地図と歩くおもしろさ-信州真田-2
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昼食後、真田町(上田の北北東)に移動。2万5000分の1地形図を見ながら「神川(かんがわ)」沿いの集落を約10Km歩く。
「○」印の町役場が出発点だ。15名ほど。
向かいの「文」印が中学校であることを確認する。小中学校は「文」で高校になると「文」が○で囲まれる。よく間違えて「文」という地図記号が書かれているところに学校があるように思ってしまうがそうではない。これはそこにある建物がなんであるかを示す「建物記号」であって、建物自体は「■」(もちろん細長いこともある)で表わされる。
縮尺が2万5000分の1だから、地図上の1cmが現地の250mだ。
約750mくらいで横尾の集落と神社があることの見当を付けて歩き始める。正面に山塊の外れに少し離れて小山になった部分が見える。ここら辺にはあちこちに城趾があるがここも「横尾城趾」だ。山城として防御と眺望に優れている地形であるかが分かる。
横尾には鎌倉・室町時代に市が置かれたそうで「市神」様の石碑がある。集落を貫く道は狭いがかつては主要な往来道であったようだ。鳥居の記号は横尾神社。入母屋(いりもや)造りの上にさらに「破風(はぶ)」という三角の出っ張りがあるめずらしい造り。
この日歩いた集落には必ずそれぞれ神社があった。牧谷さんによれば、ヨーロッパのキリスト教圏の町や村では中心に必ず教会があるが、日本の神社は集落のはずれのやや高いところに作られる。そこから村人を見守り、年に一度「神輿」に載って村内に出向くのだ。
集落から外れた山裾に古い寺がある。曹洞宗の信綱寺。寺自体は山門からはるか上にある。
開けているところに出ると、ここが河岸段丘であることがはっきり見て取れる。段丘の境が石垣で固められている。牧谷さんの見立てでは、横長の石が自然に組まれているのは江戸時代に遡るかなり古いもの、ランダムなのは新しい時代のものであるようだ。
コンクリートの「水路」などではない「小川」がところどころ古い石積みで守られながら流れ、野の花が水面に触れあうようにかぶさっている。赤とんぼが群舞し前を歩く人の帽子に長い間留まっていた。コスモスが咲き乱れ、東京では終わりにちかい木槿(むくげ)が今が盛りで蕾もたくさん付けている。
昭和30年代までこのあたりでは養蚕が盛んだった。二階建ての二階が蚕部屋で、屋根に「気抜き」という換気のための出っ張りを作る独特の造りだ。「越し屋根」と呼ばれ、すでに養蚕を止めた後建てられた住宅にも形をとどめている。倉の上にやはり換気のために間を少し空けたように屋根を付ける「置き屋根」という様式のものも数多く残っている。
戸沢という集落から真田へ渡る「長生橋」から見る神川は日本中の川に加えられている「護岸」加工とは無縁の自然の景観そのままだ。
地図にはないが石舟集落に至る田を突っ切る道ができている。
ここから見る風景は実に美しい。
収穫を待つ黄金色の稲穂、刈り田と点々と円錐形にまとめられた稲わら。その先に低く神川が流れ、向かいの戸沢集落がたたずむ。先に述べた「越し屋根」「置き屋根」が見える。右の方に鎮守の戸澤神社。一段高まったところに代々の墓地がある。杉一色に戦後塗りつぶされた山林と違い、樹相は豊かで立派な赤松もたくさんある。
私の好きな写真集、前田真三『田舎』(神無書房)に出てきそうだ。
田の端に墓がまとまってある。かろうじて「寛永」などと読める。
上田と菅平を結ぶ国道(昔は鉄道が通っていた)に出ると「農林産物直売所」がある。朝から2時までなのですでに閉まっているが、きのこ類はたしかに「林産物」なのだなとなにか納得する。
しばらく下り神川の向かい、東太郎山の山塊東端にへばりつくように集まった畑山(行政区としてはすでに上田市)という集落を見、伊勢山に出る。山には砥石城趾、米山城趾がある。
いくつかある地図上で海抜700メートルはある崩落の跡からは、太古ここが海であったことを示す化石が見つかっているそうだ。
路のところどころに、石仏、道祖神、庚申塚、馬頭観音の石碑がある。伊勢山にはゆうに3メートルはある庚申塚があった。
「穀蔵(こくぞう)」という古民家を改装してパンを作っている店で解散。週3日しか販売していないここの自家製パンは翌朝食べたが実に旨かった。
神川の渓谷沿いにひっそりとある「千古温泉」で疲れを癒す。
9 29, 2004 07.デザインの世界, 22.旅先で | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック(0)