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2004年09月29日

地図と歩くおもしろさ-信州真田-2

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※写真はクリックすると拡大表示されます

昼食後、真田町(上田の北北東)に移動。2万5000分の1地形図を見ながら「神川(かんがわ)」沿いの集落を約10Km歩く。
「○」印の町役場が出発点だ。15名ほど。
向かいの「文」印が中学校であることを確認する。小中学校は「文」で高校になると「文」が○で囲まれる。よく間違えて「文」という地図記号が書かれているところに学校があるように思ってしまうがそうではない。これはそこにある建物がなんであるかを示す「建物記号」であって、建物自体は「■」(もちろん細長いこともある)で表わされる。

縮尺が2万5000分の1だから、地図上の1cmが現地の250mだ。
約750mくらいで横尾の集落と神社があることの見当を付けて歩き始める。正面に山塊の外れに少し離れて小山になった部分が見える。ここら辺にはあちこちに城趾があるがここも「横尾城趾」だ。山城として防御と眺望に優れている地形であるかが分かる。
横尾には鎌倉・室町時代に市が置かれたそうで「市神」様の石碑がある。集落を貫く道は狭いがかつては主要な往来道であったようだ。鳥居の記号は横尾神社。入母屋(いりもや)造りの上にさらに「破風(はぶ)」という三角の出っ張りがあるめずらしい造り。
この日歩いた集落には必ずそれぞれ神社があった。牧谷さんによれば、ヨーロッパのキリスト教圏の町や村では中心に必ず教会があるが、日本の神社は集落のはずれのやや高いところに作られる。そこから村人を見守り、年に一度「神輿」に載って村内に出向くのだ。
集落から外れた山裾に古い寺がある。曹洞宗の信綱寺。寺自体は山門からはるか上にある。

開けているところに出ると、ここが河岸段丘であることがはっきり見て取れる。段丘の境が石垣で固められている。牧谷さんの見立てでは、横長の石が自然に組まれているのは江戸時代に遡るかなり古いもの、ランダムなのは新しい時代のものであるようだ。

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コンクリートの「水路」などではない「小川」がところどころ古い石積みで守られながら流れ、野の花が水面に触れあうようにかぶさっている。赤とんぼが群舞し前を歩く人の帽子に長い間留まっていた。コスモスが咲き乱れ、東京では終わりにちかい木槿(むくげ)が今が盛りで蕾もたくさん付けている。

昭和30年代までこのあたりでは養蚕が盛んだった。二階建ての二階が蚕部屋で、屋根に「気抜き」という換気のための出っ張りを作る独特の造りだ。「越し屋根」と呼ばれ、すでに養蚕を止めた後建てられた住宅にも形をとどめている。倉の上にやはり換気のために間を少し空けたように屋根を付ける「置き屋根」という様式のものも数多く残っている。

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戸沢という集落から真田へ渡る「長生橋」から見る神川は日本中の川に加えられている「護岸」加工とは無縁の自然の景観そのままだ。
地図にはないが石舟集落に至る田を突っ切る道ができている。
ここから見る風景は実に美しい。

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収穫を待つ黄金色の稲穂、刈り田と点々と円錐形にまとめられた稲わら。その先に低く神川が流れ、向かいの戸沢集落がたたずむ。先に述べた「越し屋根」「置き屋根」が見える。右の方に鎮守の戸澤神社。一段高まったところに代々の墓地がある。杉一色に戦後塗りつぶされた山林と違い、樹相は豊かで立派な赤松もたくさんある。
私の好きな写真集、前田真三『田舎』(神無書房)に出てきそうだ。

田の端に墓がまとまってある。かろうじて「寛永」などと読める。
上田と菅平を結ぶ国道(昔は鉄道が通っていた)に出ると「農林産物直売所」がある。朝から2時までなのですでに閉まっているが、きのこ類はたしかに「林産物」なのだなとなにか納得する。
しばらく下り神川の向かい、東太郎山の山塊東端にへばりつくように集まった畑山(行政区としてはすでに上田市)という集落を見、伊勢山に出る。山には砥石城趾、米山城趾がある。
いくつかある地図上で海抜700メートルはある崩落の跡からは、太古ここが海であったことを示す化石が見つかっているそうだ。
路のところどころに、石仏、道祖神、庚申塚、馬頭観音の石碑がある。伊勢山にはゆうに3メートルはある庚申塚があった。
「穀蔵(こくぞう)」という古民家を改装してパンを作っている店で解散。週3日しか販売していないここの自家製パンは翌朝食べたが実に旨かった。
神川の渓谷沿いにひっそりとある「千古温泉」で疲れを癒す。

9 29, 2004 07.デザインの世界, 22.旅先で | | コメント(0) | トラックバック(0)

地図を読むおもしろさ-信州真田-1

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※地図はクリックすると拡大表示されます

若い頃から地図が大好きだ。手元に読む本(私は「重度活字中毒者」)がなくとも、なにかの地図が1枚あれば飽きない。
地図は単なる現在地や目的地にたどり着くためのガイドとしてだけではなく、歴史や政治・社会・文化の諸相が見え「世界観」が含まれている。
地図は「縮小」されるため、必ず選択・省略(それともかかわるが「記号化」)および強調という「編集」が加わる。
どんないい加減な観光地図からも、あるいは客観的にデータ化されたと見える2万5000分の1地形図にも、意識的に見ればそれらを読み取ることができるから面白いのだ。

地図といっても実にさまざまなものがある。
駅前の案内図、会社や店の所在を示す地図から区分地図帳、日本・世界地図帳、観光案内地図など私たちは毎日「地図」とつきあっている。
便宜的に目的で分けると「一般図」(日本では国土地理院2万5000分の1地形図や地勢図など)と都市図、道路地図、鉄道路線図、観光地図などの「主題図」の2つに分かれる。私たちが日常見る地図のほとんどは「主題図」だ。
作成方法によって分けると、現地での実際の測量・航空写真測量による「実測図」(2万5000分の1地形図)と、さまざまな資料、統計などをもとに作られる「編集図」の2つで、これも私たちが日常見る地図のほとんどは「編集図」だ。
体裁から分けると1枚ものが「マップ」、本に装幀された地図帳が「アトラス」。
「縮尺」による違いもある。
ただしこれらは紙媒体に限った話で「スクロール」すれば連続してみることができ、縮尺も替えられるデジタル地図(カーナビも含む)はではなんと呼ぶか。

私も参加している「田舎家を守る会」や長野県上田市を中心とする活性化を進めているNPO法人ルーバンデザイン研究所主宰の牧谷孝則さん(私の大学デザイン学科でも教えている)が主催するセミナーに行った。
3年ぶりに見る上田駅前はすっかり再整備され、駅前ビルにはコンパクトだがすばらしい図書館やインターネット環境、セミナールームなどを備えた「上田情報ライブラリー」ができている(ロゴデザインやライブラリーの色彩計画は牧谷さんが担当)。

セミナーの趣旨は、菅平の四阿山を源とし、真田から上田を流れ千曲川に合流する「神川(かんがわ)」沿いの地域を、対応する地図(2万5000分の1)をまず見て、その読み方(「読図」という)を学び、それぞれ問題意識を育んだ上で、地図を見ながら現地を歩く、というものだ。

講師は「田舎家を守る会」の当初の目的であった秋田・六郷の古民家の当主(残念ながら立派な蔵をもったこの家は維持できず取り壊された)であり、立正大学地球環境科学部でも教えている地域活性プランナー・寺田明司さん。

若い頃登山が趣味だったので2万5000分の1地形図の見方は充分わかっていると思っていたが、それはやはり山登りに関することに偏っていた。登山道や傾斜・崩落の地形をはじめ、植生、樹相、植生界、沢筋などはよく見ていたが「人里」についてはあまり関心がなく、山裾にきて展開する「河岸段丘」や「扇状地」の地形図からの判別、それによる集落の作られ方や土地利用についての読図など改めて学んだことがたくさんあった。
また私は車を運転しないので気に留めていなかったが、軽しか通れない道から1車線、2車線、4車線が2万5000分の1地形図で区別して記載されていることを初めて知った。

あらためて地図はおもしろい。

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2004年09月27日

『戦没画学生人名録』(編・戦没画学生慰霊美術館「無言館」)

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東京美術学校(東京芸術大学の前身)、帝国美術学校(多摩美術大学および武蔵野美術大学の前身)、京都美術工芸学校(京都市立芸術大学の前身)、多摩帝国美術学校(世田谷区上野毛に創設された多摩美術大学の前身)などで絵を志し学んだ学生たちも、太平洋戦争中次々に応召され出征し戦死していった。

『戦没画学生人名録』は、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(信州上田)の館主である窪島誠一郎さんと館のスタッフがこつこつと情報と作品を集め編んだ人名録(392名収録)だ。

どのページでもいい。たとえば大分県南海部郡上浦町出身「森崎勇」の項には、1941年(昭和16年)京都絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)での卒業制作の絵が掲載され、略歴が記される。同年卒業。42年応召。43年ビルマ(現・ミャンマー)インパール作戦の擁護で雲南省最西端ビルマとの国境に接する高地に出征。…1944年6月13日、怒江のちかくの上街の陣地において戦死。
同じ部隊の者が記す。「6月13日雨、雨に濡れそばっている陣地に、これでもか、これでもかというように情容赦もなく敵の砲弾が落下し交通壕をブチ壊し、掩体壕の土をブッ飛ばす。壕の痛みがひどくなった。この日の砲撃で森崎少尉が死んだ」(横田進著)

この本の21世紀版続編が編まれないようにすることは私(私たち)の絶対の責務だ。

9 27, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

花いちぜん(鎌倉大船)-1

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※写真はクリックすると拡大表示されます

若い頃、沖縄で3年間暮らした。米軍統治下から1972年の「日本への返還」の時期だ。
極貧だったが泡盛は常に飲んでいた。ビールの小瓶につめた瑞泉(ずいせん=泡盛の代表的銘柄)が15セント(当時は1ドル360円だから約54円)だった。これを買うか同じ値段の丼一杯の「ゆし豆腐」(豆腐を固める前のほとんど液状のもの)で腹を満たすかよく迷ったものだ。

「花いちぜん」は鎌倉大船にある沖縄料理とライブの店。最近、那覇に「BakuSun」という姉妹店を出した。
泡盛の品揃えが素晴らしい。沖縄本島、宮古島、石垣島等の八重山諸島の48酒造所から1品ずつ48種類を揃えている。
ある晩「古酒」のみのメニューがあったので、上から順番に全11種をストレートですべて飲んでみた。マスターがこんな人は初めてですと驚いていた。

いろいろなライブイベントをやっている。
今晩は私の友人、一人芝居の高山広の何回目かのライブ。

写真左は「スクガラス」(沖縄豆腐の上に「あいご」の稚魚を載せたもの)、右は「とうふよう」(豆腐を泡盛と紅麹で熟成させたチーズのようなもの)。これだけあればいくらでも酒はすすむ。

9 27, 2004 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック, 12.写真・映像・映画・演劇 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月24日

「香合の美」展(宇都宮美術館)

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※写真は「香合の美」展絵はがきより。クリックすると拡大表示されます

「香合の美」展(宇都宮美術館ー9/26まで)はとても興味深かった。
私が関係している会社の顧問で美術工芸史家の池田まゆみさんと一緒なので色々みどころや歴史的背景なども聞かせてもらいながらなのでなおさらだ。

「香合(こうごう)」というのは茶器のひとつで香を入れる小さな蓋付きの器だ。さまざまな形と意匠、デザインのものが作られてきた。
今回の展示は江戸末期のものが多いが、桃山時代の織部、志野もある。手におさまる小さな世界は趣味的愛玩的要素があるので、茶道具としての実用性をこえて収集の対象となり愛でられてきた。

このあたり、ルイ王朝のころ嗅ぎ煙草やピルを入れていたリモージュ・ボックスが多様化して趣味収集のものになってきたこととだぶっておもしろい。なかには開閉のための金具と留め金を付ければそのままリモージュ・ボックスとしてもいいようなものもある。

19世紀末以降のフランスでもしかしたら本当に影響を与えたかもしれない。というのもここで展示されているのは1890年から1900年にかけて、ジョルジュ・クレマンソー(のちのフランス首相)が大量に集めたものの一部(570点)であり、クレマンソーはクロード・モネをはじめとする芸術家・アルチザンたちと密接な交流を持っていたからだ。リモージュの職人が目にしたこともあるかも、と想像すると楽しい。

形のモチーフは多彩だ。十二支や七福神、鶴、亀、牛、猿、鴨、雁、雀などの動物、茄子、筍、栗、松かさ(松ぼっくり)、フキノトウ、椿などの植物、セミなどもある。もちろん抽象的な形そのものを工夫したものも多い。
このコレクションは陶磁器で占められている(香合にはこの他にも漆器、木地、貝、金属、竹、果実を加工したものなどあるそうだ)が、その窯場は信楽、美濃、九谷、備前、楽をはじめ48カ所にものぼる。日本の焼きものの縮図を見ているようだ。

11月にフェアのため来日するリモージュの友人たちのために2冊よぶんに図録を買う。
残念なことに写真と画像処理・印刷の品質がよくない。
私もリモージュ・ボックスの撮影の経験からして570点の小物をそれぞれの特徴を活かしつつ、かつ写真的バランスよく撮ることの難しさとレイアウトから印刷製本までの労力・経費についてはよく分かる。頒価2300円は地味な展覧会図録としてはぎりぎりなのだろう。1976年にこのコレクションがモントリオール美術館で発見された当時の記録写真が元になっているのかもしれない(この3000点もの香合の「クレマンソー・コレクション」が19世紀末明治日本からパリに渡り、カナダのモントリオールで「再発見」され、今私たちが目にすることができた経緯はとても面白いのでまた別に記す)。

9 24, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

うつのみや文化の森

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急に宇都宮に行った。リモージュ・ボックスの仕事の関係で、宇都宮美術館でやっている「香合の美展」が終わる(9月26日まで)前にどうしても見ておきたかったからだ。
北関東のずいぶん遠くだと漠然と感じていたが東北新幹線で東京駅からわずか50分。都内でうろうろしているより早く着く。
しかしてっきり駅から近い市街地にあると思っていた美術館は、バスで25分もかかる郊外にあった。
この美術館(夜10時までやっているレストランもある)は、市制100周年を記念して1996年に作られた公園施設「うつのみや文化の森」公園の中心としてあるのだった。
公園といっても人工的な手は最小限に抑えられていてなかなかいいのだ。
もともといわゆる里山だった26ヘクタールの土地をほとんどそのまま活かした。施設を作る際は樹木を切らず移植した。半分以上を占める雑木林はそのまま残され、栗を拾ったり木材や薪を集めるためだったろう昔の人が歩いた道はそのまま遊歩道にした。コンクリート製疑似木材の柵などもない。桑畑として使われていたところは自由に入れる広大な草地とした。この草地も野鳥や昆虫の生育を考慮し、部分的には自然のままに残し、残りを定期的に草刈りしている。
今は夏の花は終わり秋の花はいまひとつという端境期だったが、春、新緑、紅葉、雪、といろいろ楽しめるだろう。
久しぶりに雑木林の道を歩く楽しさと視界いっぱいの緑を味わった。

9 24, 2004 22.旅先で | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月23日

菅野博子個展「顔」

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菅野博子はとても暖かく親しみやすいイラストを描く。
サンケイリビングの園児とママの情報誌「あんふぁん」にはもう3年も「よむはなし」のイラストを描いている。文庫本のカバーや単行本のカバーのイラストもいくつか担当した。
けれどイラストだけではなかなか食べていけない。
どこでどういう考えが彼女のなかでまとまったのかあらためて聞いていないが、日本では薬剤師が不足しており、これを副業とするならやっていけるのではないかと彼女は考え、北里大学薬学部に入学し、今春めでたく卒業した。
これは実は3つ目の卒業なのだ。この個展後は来春の薬剤師試験に備えるという。
私はそんなにつきあいが広い方では無いので、日本で4年制大学を3つ卒業した人を寡聞にして知らない。

福島いわき市の出身で、山梨の都留文科大学で教職資格を取得する。福島で小学校教諭を6年間務めるなかで絵がおもしろくなる。あらためて私の勤める多摩美術大学上野毛のデザイン学科(当時美術学部二部)に入り、昔風にいうなら「首席」で卒業した。卒業制作の「いたずら子象」はマクロメディアのディレクターというソフトで作ったインタラクティブなアニメーションで、当時アプリケーションの「痕跡」を見せないこれだけ完成度の高い、かつ楽しい作品はなかったのではないか。

その後彼女はアナログの描画に戻る。
それはそれでいいのだが今でもパソコンを持っておらずネットもメールもままならないので私は責め続けている。

9 23, 2004 07.デザインの世界 | | コメント(1) | トラックバック(0)

教え子の母子

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デザイン学科の教え子のイラストレーター「菅野博子個展」に行く途中の原宿の路上で同じく教え子の母子に出会った。彼女は菅野博子の同級生で、電車を乗り継ぎ、エスカレーターの無い駅の階段もベビーカーをかついで昇り降りし見に来たのだ。結婚したことも出産したこともなかなか報せず、たしか半年くらいたってから恥ずかし気に「事後報告」したのだった。
10ヶ月になる息子と一緒の姿はまさしく「母子」で、学生やその後副手をやっていた頃の、いつもせっぱ詰まったような自分を追い込む雰囲気はまるでなくなり、「自分の作品」と共にある喜びに満ちていた。

9 23, 2004 23.日々のなかで | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月22日

ヒメアサガオと「帰化」植物

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9月も下旬というのに暑い日が続き、庭の「ヒメアサガオ」もまだまだ咲く。
いわゆるアサガオ(朝顔)は熱帯アジア原産のものが中国大陸経由で奈良時代にもたらされ、当時は種子が下剤として用いられた。牛いっぱいの財を引いていって交換したといわれるほど貴重だったらしく「牽牛子」と呼ばれた。観賞用にひろまったのは江戸時代以降。
朝顔はネパール高原でも自生の株が発見されており、その他熱帯アメリカ原産のものもある。
ヒメアサガオはマメアサガオとも呼ばれ、戦後、アメリカから輸入穀物と共に種子が入ってきて野生化したらしい。アメリカの戦後「小麦戦略」の落とし子だ。

「帰化植物」という今では笑ってしまう名の分類をされている。動物や植物に「国籍」や「国境」などあるものか。
こういう概念が成り立つなら「難民動物」だの「亡命植物」だの「強制連行(移住)動物」だの「二重(多)国籍植物」などともいえるではないか。

ヒメアサガオは普通1〜2cmの小さな白い花で「雑草」化しているが、これはその後園芸化されたものらしく5cmはある。

9 22, 2004 18.花・木・野菜・生きものたち | | コメント(1) | トラックバック(1)

2004年09月21日

ヒットラーと「退廃美術展」

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1937年ミュンヘンの「退廃美術展」の再現CG映像。NHKハイビジョンスペシャル「パウル・クレー/烙印を押された画家」より

1995年に神奈川県立近代美術館(鎌倉雪ノ下)で「芸術の危機/ヒットラーと退廃美術展」を見た。期間の終わりに近く図録が売り切れていたのは本当に残念だった。当時、躁病というやっかいな病からようやく回復した私には「退廃美術」の数々が実に心に染み入るように感じられたのだ。

仕事をしながらNHKハイビジョンスペシャル「パウル・クレー/烙印を押された画家」をつけていたら、1937年にミュンヘンの考古学研究所で開かれた元祖の「退廃美術展」が出てき、その展示をCGで復元した様子も映された。見た覚えのある数々の絵画や彫刻がそこにあった。

1933年政権を握ったヒットラー・ナチスは芸術・文化を自己の政策の中でひじょうに重要に位置づけた。それは博覧会から党大会、オリンピック、都市計画にいたる国家計画の一環だった。学生団体はすでにナチスが支配し、ベルリン大学前のオペラ座広場に盛大に薪を燃やし、「非ドイツ的・退廃的文献」、マルクスはもちろん、フロイト、ケストナー、レマルクなど2万冊の本を「焚書」した。記しておきたいのはこのときナチ学生同盟のたいまつ行列の先頭に立っていたのは新設された政治教育学講座の教授だということだ。

若い人のために注釈しておくと、レイ・ブラッドベリの傑作『華氏451度』(フランソワ・トリュフォにより映画化もされた)は「本のページに火がつき燃え上がる温度」であり、この歴史的事件をモチーフにしている。
いうまでもなくマイケル・ムーアの『華氏911』(自由が燃え上がる温度)はこれをもじったものだ。

「非ドイツ的」教授の追放、図書館からの文献一掃が進められた。
ユダヤ系であるメンデルスゾーン、ハイネなどはドイツの歴史には存在しないことになった。
ゲッペルスのもとに全国文化院が組織され、あらゆる文化・出版業界がそれに登録しなければ創作も営業もできないことになった。ユダヤ人、反ナチの文化人、芸術家は制作禁止を申し渡される。クレーを始めとする気鋭のアーティストたちはバウハウスなどの大学、美術学校を追われ亡命を余儀なくされ、エルンスト・キルヒナーは自分の作品を燃やし自ら命を断つ。

アーリア人種の優位を誇る美術が推奨され、モダニズムー特に表現主義、ダダイズム、未来派は徹底的に弾圧され、抽象絵画はわけの分からないもの、パウル・クレーの「幼稚な絵」は精神病者の絵にも劣るもの、斬新な宗教画は神を冒涜するもの、戦争の悲惨を描くものは国威発揚と士気に反するもの、ヌードや風俗画はドイツ女性を侮辱するもの、ユダヤ人の描いたものは認められないとされ、全国の美術館から2万点が没収された(展覧会後、軍費調達のため海外でオークションにかけられ、それ以外はおそらく焼かれ、ナチス崩壊後も1万点は行方不明となる)。

「退廃美術展」はこのなかから約120のアーティストの650点ほどの作品を集め、恣意的なテーマ別にまとめられ、プロパガンダと揶揄の言葉と文字通り「退廃」の「烙印」とともに展示された。パウル・クレー、カンディンスキー、ゴッホ、シャガール、オットー・ディックスなど錚々たるメンバーの作品群だ。近くに完成したばかりの「ドイツ芸術の家」では公募でドイツ美術の模範とされた「大ドイツ美術展」が平行して開かれた。

ドイツのある大学で今1年間に渡り「退廃美術」に関するゼミナールが行われており、数十名の学生が熱心に討論している姿が印象的だった。ある女子学生が言う。「悲しいことに70年後の今も同じようなことがあります。退廃美術という考え方もナチスも消えてはいません」。

日本で過去の歴史に対しこれだけ真摯に向き合っているか?

9 21, 2004 10.美術工芸, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(1)

2004年09月20日

御霊神社(権五郎神社)の「面掛け行列」(鎌倉坂ノ下)

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鎌倉坂ノ下の山裾にひっそりと霊気をたたえた小さな神社がある。御霊(ごりょう)神社、あるいは「権五郎(ごんごろう)神社」、古くからの地元の人は「権五郎さん」と呼ぶ。
鳥居のすぐ前を江ノ電が走る。
『吾妻鏡』の文治元年(1186年)の条にも出てくる古社だ。祭られている鎌倉権五郎景正は平安末期の武将で源義家に仕え剛勇をもって知られた。
ここには江戸時代から庶民に親しまれてきた七福神のひとつ「福禄寿」(智恵の神)の面があり、9月18日の例祭には県無形文化財に指定されている「面掛け行列」が行われる。
異形の面とくくり袴の男8名と天女、妊婦の10名が町内を練り歩く。

神社のすぐ前にしばらく住んでいた母が、この人形をテラコッタで作った。神社の人に見せたところ気に入られて買い入れてくれ、昨秋の個展での展示の後奉納された。写真はその一部。

9 20, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月19日

CGアニメーション『Birthday Boy』パク・セジョン

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SIGGRAPH2004のBest Animated Short(最優秀短編アニメーション)に選ばれた『Birthday Boy』がNHKBSの「デジスタ」で放映されて観た。
すでにアヌシー国際アニメーションフェスティバルでも入選している。
オーストラリア在住韓国人(あるいは韓国出身オーストラリア人)、パク・セジョン(Sejong Park)の作品だ。

舞台は1951年、朝鮮戦争時のある村。前年から始まった戦争で、すでに100万人以上が死に、朝鮮全土を荒れ果てさせ、ここで描かれる村には人影もない。
タイトルからして少年の誕生日なのだろう。前線で闘う父を想い戦闘のまねなどをして遊ぶ。一昔前の子供ならよくやったように鉄道線路にボルトを置き、鉄輪が踏みつぶしてくれることを待つ。
やがてやってくる鉄道貨車はすべて前線へと運ぶ戦車を積んでいる。少年の無邪気な想いと戦火の対比イメージ表現として圧倒的に凄い。
期待通り延びた鉄片をにんまりと持って家に帰ると「軍事郵便」が届いている。誕生日のプレゼントは戦死した父の遺品だった。

作者は37歳というからもちろん自身の経験ではない。けれども家族、親族がくぐり抜けてきた歴史が確実に反映されているだろう。

コンピュータグラフィックス(CG)で作られたもので私が感銘を受けるものはほとんど無い。しかしこの作品は生きている土地の歴史と少年の存在感と表情の表現が実に素晴らしく感動した。

9 19, 2004 12.写真・映像・映画・演劇, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月18日

爆音が鳴り響くバグダードでリバーベンドが観る「華氏911」

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※写真は英BBC制作・NHK放映「検証・イラク人虐待」より

Bughdad Burning が一月ぶりに更新され、池田真理さんによって訳された。

「バグダードの誰もがただただ疲れている…誘拐、爆撃、武装民兵、過激派、麻薬、ギャング、強奪、何でもあり。どの話を聞きたいか言ってみて。 お望みの話をひとつ、いいえいくつも聞かせてあげられる」

9.11にリバーベンドはマイケル・ムーアの「華氏911」を自宅で観る。
一月も前に海賊版(どこかの映画館で撮影・コピーされたもの)を手に入れていたのだが「5分と続けてブッシュを見ることに耐えられないのに2時間もの間保つとはとても思えなかった」からこれまで観なかったのだ。

事実に関しては「何も驚かなかった。ショックなことは何もない」というがやはり衝撃を受け「怒り狂い、なさけなく悲しく、自分に許せる限度以上に泣いた」。

娘と息子が「お国のために働いている」いやお国のためどころか同盟国と「世界のために働いている」といって満足しきっている「この戦争を支持する人々の傲岸不遜と無知蒙昧を体現する」ようなアメリカの母親の姿に激しい憎悪を抱く。しかしこの母親が死んだ息子の最後の手紙を読み聞かせる場面でリバーベンドは「感じまいとしていた同情」も感じ始める。
しかしそれは振りはらわざるをえない。「この人はイラクの犠牲者たちのことを少しは考えたことがあるのかしら。ファルージャの破壊された家の瓦礫の下から我が子たちを懸命に掘り出そうとしている、あるいはまたカバラで、子どもの胸の大きく口を開けた傷口から吹き出る血を必死に止めようとしているイラクの親たちも、彼女と同じ思いをしていると、一瞬でも思ったことはあるかしら」。

「9月11日。その人は座って新聞を読んでいた。お茶を飲もうと目の前のカップに手を伸ばしたとき、頭上に飛行機の音を聞いたような気がした。いい天気の気持ちのよい日で、さあこれから仕事にかかろうとしていた… 突然世界は暗転。ものすごい爆発音、続いてコンクリートと鉄骨の塊の下で骨の砕ける音…そこいら中が叫び声で満たされ…男も女も子どもも…ガラスの破片がむき出しの柔らかな皮膚を狙う…その人は家族が気になって立ちあがろうとした。が、からだのどこかがやられているようで、立ち上がれない…熱気が押し寄せてきて、人肉の焼ける臭いと煙りと粉塵が混ざり合って鼻をふさぐ…ふたたび突然真っ暗に。
2001年9月11日のこと? ニューヨーク? ワールド・トレード・センターでしょう?
いいえ。
2004年9月11日。ファルージャ。あるイラク人の家」

Bughdad Burning(原文)
Bughdad Burning(日本語訳)

『バグダッド・バーニングーイラク女性の占領下日記』

9 18, 2004 12.写真・映像・映画・演劇, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

松山巖『建築はほほえむ』と活版活字印刷

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友人の編集者に教えられて松山巖『建築はほほえむー目地 継ぎ目 小さき場』を入手して読んだ。

松山巖さんの本は『乱歩と東京』『世紀末の一年ー1900年ジャパン』などを読んで感銘を受けていた。
この本は、高校生や大学で初めて建築を学ぶ人たちに向けて書かれたという。
平易でしかし根元的なことばの数々が感動的だ。
「もし建築たちに意志があるなら、建築たちは樹のように生きたいと希っているのではないだろうか。」
「ル・コルビュジェの語る”第二の目的”を住まいに作り出すだろう。森のような静謐と陽気、秩序と多様を併せ持つ街をつくり出すだろう。ひとつの建築が目覚めたとき、街全体も甦るだろう。そうでなければ、コンピューターという道具の扱い方を誤っている。」
若い人に広く読まれてほしいが内容についてはまた別の機会に記したい。

小さな版型のわずか100ページちょっとの本だ。
しかし、この本は、書かれている文章、テクストあるいはメッセージ(「情報」という日本語の概念はあまりに矮小で貧困だ)を伝えようということと、この本を購入して、手元に置き、手に取ってめくる、本というモノとして手触りとして実感するという「身体的な」要素を分かちがたく結びつけるための実に綿密なプラニングにもとづいて造られていることが見て取れる。

「建物にもし、いいものとわるいものがあるとすれば、いいものとは長いあいだ、人々に使われた建物である。なぜならそのような建物は、時代の変化に耐え、激しい風雨にも耐え、なにより多くの人々に愛され、使われてきたからである」
この考えを若い人々に伝える上で、この本は、グーテンベルク以来500年、日本では明治以降の書物の印刷形式でありながら、90年代に消え去ったはずだった「活版活字印刷」で造られているのだ。
小さな町工場(失礼!文選・植字・印刷された株式会社眞珠社)に拍手!
(今の電算写植やDTPではありえない、植字工が間違えて一文字横倒しになっていることについてはDays of Books, Films & Jazz 「懐かしい誤植」参照。

今の若い世代は、活版活字印刷の本をほとんど読んだり見たことがないだろう。
この本のカバーと本文の文字を指で撫でてみて欲しい。インキが盛り上がっている。オフセット印刷の平板で無機質な水っぽさとは明らかに異なる存在感と活字の主張がある。
「小さな場と細部について熟考したときに、新鮮な建築はつくられるだろう」というコンテンツを本というカタチでコミュニケートする上で活版活字印刷は必然的に選択されデザインされたのだ。

本というメディアで人に伝えたいこと、受け取って欲しいことは、単に「情報」内容だけではないことをあらためて考えさせられる。

そして、ならば私が今中心的に関わっているインターネットというコミュニケーション環境と「本」「書物」とはどういう関係にあるのか、インターネットでの発信に「身体的」コミュニケーションの可能性はあるのか、ということを考えざるをえない。

また活版活字印刷という技術体系と「文化」は、効率化とコンピュータ化のなかで本当に滅びなければならなかったのだろうか、別のオルターナティブな道があったのではないか、という根本的な疑問も私にはある。

「ブック・ナビ」の書評

『書物についてーその形而下学と形而上学』清水徹/岩波書店
『活字礼讃 全』活字文化社
『本と活字の歴史事典』印刷史研究会編/柏書房
『印刷はどこへ行くのか』中西秀彦/晶文社
『活字が消えた日ーコンピュータと印刷』中西秀彦/晶文社
『印刷に恋して』松田哲夫/晶文社

9 18, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | | コメント(3) | トラックバック(1)

2004年09月15日

子犬の初散歩

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生後100日を越え、ワクチンも2回済ませたので、飼っているビーグルの子犬(名前はミック)に首輪を付け散歩に連れ出す。
これまで外に連れて行くときはいつも抱いていたし、蚊がいるので庭にも出さなかったので、室内の床以外の地面を歩くのは初めてだ。
部屋の中では駆け回っているのだが、そこら中嗅ぎ廻ってなかなか前に進まない。家からわずか100メートルほどの由比ガ浜海岸まで行くのに20分もかかる。
夕方の散歩タイムなので、この間数十匹のさまざまな犬と出会ってじゃれあい、たくさんの人に撫でてもらう。

写真は初めての砂浜(由比ガ浜)をおそるおそる歩くミック。背景は稲村ヶ崎。

9 15, 2004 24.犬と暮らす | | コメント(3) | トラックバック(0)

2004年09月14日

レストラン・ワタベ(鎌倉坂ノ下)-1

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私の誕生日祝いを長谷駅近くの「ワタベ」でやった。昨年(2003年)11月にオープンしたばかりなのでまだ1年もたっていないが、すでに人気は高い。
ロケーションがまずいい。長谷の江ノ電沿いの道を少し歩き、その後「線路を渡る」のだ。踏切などではない。石砂利を踏み、意外と高さがあるレールを踏み越える。江ノ電沿いには線路からしか入れない家がたくさんあるがここもそうだ。そこに立派な門構えと門前にもたっぷり空間を活かしたお屋敷がある。1941年(昭和16年)築の日本家屋を改装し、敷地の7割はぜいたくに庭にしつらえている。

庭に向かって開放的なテーブル席の間と庭につながる小間を備えた10畳ほどの個室がある。きょうは4名で個室。靴のままなのだが、障子やふすま、床の間と庭の見える空間でなにか古き良き時代に裕福な友人宅に招かれたような気分になれる。
門前をときどき江ノ電がことこと走る。
調度、照明、飾り付けもじゅうぶんに気配りされているし、サーブする女性もどの人も感じいい。

料理自体は正統的なフレンチなのだが、形式張っておらず、ソースも主張しすぎず、どの皿もボリュームがあるので、身構えずに楽しめるフレンドリー古典フレンチとでも呼びたい感じだ。
米・麦・芋のかなりめずらしい焼酎も置いてあるが、やはりコート・ド・ローニュの赤。
コースももちろんあるが、今晩はアラカルトで。
前菜が実に豊富だ。パブリカ入りのポタージュは冷たく滋味、季節野菜のギリシャ風マリネ帆立貝柱添え、ズワイ蟹の春巻き、本日の鮮魚(カンパチのりっぱな切り身)のカルパッチョ、温野菜とポルチーニ茸の軽い煮込み、フォアグラ(ほんの少し堅い外側の焼け具合と中のとろとろ感が絶妙)のピアレとパルメザンリゾットなどでもうかなり腹も足りる。メインに頼んだのは和牛ハラミステーキ、和牛ハンバーグ、鯛のポアレ。ハラミは適度に赤味が残されたいい焼き具合、ハンバーグは肉の良質さが違う。鯛は皮は香ばしく身の旨みが逃げていない。

各種のパン、デザート、コーヒーなども含めてこれで¥21,000は実にリーズナブル。

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イェンドラシャクのチメルフ磁器フィギィア「キジ」

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チメルフのもう一人のデザイナーはヘンリック・イェンドラシャク(H.Jedrasiak)。鳥や魚、亀やヒヒ、ヌーなどの他、スーダンの女性など人物も制作した。写真の「キジ」(1959年/11.5x21.5cm)はため息が出るほど美しいフォルムだ。赤のアクセントも素晴らしい。

9 14, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

山崎杉夫さんの「えほん・鎌倉探偵」

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鎌倉市役所向かいの「鎌倉ワイン館」は、デイリーワインからちょっと高級なものまで品揃えが豊富で重宝する。
ここには「Gallery Private」という小さなギャラリースペースがあって、半月交替でなにかやっている。
きょうは鎌倉大船在住のイラストレーター山崎杉夫さんの、「えほん・鎌倉探偵ー大仏様の恋の行方の巻」の原画展示(といっても出版の予定があるわけではない)というのをやっていた。大仏様にある日プレゼントが届き、不思議に思ったお坊さんが、裏通りのカレー屋のコックに探偵を頼む、さて…、という話で大胆な版画調、民話風のイラストが楽しい。

9 14, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月12日

9.11以後の3年

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人々が「やり過ごす」ことによるファシズムの到来を描く『茶色の朝』(フランク・パヴロフ/物語・ヴィンセント・ギャロ/絵/大月書店)より

9.11(2001年)はけっして始まりではなく、歴史的なひとつの結果だ。
しかし9・11以後のアメリカによるアフガニスタン、イラクへの一方的先制攻撃「戦争」と、それを支えるための統制・抑圧の網の目の構築によって、世界はむきだしの軍事力と果てしの無い戒厳令化が支配するパラダイムに入ってしまった。

イラク日本人人質事件に関わって天下の朝日新聞は2チャンネルの罵詈雑言を「高級」にまとめ直したような「国際政治学者」の論考を載せたが、それには「世界が主権国家の原則で動いている事実を無視して行動しては真に意味のある行動はできない」などとあった。アフガニスタンとイラクに対する攻撃・戦争は、主権国家とその間の関係を規定した国際法でいうところの「戦争」などではない。ラムズフェルドは「国際法は時代遅れだ」と公言しているし「対テロ戦争」での拘束者は国際法上の「捕虜」としては扱われていない。「無法者」が世界を支配しているのだ。

たくさんの問題があるはずだった(むろん現在でも存在する)。圧倒的な富の偏在、飢餓、エイズ、環境、資源、難民、移民、宗教対立、地雷、植民地の遺制等々…。
ブッシュは「対テロ全面戦争」「安全確保」の名のもとに「問題」そのものを爆撃ですべて吹っ飛ばすというとんでもなく荒っぽい道を突き進んだ。

「アメリカはなぜこうも世界で嫌われるのか」「アメリカは過去50年間を見ても何百万人という世界の人々を殺してきたのではないのか」という真摯で反省的な問いは、元々の「加害者」が、9.11によって「国民全体が被害者」であるかのように一気に装われ実感させられるなかで「愛国的でない」声として圧殺された。
複雑にからみあった問題は単純な言葉と二元論に置き換えられた。「正義」と「邪悪」?
世界はジョン・ウェインとそれを補佐するディーン・マーティン、リッキー・ネルソンのみが正義となった。人権より「反テロ」を優先させる「愛国者法」はほとんど無制限に人々を拘束できる(拘束者の9割以上が結局疑い無しとして釈放されるにもかかわらず)。ウェブでの発信、メールの監視ももちろんだ。

アメリカの「衛星プチ帝国」ー『安心のファシズム—支配されたがる人々』(斎藤貴男/岩波新書)『「非国民」のすすめ』(斎藤貴男/筑摩書房)である日本では単純なフレーズしかもともと発せられない「首相」が「国際貢献」「人道復旧支援」という名目でアメリカに追従し「派兵」した。
マスコミはもっとも反対していたものでさえ事後追認し「自衛隊提供」などというクレジットを臆面も無く流すようになった。
世界の複雑な動きは「アルカイダ関与の疑い」などと表現されるだけで一気に色分けされ、人々は了解したつもりにさせられるようになった。
「安心」のために「監視・管理」は強化されるべきこととされるようになった。

一方で、構造改革・民営化などとさも新しい希望に満ちた政策であるかのように言っていることが、毎年アメリカが内々で日本に突きつける要求の忠実な反映であることも明らかになった。
グローバル資本(特に軍産複合体)と、それに都合のいいナショナリズムが一気に世の中を覆いつつある。
「平和憲法」などは「改正」するまでもなくとっくに無視・蹂躙されている。今ある改憲の動きは追認のカタチを整えるものでしかない。「日本国」は「日本国憲法」に即してはすでに運営されていない。ここでも「無法者」が支配している。

過去のアジア侵略・植民地支配を単に経済的にだけではなく政治的にきちんと清算していないからこそ起こるアジア諸国・諸国民との軋轢を逆に国家主義に利用する。
レイシズム(人種・民族差別)や女性蔑視の言辞を平気で、あるいは意図的に吐く輩が300万票以上を獲得して首都に鎮座する。ペロンを「極右」と呼びながら、この人物に対してはマスコミは何も言わない。

「国のために死ねる人材を育てるのが教育の目標」だの「反日分子」だのということばが国会で堂々と表明され、小中学校では「君が代」を本当に歌っているかどうか口元で「音量チェック」され、校長は教育委員会にもっと具体的な指示をしていただければ指導しやすいのですがとお伺いをたて、ちょっとおかしいのではと述べたPTA会長はよってたかって非難され辞任させられる。

北朝鮮による「拉致」は意図的に過去の「朝鮮人強制連行」とは切り離され(他の言語でこの歴史的事実の内容を表現すれば同じことだ)、元々の加害者が一斉にヒステリックに被害者面することでなにか優位な立場に立ったように思わせ、過去の植民地支配にほおかむりした(居直った)。

テロがもし「犯罪」であるのならばそれに対応するのは警察のはずだが、軍と警察はますます一体化しつつある。権力による管理・監視の範囲はとめどもなく拡がり、「有事体制」の訓練では「住民の参加」さえ求められるようになった。もちろん「始めは」「自発的に」だ。
「対テロ全面戦争」の国際的展開に合わせて「共謀法」などというものまで出てきた。

わずか数百たらずのグローバル資本が世界貿易の7割を牛耳るという根幹の問題を脇に置いて、「市場競争」がもっとも望ましいグラウンドであるように思わされるようになった。もともとの出発点の不平等はまったく無視して、競争に負けるのは努力が足りない質の劣っている本人・企業が悪いのだということが当たり前のようになってきた(「勝ち組・負け組」)。
「一億総中流」はもちろん幻想だった。市場にできるだけまかせる小さい国家は、基幹企業にはテコ入れするが、福祉や医療は削り、下層の人々は労働力・消費者としては利用されながらも徹底的に切り捨てられ始めた。リストラなどで中流から脱落する人々がこれに流入する。

「レッセ・フェール(自由放任主義)」「社会ダーウィニズム(自然淘汰・適者生存)」「夜警国家」などという、とうに歴史的な概念と思われていたことが21世紀に「舞台装置を隠されたなかで」ゾンビのようによみがえっている。

これが9.11の3年後のわれわれが置かれている状況だ。

9 12, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(1)

2004年09月11日

鎌倉赤坂飯店(鎌倉小町)

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鎌倉でラーメンというと、小町通りの「ひら乃」、駅前東急向かいの「ひなどり」、裏駅側御成町の「静雨庵」などがあげられるが、どれも私には合わない。

私が一番好きなのは、若宮通りと小町通りを結ぶ小道にある「鎌倉赤坂飯店」のラーメンだ。
店名はたいそうだが、カウンター5席とテーブル2つだけ、家族経営の小さく安普請の店だ。

勝手を知らない初めての客が注文しようとすると、待ってくださいよ順番に聞きますから、とおやじさんのやや無愛想な声が返ってきて首をすくめる。メニューには番号が振ってあり注文は番号でする。品名を言っても番号で確認される。ラーメンと餃子だけは名前でもいい。

おかみさんは配膳したり餃子を焼いたりし、おやじさんは具やチャーハンを炒め、息子さんが麺をゆで盛りつける。3人は無駄口をいっさいしないのみならず、業務連絡の類のやりとりもない。にもかかわらず、客の入ってきた順番の確認から、ワンクールの制作範囲、業務進行分担、洗浄、精算にいたるまでまったく滞りなくとりおこなわれるのだ。

「阿吽(あうん)の呼吸」のサンプルを見たかったらこの店に行けばいい。

ラーメンのダシは鶏と豚ガラベース。麺は太からず細からずでやや縮れている。ただし最近はどこでもやっているような一人分の容器などは使わず巨大な金ボールにたっぷりの湯でゆでる。
チャーシュー、シナチク、ほうれん草(季節によってさやえんどうやいんげんになることもある)きざみネギだけのシンプルなものだが私にはとても旨く飽きない。以前小町に住んでいた頃は少なくとも週2回は行っていた。

若い人には骨付き豚肉がのった「扖骨(パイコー)麺」がお薦め。

12時から開くが3時ちょっと過ぎには閉まる。ふだんからそうだが土日は確実に行列ができる。ちなみにこの店には今も電話は無い。

9 11, 2004 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | | コメント(0) | トラックバック(0)

オルトゥフェインのチメルフ磁器フィギィア「ペンギン」

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これもわたしが好きなチメルフのもの。デザインはハンナ・オルトゥフェイン(H.Orthwein)。
「ペンギン」1958年/小(10x6.5cm)/中(16x11cm)/大(19x12cm)
他にネズミ、カエル、キリンなどを作っているが、他のデザイナーに比べて模様の色づけが凝っていて独特なのと子ども好きする、しかし洗練された愛嬌がある。

9 11, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月10日

ナルシェビッチのチメルフ磁器フィギィア「孔雀」

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チメルフの黄金時代を担ったのは昨日紹介したトマシェフスキの他に数名のデザイナーがいるが、ミェチスワフ・ナルシェビッチ(M.Naruszewicz)もそのひとりだ。主として動物をデザインした。
そのなかのひとつ「孔雀」/13x18cm/1965年。
実際に動物園などで見るとかなりごてごてした生き物の姿がバランスを保ったまま、ほとんど極限までミニマライズされている。アルタミラの洞窟壁画にも通じるものがあるかもしれない。さすがに孔雀相手ではそうせざるをえなかったか、最小限のモノトーンが多いチメルフ磁器フィギィアのなかではめずらしく色彩感に富んだ絵付けだ。

9 10, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月09日

トマシェフスキのチメルフ磁器フィギィア「リラックス」

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7月10日の記事で触れたように、ポーランドの磁器フィギィア「チメルフ(CMIMELOW)」の輸入販売を進めている。なんとか今月中にウェブサイトもアップさせたい。「ミッドセンチュリーデザイン」としてのチメルフは1955年から65年が黄金時代だが、その代表的なデザイナーが、ルボミル・トマシェフスキだ。
写真はトマシェフスキ1965年制作の「リラックス(10x18.5cm)」。
私が今タイトルバナーに使っている写真の女性の感じとなんとなく似ているのがおもしろい。
先頃チメルフを訪れた私の友人(輸入販売会社代表)が、たまたまアメリカから来ていたトマシェフスキに会うことができた。素晴らしいことにまだ現役でがんばっているという。

Lubomir Tomaszewski
サイトに載っている彫刻はぜひ実物を見てみたい。

9 9, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月08日

レストラン カロ CARO(鎌倉長谷)-1

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「カロ」のビーフシチューのような料理はまず家庭では作れない(もちろん缶詰を買ってくれば少しは似たようなものができるかもしれないが)。デミグラスソースは牛すじや野菜などを炒めては煮を繰り返す。この間漉したり寝かせたりも繰り返す。この店のソースはできあがるまでになんと2週間も手間をかけているのだ。
シチューに入れる牛のバラ肉もオーブンで4時間も煮込んであるため、脂肪が落ち口のなかでとろけるように柔らかい。仕上げにかけられる生クリームと芳醇なソースが溶け合い、ご飯とも相性がいい。
1979年(昭和54年)の開店以来25年間この作り方と味を守っている。
北鎌倉山ノ内にこれもビーフシチューが旨い「去来庵」があるが、同じ年にオープンしているのもおもしろい。

9 8, 2004 03.私の好きな鎌倉の店・洋食 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年09月05日

チェチェンを知るために

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※写真はクリックすると拡大表示されます(『DAYS JAPAN 2004/9月号』より
ロシア軍の侵攻で廃墟と化したチェチェン首都グロスヌイ。右下はモスクワの劇場で射殺されたチェチェン女性ゲリラ

プーチンはブッシュの「対テロ戦争」と称する陣列の「陰」に加わることによって責任を逃れようとしている。もともと欧米諸国政府は独立を求めるチェチェンに対するロシアの軍事介入に批判的だったが、9.11以後は見て見ぬふりに切り替えた。
チェチェンは400年間に渡ってロシアの侵略・支配に抗してきた。ロシアが帝政であろうと革命ソヴィエト連邦であろうと変わりはなかった。
ソ連邦崩壊後の91年に独立宣言をしたが、94年以降ロシアの軍事侵攻・事実上の占領下で、つい先日の選挙でもあいかわらず傀儡政権が「選ばれた」。
岩手県ほどの面積で70〜80万の人口だが、ロシア軍の介入ですでに20万人ほどが殺されている。
ロシア軍による略奪、強姦、無差別逮捕、拷問、無裁判での処刑がチェチェンの日常だ。
『DAYS JAPAN』2004年9月号(広河隆一責任編集・世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌)の林克明氏の写真と文は「テロリストと呼ばれる人々」がどういう侵略・圧殺の経験と絶望とそれでも抵抗しようとしているかの姿を描いている。

テロが始まりなのでは断じてない。テロは一連の歴史