないが幾重にも折り重なってせっぱつまったように押し寄せている。
私の横をサーフボードを抱えた青年が通り過ぎる。え?
なんの迷いもない、といった風でずんずんと荒れた海に分け入っていく。
すぐに波で姿は見えなくなる。
だいじょうぶなのか?
しばらくたった後、突然200mくらい先の波の上に彼の姿を認める。
「乗っている」ようだ。
なにかわけもなく感動する。
10 21, 2004 01.私の好きな鎌倉の風景 | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
「年齢と読書」(荒川洋治)

私の好きな詩人・批評家の荒川洋治のエッセイに「年齢と読書」というのがある(『言葉のラジオ』竹村出版/1996所収)。
十代から九十代まで、本、読書に対する姿勢は「おおよそこうではないか」、あるいはこうありたい、というようなメモだ。彼は私と同じ団塊の世代(1949年生まれ)であることもあって、わずか2ページちょっとのこの文章をときどき読み返して、にやりとしたり、感慨にふけったり、焦燥にかられたりする。
〔10代〕
「中学生なら教科書をある程度。図書館の空気に触れる。
高校生は、すいこむ読書。10代後半に読んだ本は体に入る。それ以後は頭にだけ入る」
(そう、「すいこむ読書」「体に入る」という表現がぴったりだなあ。世界が拡がっていく感覚、あるいはことばが作り出す美しさに打ち震えるように覚える感動。今でも高校生の頃繰り返し読んだE.H.カー『歴史とはなにか』やヘミングウェイの『武器よさらば』の原文の一節とか、斎藤茂吉『万葉秀歌』のなかの防人の歌などがふっと口をついて出てくるというのは「体に入って」いるとしか言いようがない)
〔20代前半〕
「みだれる読書。読書の楽しさがわかる時期…とにかくこの時期は乱読。読んだ本が、生涯の読書の”幅”を決めるのではないか」
(学生諸君になんとかこのことを伝え実践してほしいと願う)
〔20代後半〕
「ちからの読書。本から離れる時期である。会社づとめがはじまるので新聞、週刊誌がやっと。周囲に同化、読書の習慣もなくなる…ちからで読書を取り戻すしかない」
(卒業生諸君になんとかこのことを伝え実践してほしいと願う)
〔30代〕
「ひろげる読書。精神的にも経済的にも落ち着くが、いったい自分とは何か、一人風呂のなかで考える時節でもある。これまで関心のなかった分野も含めて、もう一度おさらいし読書のスタイルを見つめ直す」
(この時期が人生と読書ということについては一番分かれ目かもしれない。仕事は忙しく責任もある。子供もできるだろう。単に仕事の上でのノウハウとか人生設計上のステップアップのため、というだけではない深みと拡がりを持てるかどうか)
〔40代〕
「つたえる読書。自分の最終着地点を確認し、必要ではない読書を切り捨てる時期か。いっぱいいろんな本を読んでも、どうにもならない。本を選び、的をしぼる。また年下の人に読書のよろこびを伝えるのも40代のおおきな仕事」
(いつも焦燥にかられるのはこの部分を読み返すときだ。大学で教え始めたので「年下の人に読書のよろこびを伝える」のは少しはできたかもしれないが、40代でも「自分の最終着地点」は「確認」できず「的をしぼる」こともできなかった)
〔50代〕
「ふかめる読書。さらに領域をしぼり、専門書に分け入る。そのことでこの先ひと通り学び直さなくてはならない世界が見えてくる。」
(今私は該当する50代なのだが、あいかわらず「領域をしぼる」ことはできない。「学び直さなくてはならない世界」はだいたい見えているのが救いか。それもどう変わるかわからないが)
〔60代〕
「いこいの読書。人生の色合いがわかり、ちがう世界にいる人たちの言葉も深くとらえられるようになる。ゆとりをもって言葉を味わえる年代。」
(こういう平穏は訪れないような予感がする。ただ他者への理解は深まるだろうが)
〔70代〕
「ならべる読書。書物から得たもの、暮らしから得たものなどを並べ余生を構想する。」
(これも、こういう平穏は訪れないような予感がする。生きていればだが)
〔80代〕
「とける読書。好きな本だけを身辺に置き、何度も繰り返して読み、そのなかにこれまでに見たこと知ったことのすべてを溶かしていく。」
(溶けて地下水となり、次の世代をうるおせればいい。生きていればだが)
〔90代〕
「さわる読書。だんだん視力も弱り、一冊の本を手にとるだけでも努力がいる。”ああこれは本だ”。だがその笑顔は深い。読書の理想郷である。」
(なにも言えない)
もちろん読書という習慣はあくまで個人的なものだし、このタイムラインだって「あてにはならない」(半分はユーモアだ)。
しかし「新鮮な読書を維持するために、精神をフレッシュにして、なまけがちな自分自身と日々たたかう」ために先に述べたように、この短いエッセイをときどき読み返す。
「本を読んでいる人の表情は美しい。たたかっているからだ」
10 21, 2004 14.読書三昧 | 固定リンク
|
| トラックバック(1)
2004年10月20日
犬には色はどう見えているか

※『犬の科学』より。左が通常のヒトが見ているもの、犬には右のように見えている。スペクトルは上が人間の色覚スペクトル、下が犬のもの。クリックすると拡大表示されます。
これまで犬に関する本はけっこう読んできたつもりだったが、今年(04年)2月に翻訳が刊行された『犬の科学ーほんとうの性格・行動・歴史を知る』(スティーブン・ブディアンスキー/渡植貞一郎訳/築地書館=原著「The Truth About Dogs」2000)ほど素晴らしい本に出会ったことはない。
著者のブディアンスキーは、科学雑誌「NATURE」編集部を経て「USニューズ・アンド・ワールド・レポート」誌の副編集長。「科学者・作家・ジャーナリスト。そして犬好き」。
最新の科学的知見を批判的に踏まえていること、そして、犬に対する人間中心主義的な見方や、近代が「国民国家」や「民族」とともに作り出した「純血」概念などをしりぞけて「あるがままの犬を偏見無く認めること」を主張していること、これらを通して犬とのつきあい方だけではなく、我々自身のものの見方、あり方に反省を迫っていること、等が他の凡百の犬本とはまったく違うのだ。
興味深い話が満載なのだが、きょうは犬の色覚について。
長い間、霊長類以外、犬などの大多数の哺乳類は色をまったく知覚できないと思われてきた。しかし最近の研究・実験では犬は明らかに色を知覚すると確定された。ただし人間の色覚障害と同じように限られた色だけを知覚する。
上の知覚スペクトラムで分かるように、犬には「赤ーオレンジー黄ー緑」の範囲の色がひとつの色(濁った黄色というか)として、また「青ー紫」の範囲の色が別のひとつの色(濁った青というか)として見える。この2つの色が白〜灰色〜黒と違って見えているのだ。
人間は色覚の検査でほぼ百通りの色調の違いを識別できるが、犬は白〜黒以外ではこの2つの色調しか識別できない。
芝生の上の赤やオレンジのおもちゃは、人間にとってはとても目立って見えるが、犬には芝生の緑と見分けるのはかんたんではないのだ。同じく盲導犬は、赤・黄・緑の信号を色で見分けて主人に注意を促しているわけではない。
恐竜が跋扈していた時代、ほそぼそと出現した初期の哺乳類に許された唯一の存続環境は「夜」だった。彼らに必要なのはなによりも「夜間視力」であり、弱い光には敏感でない「色」を感知する「色識別光受容細胞」の一部を捨ててでも、弱い光にも敏感なもうひとつの「光受容細胞(色は識別できない)」を発達させた。その結果が夜行性の狼に受け継がれ、やがて分化した犬にも残っているのだという。
ただし、彼らは白黒だけではなく、少なくとも2色の色彩知覚を持っているので、単に明暗だけのカムフラージュにはだまされにくい。また人間には識別しがたい灰色の影の微妙な差を区別できるらしい。
この色覚スペクトラム変換を誰かPhotoshopのフィルターとして作ってくれないだろうか。
犬と同じ目線(もちろん人間と犬は視野角と立体視できる範囲が違い、また犬はだいたい70cm以内のものには焦点が合わない、などの違いはあるが)で撮った写真画像にこのフィルターをかけると犬にはどう見えているかがすぐ見て取れる、などというのはとても面白いではないか。
10 20, 2004 24.犬と暮らす | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月19日
Iray & Iray(アイラ&アイラ)ー渋谷の隠れ家バーで

※写真はクリックすると拡大表示されます。
夜の渋谷で終電まで時間があると、私が酒に関しては絶大な信頼を寄せているバーテンダーTさんが咋夏から独りでやっているバーに立ち寄る。繁華街からはちょっと外れている隠れ家。10名ほどでいっぱいだが、内装・インテリアも行き届いた瀟洒で落ち着いた店だ。
上野毛の「ミキ」に以前出張してくれたとき作ってもらったドライマティニはそれまでどこで飲んだマティニより私にはフィットした。たしか7〜8杯は飲んだのだが、飲みすすむにつれて私の反応に応じて微妙に調合を変えていっている。バーテンダーが酒を客にサーブするというのは、サービスやホスピタリティであると同時にコミュニケーション・デザインでもあるのだ、と感服した。
この夜の私の気分はアイラ(英アイラ島のシングルモルト・ウィスキー)の強いもの。
薦められた「Kingsbury's Iray & Iray」は、アバディーンのKingsbury社がカリラ(CAOL ILA)とボウモア(BOWMORE)から樽ごと仕入れ、9:1の割合で詰めたもの(1993年)。アルコール濃度は60度。
明るい黄金色。香りは私はあまり敏感でないのでなんともいえない。口に含むとやや胡椒に感じるようなドライさが素晴らしく、そして芳香が鼻に抜ける。かすかにボウモアの海草っぽさと最後にこれもかすかな甘味。
終電の時間がうらめしくなる瞬間だ。
10 19, 2004 21.酒と…の日々 | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月17日
『放送禁止歌』森達也

※民放連が出していた「要注意歌謡曲一覧表」。『放送禁止歌』(森達也/光文社・知恵の森文庫)より クリックすると拡大表示されます
フリーTVディレクター森達也は1970年代に入った頃、十代後半の多感な若者だった。
彼は振り返る(以下『放送禁止歌』より)。
「歌の形をとった彼らのメッセージを、嘲笑いながら抹殺する巨大な権威や権力の姿を思い描き、深夜に机に向かいながら、ニキビ面の17歳は受験勉強どころじゃなくなって一人で歯軋りしていたはずだ」「"歌"を抑圧する権力は、絶対に容認できない存在だった」
しかし上京し大学に入った彼は熱い政治の季節の残骸のなかで「燃え上がらせることも鎮火することもできない残り火を、ずっと燻らせ続けてきたような気がする」
TV業界に入り「放送禁止歌」をテーマとしたドキュメンタリー番組の企画に着手したのは1992年、リサーチではほとんどなにも分からない。
98年、いくつかの企画に紛れ込んでいた「放送禁止歌」の企画にフジテレビ編成局の鈴木専哉が「これ、面白いじゃないですか」と声を上げる。「編成局長が許可するわけないよね」と思っていた企画は、思いがけず当時の編成局長・北林由孝から「やるなら中途半端ではなく徹底的にやるように」とGOサインが出てスタートする。
「放送禁止歌にはまさに時代のタブーが集約されているはずで、その歴史的変遷を追えばきっと日本の戦後が新たな視点から見えるのではないだろうか」というのが当初の企画の趣旨だった。
禁止というからには「誰かが」なんらかの理由で禁止しているはずだ。
ところが当時「放送禁止歌」とされた歌を歌った人にいくら取材してもクレームなど一件もなかった、というのだ。
「放送禁止歌の背景を検証」し、歌を抑圧する背後の権力をあぶり出すという当初のテーマは森達也のなかで変質を始める。
禁止を指示している「黒幕」は「民放連(日本民間放送連盟)」であると誰もが漠然と思っていた。
ところが取材すると、たしかに「要注意歌謡曲一覧」というのは1959年から83年まで出している。しかしこれはあくまでもそれぞれの放送局(放送主体)が独自に放送するかしないかを判断する際のガイドラインでしかない、という。
過去にも現在にも「放送禁止歌」など存在しなかったのだ。
にもかかわらず、1971年にはすでに述べた「放送禁止歌」というタイトルの歌が作られ、現実に放送からは消されてきた。
TVやラジオの制作現場の人間は「確か『竹田の子守唄』は放送禁止だったよなあ」などとつぶやきながら、打ち合わせや収録の忙しい日々を送り、誰も疑問には思わなかった。
歌を規制する巨大で横暴な権力の暗躍を予想していいた森は撃つべき相手を失う。
しかし現実に規制は今も続いているし、日々増殖し続けている。
森にとって、過去のある歌が規制された事情や背景などはすでにどうでもよくなった。
「射程に置くべきは現在だ。自分自身を含めメディアに帰属する一人ひとり、そしてメディアを享受する一人ひとりが、実は無自覚な"規制の主体"であることを現在進行形で抉りだし、画面に定着すること」がテーマとなる。
「…皆が自分で考えていないからでしょう。マニュアルや他人の判断を鵜呑みにして、自分自身で考えるという当たり前のことがなされていない。特にマスメディアの方々に対して、私はその思いを強く持っています」という部落解放同盟の幹部の話の後に、キャメラはスタッフルームの鏡に向かう。
「被写体は他にない。レンズを自分自身に向けないかぎりは、この作品は終われない」「画面いっぱいに映るのは、鏡に映りこんだキャメラのレンズであり、キャメラを持つ"僕"とその背後のメディアだ。同時に、キャメラのレンズが向けられているのは、まさしくテレビの前の視聴者である"あなた"なのだ」。
1999年5月23日の未明放映された森達也の52分間のドキュメンタリー「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」のエンディングは、真っ黒な画面にタイムコードだけが入り、「超Aランク放送禁止歌」と「されてきた」岡林信康「手紙」が3分間流れて終わる。
…
もしも差別がなかったら 好きな人とお店が持てた
部落に生れたそのことの どこが悪い なにがちがう
暗い手紙になりました
だけど私は書きたかった
だけど私は書きたかった
10 17, 2004 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月16日
Seedless Bar シードレスバー(鎌倉由比ガ浜)-1

※写真はクリックすると拡大表示されます
Coorsの巨大なボトルやネオン管、宣伝電光掲示板、埋め込まれたTV、プレート、「Movie Time Popcorn」と記されたポップコーンのミニ製造器(写真右)、よくわからないオブジェ、60〜70年代ロック、そして窓外に拡がる海。
由比ガ浜R134沿いのシードレスバー(Seedless Bar)は、カリフォルニア・スタイル・レストランとも看板に書いてあるが、たしかに私が行ったことがあるカリフォルニアのサン・ディエゴからロサンゼルス、サンタ・バーバラにかけて、あるいはモンテレーからサンタ・クルーズあたりの海沿いルートにありそうなカジュアルなレストラン・バーだ。
写真はカウンターだが、海に面してカップルシートや5〜6人掛けの席もいろいろ配されてある。この夏には拡張して戸外のテラス席も作られた。ピザ、タコス等料理も旨い。
朝4時までやっているので夜中に仕事をしている私にも都合がいい。
10 16, 2004 02.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月15日
「放送禁止歌」

私が学生時代を過ごした1960年代の終わりから70年代の初めはフォークソングが急速に広まり若者たちの心をつかんだ。なんとかの首飾りがどうしたとか森と湖に囲まれたお城だとかの他愛ない逃避的世界ではなく、自分と社会、世界を見つめ、さまざまな矛盾や被差別の不当と哀しみ、体制・権威への嫌悪批判を、ある者は声高に、ある者は諧謔にまぶし、またある者は静かに語りかけるように歌った。
「頭脳警察」は「ブルジョワジー諸君!君達にベトナムの民を好き勝手に殺す権利があるなら 我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある」と吠え、なぎらけんいちは「悲惨な戦い」でNHKと相撲協会という権威を徹底的におちょくり、高田渡は「みなさん方の中に 自衛隊に入りたい人はいませんか…自衛隊に入ろう入ろう入ろう 自衛隊に入ればこの世は天国 男の中の男はみんな 自衛隊に入って花と散る」とひょうひょうと歌い、マジに受け取った自衛隊の広報だか幹部だかが「自衛隊としてこの歌を正式に採用したい」などと高田に電話をしてくる。
泉谷しげるは「戦争だ 戦争だ 戦争だ 待ちに待った戦争だ 国が認めた 戦争だ みんなで殺そう 戦争だ」(「戦争小唄」)と揶揄す。
岡林信康は「手紙」で「わたしの好きなみつるさんは おじいさんからお店をもらい 二人一緒に暮らすんだと うれしそうに話してたけど 私と一緒になるのだったら お店をゆずらないと言われたの…私は彼の幸せのため 身を引こうと思ってます…くやんではいない 別れても もしも差別がなかったら 好きな人とお店が持てた 部落に生れたそのことの どこが悪い なにがちがう 暗い手紙になりました だけど私は書きたかった だけど私は書きたかった」と「チューリップのアップリケ」とともに部落差別の非道と差別される者の悲哀を歌う。
深夜、ラジオを付ければ必ずこれらの歌の数々が流れていた。
しかし70年代に入ると、次々と放送からは消えていく。
13日に亡くなった山平和彦の「放送禁止歌」は1971年に作られ歌われ、そして「消された」。
秋田からフォークシンガーになることを夢見て東京に出てきたナイーブで人に優しい19歳の頃だった。
参照
『放送禁止歌』(森達也/解放出版社刊)光文社・知恵の森文庫版
※写真は、光文社・知恵の森文庫版カバーより
10 15, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月13日
悼・山平和彦(「放送禁止歌手」)

10月12日夜、西竹の塚で、フォーク歌手・山平和彦さんがひき逃げされ13日未明に亡くなった。52歳。
山平は1952年秋田飯田川町生まれ。高校の頃「秋田フォークソングクラブ」を結成。70年初レコーディング。「7月21日早朝に」というA面は、アポロ月着陸で沸き立つ中、原爆症でひっそりと死んでいった女性を歌っていた。72年デビューアルバム「山平和彦First Album/放送禁止歌」をリリース。
この歌を含め3曲が「放送禁止」に「された」(なぜ括弧を付けるかはまた記す)。
禁止1曲目は「月経」ーナチス収容所に送り込まれた少女が、月経に誰もふみこめない自らの「生」を確認する気持ちを歌う。
禁止2曲目は「大島節」ー伊豆大島に伝わる「性」をおおらかに歌い上げる歌詞に性行為の体位表現がある。
禁止3曲目はそのものずばりの「放送禁止歌」(1971)。
3番まであるうちの上にあげたのは1番。いずれにも「七転八倒 人生流転 七転八起 厚顔無恥…奇妙奇天烈 摩訶不思議」という囃しのような歌詞が入り、「…」の部分にはそれぞれ「放送禁止 自主規制」「放送禁止 一目瞭然」「放送禁止 先刻承知」が入る。
33年もたった現在、この歌がまだ批判の射程を有していること、というよりむしろますます切迫した意味をもってきていることに暗澹たる思いになる。
76年から歌手活動を辞めていたが、01年から活動を再開していたらしい。合掌。
10 13, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
つかの間、秋の京都

※烏丸通二条の町屋。クリックすると拡大表示されます。
ふだん道の狭い鎌倉で暮らしているので、京都の道の広さにはあらためて驚く。「押小路」などといっても鎌倉の「若宮大路」より広いのだ。舗道もゆったりとられている。
路地(京都人は「ろぅじ」と言う)にはもちろんだが、ビルが建ち並ぶもっともメインの烏丸通りにも町屋が残っている。糸屋格子が美しい。

※大豊神社横の「哲学の道」。クリックすると拡大表示されます。
西田幾太郎、河上肇などが好んで散策したことから「哲学の道」と名付けられた琵琶湖疎水分流沿いを少し覗く。
中国古代青銅器の蒐集で有名な「泉屋博古館(せんおくはっこかん)」に行くが折悪しく展示替え中で休館。

※石川五右衛門が上から「絶景かな」と言って有名な南禅寺三門。クリックすると拡大表示されます。
南禅寺にゆっくり歩く。鎌倉の寺は大きいものは建長寺と円覚寺しかなく、あとはこぢんまりしたものばかりに馴染んでいるので、京の寺はとても広大に感じる。


※「無鄰菴」の庭。クリックすると拡大表示されます。
南禅寺の西に山県有朋の別邸、無鄰菴(むりんあん)があり、庭園と日本家屋の別荘邸宅、茶室、洋館が往時を偲ばせて観ることができる。
天皇制大日本帝国と徴兵制の確立、自由民権運動の弾圧および軍備拡張、日清・日露戦争の遂行にもっとも表裏で絶大な権勢をふるった山県有朋(1838-1922)は、一方で築庭・造園を好み、後に近代日本庭園の祖と呼ばれるようになる小川治兵衛(1860-1933)にここの庭を作らせた。山県の別邸ではその他に小田原古稀庵、目白椿山荘などもある。

※南禅寺境内「奥丹」で湯豆腐。クリックすると拡大表示されます。
「先笄(さっこう)」のママに南禅寺の湯豆腐だったら「奥丹」がよろしどす、と言われていたので境内の店に行く。
初代、奥丹後屋創業以来350年、当主は15代目という。
「ゆどうふ一通り」(¥3,150)は、湯豆腐、精進天ぷら、とろろ汁、胡麻豆腐、木の芽田楽、ご飯香の物付。
湯豆腐はつるりとしていながらしっかりしていて美味。美女とともに昼から燗酒がすすむ。
鮮魚、干物、漬け物、麩、昆布、豆など、京ならではの食材屋が立ち並ぶ「錦小路」に帰り際寄る。「かね松老舗」で京野菜をいくつか購入、帰京して上野毛の行きつけの「ミキ」に渡す。
授業後、ミキさんが調理してくれた京水菜のサラダ、小ナスの浅漬けを楽しむ。秋の京の味わい。
10 13, 2004 22.旅先で | 固定リンク
|
| トラックバック(2)
祇園の夜は更けて

※写真はクリックすると拡大表示されます。
祇園下河原通り「阿吽坊」にて。左から竹村亞希子さん(占い師)、池田菊衛(東京クヮルテット・バイオリニスト)、淡海悟郎(作曲家)、私、小林五月さん(ピアニスト)。
東京クヮルテットの京都公演のため京都に行った。本当はもっと前に行き、上賀茂神社・細殿(ほそどの)での演奏も取材する予定だったのだが台風で行けなかったのだ。
演奏と打ち合わせ。池田の日本公演はこの日で終わり、翌日からは関空からソウルへ。次に来日するのは来年の5月になる。
仲間で八坂神社の南にある和食の店「阿吽坊(あうんぼ)」に行く。
第一バイオリンのマーティンもチェロのクライヴも祇園に繰り出すようだった。「ギョン、ギョン」などと言っている。
風情のある格子戸を開け、庭を横に見ながら飛び石を伝って玄関に入る。雪見障子がある座敷の掘り炬燵式座卓を囲んで、卯の花、湯葉、小ナス、ぬたなどていねいに調理された「おばんざい」の数々を肴に酒宴。料理、野菜から音楽、美術、政治にいたるまで話題は尽きない。何杯飲んだかは忘れる。
近藤勇がふっと出てきてもおかしくないお茶屋造りの家々が立ち並ぶ花見小路の途中をついと入ったところの亞希子さんなじみのバー「先笄(さっこう)」でまたひとしきり。元モデル、生粋の地元っ子麻衣子ママの京ことばともてなしが気持ちよく酔いを誘う。
10 13, 2004 22.旅先で | 固定リンク
|
| トラックバック(1)
2004年10月12日
Cocomo ココモ(鎌倉長谷)-1

※写真はクリックすると拡大表示されます
Rの付く月は牡蠣が旨い、ということですぐ近くのオイスターバー「ココモ(Cocomo)」へ。牡蠣だけではなく、シーフード、イタリアンテイストのピザや肉料理類等揃っている。
各産地への入手ルートを確保しているので、さまざまなものが味わえる。
宮城女川産の大きくて甘いもの、釧路仙凰路産の濃厚な味、流氷の下で育つ厚岸産丸牡蠣のぷりぷりさ、小粒だが実にクリーミーで文字通り牡蠣の別名「海のミルク」そのもののシアトル・トッテン湾産クマモト。シャブリがすすむ。
この店では実は春〜夏でも牡蠣が楽しめる。南半球は冬であり牡蠣の旬なのだ。南オーストラリア・タスマニア諸島産、ニュージーランド・キリタベイ産。また夏に美味なイワガキなど。
私の記事によく登場するカフェ・バー「麻心(まごころ)」「Daisy's Cafe(デイジーズカフェ)」と3軒並んで由比ガ浜沿いにある。
10 12, 2004 02.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月10日
アーニー・ディフランコのライブ

3月に来日したときは都合がつかず行けなかったアーニー・ディフランコ(Ani Defranco)を生で聴けた。
IN THE CITY という10日間のロックフェスティバル(音楽制作者連盟主催)に招かれ(成功したインディースのサンプルなのだろう)音楽関係者向けのセミナー1回、ライブ1回だけという「もったいない」スケジュール。
11月2日の米大統領選に向け、「Vote Dammit ! Tour」(とにかく投票してブッシュの再選を許すなとでもいうようなアーティストたちのツアー)で Swing State(接戦州)を精力的に廻っている合間だ。
会場は渋谷AX。2階最前列の指定椅子席。私のようなおじさんはまったくいない。ドラムと若い女の子2人のロックグループなどと組み合わされているので1時間半付き合わされる。アーニーとは明らかに客層が違うだろう。1階の立見スペースでは若ものたちが家のミックのように飛び跳ねている。
ひょっとして20〜30分の顔見せ程度かと危惧していたら、なんとアンコール2曲を含めて1時間20分もやってくれた。
抑えたシャウトのような、またあるときは情感豊かな歌声と、10代の頃のニューヨーク州バッファローの紫煙と酒とお喋りに興ずる客の注意を引くために編み出したアコギ(アコギな商売のアコギではなくアコースティックギター)のカミソリ奏法も目の当たりにする。フレットから左手を身体の後ろにさっと引くしぐさが実にかっこいい。1曲ずつ替えるギター。「日本でもBig Company が音楽をコントロールしている。それでいいのか」というような語りの後のアンコールでは弦がぶち切れたようだった。
隣のカップルの女の子が「ちっちゃ〜い、かわいい〜、かっこいい〜」などと言っている。
アーニーがたとえばこの晩歌った「Animal」で、
ask any eco-system
harm here is harm there
and there and there
and aggression begets aggression
it's a very simple lesson
that long preceded any king of heaven
and there's this brutal imperial power
生態系をみてみれば
ここでの害はあそこでの害
そしてあそこでの害はまた別のところでの害
攻撃は攻撃を生む
それはとてもシンプルな教訓
天国を約束するどんな王も支配が長引けば
そこにはかならず今あるような野蛮な帝国の権力が生ずる
と歌っていることなど彼女はもちろん知らない。
誰か適切なインタープリターはいないか。
10 10, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月09日
普通のときのMic

※写真はクリックすると拡大表示されます
きのうはお見苦しい写真(ミックにとって)だったので、きょうは現在の普通のときのものをアップします。
6月3日産まれなので、今4ヶ月とちょっと。家に連れてきた7月末(2ヶ月)では体長25cm、体重1.6Kgだったが、今は約40cm、体重は3Kgを越えた。
あと2ヶ月で「子犬期」は終わる。ちょっと寂しい。
10 9, 2004 24.犬と暮らす | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月08日
Micは跳び上がり、前脚をはさみ、私は噛まれて血が噴き出る

※写真はクリックすると拡大表示されます
4ヶ月を過ぎたミック(ビーグルの子犬)は外出時や睡眠時以外は室内に放しているのでリビングを駆け回り体力がずいぶん付いてきた。
しかしまあなんでもまず噛んでみる。この間の被害。数十冊の本(ボロボロ)、ズボン、ワイシャツ各1枚(ズタズタ)。PowerBookの電源コード、ISDNの電源コード、携帯電話の電源コードx2、小泉誠さんデザインのソファーのはじっこ(毛羽立つ)、特注囲炉裏の角(タモの天板を囓られる)等々。
外出や仕事のじゃまになるときはサークルに入れるのだが、最近は跳び上がって乗り越えそうだ。
写真は垂直跳び、推定30cm。
この後サークルの角の隙間に自ら前脚を引っかけて宙づりになってしまう。外してやろうとしたがパニック状態でガブリと噛まれる。
左親指の付け根から血が噴き出しなかなか止まらない。指の根元を押さえて水道に浸す。
刃物の傷と違って、動物に噛まれた傷は馬鹿にできない。牙は鋭く深く入るし、雑菌も多い。
家にはバンドエイドくらいしかなかったが、近くのなじみのカフェ「麻心」に寄ると、マスターのシンさんが「プロポリス」というブラジルの天然抗生物質を付けてくれる。ブラジル生まれの彼の友人が輸入販売している。噛み傷にはよく効くという。
ついでに、アマゾンの「ガラナ」という植物の実とアンデスの古来からの薬草「マカ」、アマゾンインディオに秘薬として伝わる「ムイラプアマ」をジンで漬け込んだ強壮酒を飲む。
いずれもまあ南米版「漢方薬」ですね。シンさんは南米も放浪したので詳しい。
「Amazon Hospital」参照。
10 8, 2004 24.犬と暮らす | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
オランダの「ピンナップ・ガールズ」フィギア

※写真はクリックすると拡大表示されます。左から「Sweet Loraine」「Trigger Trudy」「Babbling Betty」
フランスの磁器工芸品「リモージュ・ボックス」、ポーランドの磁器フィギア「チメルフ」に続いて、オランダの「ピンナップ・ガールズ」フィギアの輸入販売を始めた。
ピンナップというのは壁にピンで留める絵や写真という意味で1940年代〜50年代のアメリカで特に盛んだった。
20世紀アメリカの絶頂期であり、若くはつらつとしたアメリカ女性のセクシーな姿態を描いた絵や写真は男性にとってのドリームでもあった。
The Great American Pin-Up
などの本や
The Pin-up Page, 1940's and 50's Pinup girls, including Vargas, Gil Elvgren, Peter Driben, Edward Runci, Marilyn Monroe, Betty Page, Earl Moran
などのサイトで見ることができる。
『新編ピンナップ・エイジ』伊藤俊治(ちくま学芸文庫)は、このピンナップを総合的・歴史的にとらえ返していて詳しい。
オランダのピンナップ・ガールズはこれらをモデルに樹脂で作られ彩色されている。左のもので高さ約20cm。
上野毛の行きつけの店「ミキ」の常連が上の3つをご祝儀で買ってくれ、店に飾ってある。
10 8, 2004 10.美術工芸 | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月07日
東京クヮルテットー東京公演第2夜

※写真はクリックすると拡大表示されます。東京クヮルテットのメンバー、左から池田菊衛(第2ヴァイオリン)クライヴ・グリーンスミス(チェロ)マーティン・ビーヴァー(第1ヴァイオリン)磯村和英(ヴィオラ)
昼間、池田くんとホテルでウェブサイトの打ち合わせ。いよいよ最後のつめ。
今晩は中学・高校の同級同期生や中学での恩師など多数集まる。
プログラムはまずハイドン・弦楽四重奏曲第74番ト短調Op.74-3「騎手」(1793年)。イタリア、マンハイム、ベルリン楽派などによって発達していた「シンフォニー(交響曲)」を古典派交響曲としての形式を完成させたのはハイドン(1732-1809)だが、彼はそれまで素人が家庭で楽しむ娯楽でしかなかった弦楽の合奏をプロの作曲家・演奏家が取り組むべき「弦楽四重奏」という形式を確立した人でもあった。第74番はなかでも有名な曲。18世紀末の典雅な響きが1680〜1736年ストラディヴァリウス制作の「パガニーニ・セット」を操る東京クヮルテットの手でよみがえる。
ハイドンは有力貴族の庇護の下に自分の楽団を持ち、作曲の成果を自由に試すことができ、貧しい車輪工の家に生まれたにもかかわらず、功成り名を遂げて幸福な晩年を送った。
2曲目はモーツァルト・弦楽四重奏曲第22番変ロ長調「プロシャ王第2番」。
モーツァルト(1756-1791)はハイドンより24年後に生まれ、18年も先に死んだ。ハイドンからさまざまな影響を受け、実は彼にも影響を与えた。ハイドンを「正」としモーツァルトを「反」として「合」としてのベートーヴェンが産まれえたといえるかもしれない。
この曲が書かれた1790年は死の前年だ。友人に手紙を書いている。「現在、まったく無一文で…そのために『四重奏曲』も脱稿できないでいます」。
昨夜の第3番の軽みに比べると、同じ風なのだが、どこか無理に明るく振る舞っている感がして痛々しい印象がする。
翌91年の死。「集まったわずか数人の知人と弟子は、おりからの雪まじりの悪天候のために墓地に見送ることも出来ず、屍体はただ墓堀人の一人によって、セント・マルクス墓地の中の共同貧民墓地に葬られ、数十日後にはその正確な場所さえ不明になった」(山田風太郎『人間臨終絵巻』ー35歳で死んだ人々)。
最後にスメタナ・弦楽四重奏曲第1番ホ短調。「わが生涯より」と副題が付けられている。
スメタナ(1824-1884)は、当時オーストリア帝国の属領であったボヘミアを中心とした国民国家創設・文化自立を音楽面で担った(チェコスロバキアが実際に独立するのは第二次世界大戦後の1948年)。当時はすべてドイツ語が強制され、スメタナ自身チェコ語を学んだのは37歳からだ。幼児の頃すぐぞばで火薬の入った箱が爆発し、衝撃で2日間耳が聞こえなくなった。以後徐々に耳の病は進行し、この曲が書かれた1876年(52歳)にはすでに聴覚は失われている。
第1楽章「青年の頃の芸術への愛、あり余るほどのロマンティックな感情、漠然とした憧憬、やがて来る不幸の予兆」。下降5度の第1主題ヴィオラの磯村さんの演奏は、絶望の予兆の表現としてぞくっとした。終わりころ突然出てくる第1ヴァイオリンの甲高い不気味な音は、失聴に至る途中で経験した幻聴を表しているといわれる。
第2楽章「舞曲の小品を作曲して若い人々に音楽をあたえていた」時代を振り返る章も、第3楽章「後に妻となった一人の忠実な少女への初恋の喜び」も、充実や喜びの表現に悲痛がはりついているかのようだ。
第4楽章「民族音楽の特色を把握したこと、その成功の喜び」がつかの間表れるが、フィナーレは「不吉な破局による喜びの中断、失聴のはじまり、回復への希望の光も消え、生涯のはじめを思い起こしても苦悩しか残らない」と付記される。
救いの無い、これで終わりだとでもいうかのようなピッツィカートで演奏は終わる。
誰でも知っている「モルダウ」を含む交響詩「我が祖国」はこの間まだ書き継がれた。
1984年、記憶喪失が始まり、今でいうなら躁病の錯乱状態で脳病院に入れられ、正気には戻らず永眠した。
音楽は作曲されて世に送り出されたときから自立している。
しかし私はそれを産み出した人と人生への関心を持ち続けたい。それは絵画でもデザインでも同じことだ。
音楽の場合は作曲家とは別にそれを再現し、現代に生きる我々に意味や意義や感動を与えてくれる演奏者がいないと成り立たないので当然演奏者についてもなのだ。
10 7, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(1)
2004年10月06日
東京クヮルテットー東京公演第1夜

※写真はクリックすると拡大表示されます(以下の記事とは別の公演写真です)
西洋クラシック音楽についての趣味でいうと、若い頃はシンフォニーや協奏曲をよく聴いたが、歳を経るにつれて独奏曲や室内楽が性に合うようになってきた。
なかでもハイドンが完成させて発展した弦楽四重奏という音楽形式は、西洋弦楽器のわずか3種(ヴァイオリンx2、ヴィオラ、チェロ)により展開される、いわば俳句か短歌のような制約のなかで表現する抽象性、象徴性の高い音楽で大好きだ。
作曲家は人受けのする交響曲や協奏曲で糊口を凌ぎ、本音を弦楽四重奏で吐露してきたのではないかとも考えられる。
東京クァルテットのレパートリーは幅広いが、昨年からは意識的に古典的なものと20世紀音楽を対比的に組んだプログラムを試しているようだ。
今晩の配曲もおもしろい。チェコ音楽祭2004の一環でもあるらしいので、スラブ系のヤナーチェック(1854-1928)とドヴォルザーク(1841-1904)が入っている。
しかし、最初にモーツァルトの最後の弦楽四重奏曲・第23番ヘ長調「プロシャ王第3番」(1790)を持ってくるのだ。晩年のもっとも円熟したモーツァルトの、古典的な均整が踊り出す「軽み」の境地のような楽しさ(実は生活上の困窮でもともと6曲書くはずが3つめのこの曲で最後になったのだが)の雰囲気が聴くものを覆う。
ところが実は「西洋正統」をまず完璧に演奏することで、以降のチェコ・スラブという「辺境・周縁」の音楽を際立たせてもいるのだとも思う。
次のヤナーチェック・弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」(1923)は、妻を疑う嫉妬深い夫が起こした陰惨なできごとを描くロシア・トルストイの同名の小説をもとに音楽化したものだ。甘美な恋情から悲劇的な最後までの情動が、各楽器に割り振られ激しく表現されわれわれは翻弄される。
70年代の初期東京クァルテット以来の自家薬籠中のレパートリーだ。
休憩をはさんでのオーラスで人々は慰められる。ドヴォルザーク・弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」(1893)。ドヴォルザークは1892年から3年間、ニューヨークの私立音楽院に招かれ教えた。そのなかで黒人霊歌やネイティブ・アメリカンの音楽にも触れた。93年完成した有名な交響曲「新世界より」に続いて作曲されたこの「アメリカ」にも民謡や黒人霊歌に込められた哀調や親しみやすいメロディーが昇華されている。
もう安心して聴いていられるフィナーレに喝采。
盛大な拍手にアンコールの曲譜を池田菊衛が探すがなかなか見つからない。マーティン・ビーバーが「チョト、マッテクダサイ」と言って笑わせる。
アンコールのドビュッシー・弦楽四重奏曲第2楽章も、この3曲の後で聴くと、碁や将棋でいったらちょっと離れたところに置いた妙手のようで堪能する。
10 6, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月05日
東京クヮルテット、久々の東京公演

※写真はクリックすると拡大表示されます
東京クヮルテット(Tokyo String Quartet)が久々に東京で公演する。昨秋ストラディヴァリの奏者ばかりを集めたコンサートでトリをつとめて以来で、本格的なものは約3年ぶりか。
東京という名がついているが、本拠地はニューヨークで、米国内をはじめヨーロッパなど海外公演も多い。
故斎藤秀雄というすぐれた音楽家・音楽教育者の薫陶を桐朋学園で受けアメリカに渡った4人の若者たちが1969年にジュリアード音楽院で結成した。翌70年のミュンヘン国際コンクールで、今では伝説となっている圧倒的優勝を果たし、一気に世界のトップクヮルテットの仲間入りする。洗練、デリケート、艶、完璧といった賛辞のことばが常に寄せられてきた。
結成以降35年、メンバーの何回かの交替はあったが、日本人2人を核に、イギリスとカナダから俊英なチェリスト、ヴァイオリニストを加え、円熟と進取の歩みは停まらない。
第二ヴァイオリンの池田菊衛は、私の中学高校以来の友人で、ずいぶん前にウェブサイト制作を頼まれたのだが、いろいろ事情があって遅れてしまった。今月にはアップさせる。
10月5日・6日の公演が行われる紀尾井ホールの場所は下記
紀尾井ホール(PM6:30開場 7:00開演)
10 5, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月03日
酒場でシューマン(東中野/マ・ヤン)

※写真はクリックすると拡大表示されます
中学高校以来の友人である作曲家・淡海悟郎がプロデュースする「酒場でドイツ・リート」とでもいうライブに行く。
東中野の東口駅前にある「ムーン・ロード」という昭和30年代の映画のセットのような飲み屋街にある「マ・ヤン」という酒場だ。淡海はもう20年来ここのママにいろいろ世話になっている。
年1回やっているこのライブも3年目だ。
ピアノを淡海が弾き、シューマンの歌曲集「ある女の愛と生涯」をソプラノ・白鳥詩乃さんが、同じくシューマン「詩人の恋」をバリトン・水野賢司さんが歌う。
詩乃さんは東京音大の4年生、水野さんの弟子で初々しい清澄なソプラノが美しい。
声量はまだ足りないかもしれない。なにしろ私は酒場のカウンターで2メートルと離れていないところで聴いているのだ。
歌詞テロップを、年に1度くらいしか使わないPowerPointで作ったのだが、他のマシンにデータを移してプロジェクタで映したらフォントがヒラギノ明朝からMSゴシックになり気を使った行替えも変わってしまった。はは、これはそういうソフトだったかと思い出す。
しかし歌詞テロップを作ってみると「ある女の愛と生涯」フォン・シャミッソーの詩はなかなか凄い。
終章、もちろん女の愛はかなわないのだが、
「とり残された者は、目の前にうつろな世界を眺めています。
私は愛し、生きてきました。今はもう生きてはおりません。
私は私の中にひきこもり、ヴェールをおろします。
そこにあなたと、私の失われた幸福があるのです。
私の世界だったあなた!(Du meine Welt !)」
中学高校の同窓・同期生が9名ほど集まり、ニューヨークからはTokyo String Quartet(東京クヮルテット)の池田菊衛も来日中で来た。
10 3, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(1)
「ル・クラブ・バシュラフ」(アラブ音楽)

※写真はクリックすると拡大表示されます
アラブ古典音楽の演奏グループ「ル・クラブ・バシュラフ」の「アラブ音楽レクチャーコンサート」が世田谷美術館講堂で行われたので行く。「ヨルダン展」に合わせた企画だ。
「ル・クラブ・バシュラフ(LCB)」は、チュニジアでアラブ音楽と奏法を学んだ松田嘉子さん(キャンパスは違うが多摩美大の同僚でもある。ウード奏者・アラブ音楽研究家)と竹間ジュンさん(ナイおよびレク奏者・作曲家)が1994年に結成し、2003年にのみやたかこさん(ダルブッカ奏者)が加わった日本ではほとんど無いアラブ古典音楽のアンサンブルだ。
国内ではもちろん、チュニジア公演、フランス・アラブ世界研究所フェスティバル、バハレーン王国公演など海外での活動も多い。
この間、気鋭の邦楽家(箏の丸田美紀さん、尺八の菅原久仁義さん、箏の池上眞吾さん)たちと「アンサンブル・ヤスミン」「ヤスミン・トリオ」としても意欲的な演奏をしてきた。
1997年に多摩美上野毛キャンパスで開かれた学会パンフをデザイン編集したのがきっかけで知己を得、松田さんの訳した『アラブ音楽』(パストラルサウンド刊)のエディトリアルデザインをし、その後都合のつくかぎりライブ・コンサートに足を伸ばしている。
2002年のアラブ音楽フェスティバルに彼女たちが招聘されたときはエジプトのカイロまで行ってしまった。
今年も11月6-7日に行われるチュニジア・メディナフェスティバルの招聘コンサートにはひょっとすると行ってしまうかもしれない。
なお、NHK教育TV「アラビア語会話」に今月(10月)ゲスト出演する(18日、25日深夜24:30ー正確には19日、26日)
arab-music.com
10 3, 2004 13.音楽の楽しみ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
凜林/りんりん(鎌倉二階堂)-1

※写真はクリックすると拡大表示されます
老母の80歳誕生日を「凜林(りんりん)」で祝った。
凜林は歩いていてふと目に留まり入ってみるというような場所にある店ではない。
鶴岡八幡宮から金沢街道・岐れ道を左に鎌倉宮に至り、右側から瑞泉寺への狭い道をずっとたどる。
二階堂の深い谷戸(やと)に1327年創建された瑞泉寺は臨済宗の禅寺だ。鎌倉らしい静謐と四季折々の花や銘木などの魅力で人の訪れも多い。本堂裏の錦屏山(きんぺいさん)前の庭園は発掘復元されたもの。高名な禅僧夢窓疎石(1275—1351)によるもので「書院庭園」の起源と呼ばれる。鎌倉で現存する鎌倉期唯一の庭園だ。
参道のずっと手前に総門があり、右側を迂回して通る。参道に向かわず右に入る。この先は鎌倉の北側を囲む山並みを歩ける天園ハイキングコースへの入り口になっている。が、こちらにも行かずすぐ左に折れた突き当たり、もうこの先は山だ。
オーナーシェフはりんくんび(林訓美)さん。りんさんの祖父が大正末期に福建から日本に渡り、父母がそれを頼って横浜で料理店を開き、戦後すぐの1946年りんさんが生まれた。30歳くらいになって料理に目覚めたりんさんは修行をつんだ後、上野不忍池近くに福建料理店「龍虎殿」を開き有名になる。昨2003年3月、この店を息子さんにまかせ、鎌倉二階堂の山懐の一軒家を改造して凜林を開いた。
北の上海料理、南の広東料理にはさまれた位置にある福建料理は新鮮な魚貝にめぐまれ、淡泊で細やかな風味と彩りに特徴があるが、りんさんの料理には代々の福建の伝統に加えて洗練された品がある。
まだ1年半だが、一度訪れここの料理を体験した人の評判は高く、口コミでも拡がる。
円卓を備えた2つの和室とテーブル席の2つの個室がある。
母は脚が悪いのでテーブル席の10畳ほどの個室を使わせてもらう。
料理は晩コースのうち「福」。人参の香の物が福の文字に刻まれて母に供される。
「前菜」は松茸の煮こごり、くらげ酢、蒸し鶏、小海老の塩ゆで。どれも味があっさりしていながら奥深い。聞くと、たとえば小海老もたんに塩ゆでしてあるのではなく、さらに山椒やネギなどのスープに付けたりしているのだそうだ。
食べ終わるまで冷めることのなかった「変わり鳥団子と冬瓜の壺蒸スープ」も実に滋味。
「大海老の甘酢唐辛子炒め」はエリンギなどの茸や各種野菜もたっぷり入っている。
「鴨ロース入り春巻き揚げ」と付け合わせてある野菜の天ぷらがふっくらしながらさくっとして脂ぎらず美味。衣もずいぶんと工夫が入っているだろう(りんさんは店で料理教室もやっているので参加すればこれらの技も教えてくれるだろう)。
瓶入り紹興酒の2本目を頼むと酒器が「対」になった。
それぞれ、「對」「酒」と表に掘られ、背面には「人生幾何」「對酒當歌」とある。
「マナガツオのチリソース煮」には少量だが白飯が付いていて一緒に食べると旨さが引き立つ。
「烏龍茶涼麺ゴマダレかけ」は水の代わりに烏龍茶を練り込んで打ったさっぱりした麺。前菜の蒸し鶏にもかけてあったゴマダレが良く合う。
デザートは「凜林杏仁豆腐」。ミルク味がたっぷり。
もともと胃にもたれないような料理の数々だが、食後の茉莉茶も口喉と胃にさわやかだ。
10 3, 2004 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | 固定リンク
|
| トラックバック(0)
2004年10月01日
戦没画学生慰霊美術館「無言館」(信州上田)

※写真はクリックすると拡大表示されます。
「無言館」前にある「記憶のパレット」。画学生たちが学ぶ教室風景が描かれ、収蔵した戦没画学生の名が記され「私たちの芸術と私たちの銃の前にあったすべての芸術のために」と刻まれている。
人は運命を限られたときどうするだろうか。
絵を志した人間は、愛するものを力の限り描くのだろう。
「あと5分、あと10分、この絵を描かせてください」
1942年(昭和17年)。外では出征兵士を送る会が盛大にひらかれ、沿道には村人たちが振る日の丸の小旗が揺れる。
鹿児島県種子島出身、東京美術学校(東京芸術大学の前身)油画科を41年(昭和16年)繰り上げ卒業(繰り上げ卒業というのは徴兵のためむりやり早く卒業させるもの)した日高安典は、入隊までの残された最後の最後の時間まで恋人の姿を描き続けた。「自分は必ず生きて帰ってこの絵の続きを描くから」と愛しい人に言い残して出征した日高は、満州を経て南方に転属、45年(昭和20年)フィリピン・ルソン島で戦死する。享年27。
「お腹の赤はあばれるだろう。俺にかはつて親孝行と赤を大事にそだてるのとを引き受けてくれ」と中国華北から軍事郵便で書き送った中村萬平は1941年東京美術学校を首席で卒業、応召前に在学中に結婚したモデルの霜子さんを描いた。出征後に子が生まれるが妻は肥立ちが悪く他界する。「昨夜兵舎の窓にのぼった満月がことのほか白くかがやいているようにみえました。それは、今までみたどの月よりも心にしみわたるうつくしい光の月でした。あれは霜子が天に召されたことを知らせる満月だったのですね」と書いた手紙が両親に届く。43年(昭和18年)蒙古の野戦病院で戦病死。享年26。
「続き」が描かれることの無かった日高安典「裸婦」も中村萬平「霜子」も美術的な完成度とか巧拙とか絵の傷みとかを越えて心を打つ。残された、限られた時間のなかでの、彼らの絵を描くということに対する喜び、ひたむきさと、対象への愛の深さが、静かにそして圧倒的に伝わってくるのだ。
長野県上田市の西南郊外に拡がる塩田平の南、山王山(さんのうやま)の上にあるこの小さな美術館にはこれらの絵が数々の遺品と共に展示されている。
アートやデザインを志す若い人々は必ず訪れてほしいと願う。
〔参考書〕
この美術館をもともと発案した画家・野見山暁治氏の著作『遺された画集—戦没画学生を訪ねる旅』 (平凡社ライブラリーoffシリーズ)『四百字のデッサン』 (河出文庫)など
作品収集・整理をし無言館建設にあたった無言館館主・信濃デッサン館館主窪島誠一郎氏の著作『「無言館」ものがたり』(講談社)『無言館ノオト—戦没画学生へのレクイエム』(集英社新書)『「無言館」の坂道』(平凡社)『信州の美術館めぐり』(とんぼの本)など
10 1, 2004 10.美術工芸, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | 固定リンク
|
| トラックバック(0)