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2004年08月28日

ある在日バングラデシュ人に起きたことーそしてこれから日本人に起ころうとしていること

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すでにドイツで逮捕された(その後フランスに移送)「イスラム過激派幹部」とされるフランス国籍のリオネル・デュモン容疑者が日本に1年2ヶ月ほどの間に4回入国していたことが判明し、日本のマスコミで「アルカイダ幹部日本潜入」「日本にもテロの脅威現実化」としてトップニュースで大々的に報道されたのは5月のことだ(なおデュモンがアルカイダと関係があるかどうかは未だに定かでなく、またなんらかの「イスラム過激派」に属しているとしても幹部であるかは疑わしいという情報がいろいろあるがここでは主題でない)。

問題は、デュモンが日本で「接触をはかった」とされたモハメド・ヒムさん(33歳)をはじめとするバングラデシュ人5人、マリ、インド、フィリピン人各1人計8人の在日アジア人が逮捕されたことをめぐることだ。いずれも微罪相当のいわゆる「別件逮捕」である。
しかしマスコミは警察のリークに沿って「アルカイダ関係者」としてこぞって扱った。

ヒムさんのことを、産経新聞は「普段は家族と暮らし、感じのいい、まじめな青年として環境になじんでいるが、もう一方では、国際テロ組織の一員としての顔を持っていた」と断定的に記し(社説で!)、週刊誌は彼らの顔写真とビンラディンの写真を並べてみせた。
ヒムさんは秋葉原に事務所を開き、横須賀基地のフィリピン人労働者などを主な顧客とする国際電話プリペイドカード販売やマレーシアでの携帯販売を行っていた。
毎日新聞は「東京・秋葉原の電気街や、米軍横須賀基地のある神奈川県横須賀市などに国際テロ組織の影が忍び寄っていたことに、周辺の住民らは不安と戸惑いの表情を見せた」と根拠のない不安を自分で煽り、
読売新聞は社説で「米同時テロのように、数年かけて支援組織をつくり、綿密に役割分担し、完全に準備を整えてテロを実行するのが、アルカイダの手法である。何の意図もなく、わざわざ米軍基地の前に事務所を置くだろうか。米軍の情報収集や、米軍を狙ったテロの準備行動だった疑いもあるのではないか」と書き「ヒム容疑者マレーシアに数百万送金、現地で幹部と接触」などと一貫して容疑が深まりつつあるような報道を続けた。

しかし2ヶ月たっても警察・検察は「アルカイーダの関係者」であることを8人について誰ひとり立証できず釈放せざるをえなかった。皆無関係だったのだ。

マスコミは逮捕するときは大々的に扇情的に書き立て放映し(それは世界にも発信される)、後はどうか。
読売新聞は7月8日付「『アル・カイーダとの関連、断定できず』ヒム容疑者を略式起訴」といかにも証拠不十分なので不本意だがという意味を込めた小さな記事で終わらせたのだ(略式起訴というのは別件逮捕の微罪についてのいやがらせのようなものでテロともアルカイダともまったく関係ない)。五十嵐仁の転成仁語 7月29日の「読売新聞はどう責任をとるのか」参照。他の新聞も1段のベタ記事の扱い。TVではほとんど報道もされなかった。

バングラデシュ出身のヒムさんは、カナダに渡り、そこで日本人女性と結婚、95年に来日した。6歳の息子と2歳の娘は「日本人」だ。
時給700円のアルバイトから始め、在日9年間で年商12億円まで育て築きあげてきた事業と信用の一切を失った。
警察はヒムさんの顧客をしらみつぶしに回り、国際テロ支援の疑いがあると銀行口座を調べたてた。数百人にのぼるヒムさんの顧客は「連絡しないでくれ」と関係を絶った。アルカイダ関係者の「容疑」を受けて逮捕されたと「報道された」だけで、会社事務所は家主から追い立てをくらい、NTTコミュニケーションは結んだばかりの契約を破棄し、佐川急便は取引を断り、海外送金もできず、クレジットカードも解約された。事業を展開していたマレーシアにもビザがおりず行けない。ショックで病に倒れた母がいる故国バングラデシュではすでにアルカイダの刻印を押され、裕福な事業家のイメージが拡がったので帰れば殺されるか誘拐されるだろう。回収できない売掛金などで逆に2億円の借金を抱えることになってしまっている。

これは東京新聞8/27朝刊「こちら特報部」がいう「風評被害」などという生やさしい性格のものではなく「社会的抹殺」ではないか。

「対テロ戦争」のためと称するなら人権などいくらでも蹂躙できる「愛国者法(Patriot Act)」を制定し、連邦法を改悪し、少しでも「疑い」があればどんどん拘束するアメリカ社会(ついでながらアメリカの世論調査では4割もがその際拘束された人への拷問を認めている)の後を日本は急速に追っている。
マスコミは公安警察の思い通りの拡声装置に成り下がった。
人々は不安を煽られ、批判的な思考力を喪い、一層の警察・監視国家化を求める。そしてこんな「疑い」を万一にも自分がかけられないように、「異を唱えない」「普通」に徹し、異物は無視し、関わりあいになることは極力避け、できれば「誰か」に、つまり「強力なリーダー・権力」に排除してもらいたいと願う、という方向になだれをうっている。

産経新聞は先の社説で、さらに話を広げて「日本に滞在しているイスラム系外国人は9万人ともいわれ、人と金のネットワークが出来上がっている。彼らはこの基盤を利用しているのだ」と在日イスラムの社会そのものがテロの温床になっているかのような暴論を吐いた。
東京新聞によれば「アラビア語を学ぶ日本人の教え子らも、電車の中でアラビア語の本を開いただけで妙な視線にさらされるとこぼしている」「日本人の学生に対してですらこうなのだから、滞日外国人のイスラム教徒はさぞつらいだろう」と同志社大学神学部の四戸潤教授が述べている。「数年前まではあったイスラムを知ろうといった友好的な雰囲気が消え、イスラム教徒に対しては聞く耳を持たないという風潮を感じている」。

ヒムさんは自殺を決意し、荒川の橋から飛び降りようともしたが「晩ご飯何時に帰る?」と携帯にかけてきた6歳の息子の声でふみとどまる。「息子にはこんなことがない世の中になるよう将来弁護士になってもらいたい」というのが彼の願いだ。

ニュースサイト『日刊ベリタ』は過去の報道を自己批判してヒムさんに謝罪し、当該記事を削除して、『日刊ベリタ』ー「日本政府、メディアは私の名誉を回復して」 アルカイダ関与が疑われて拘留43日 バングラデシュ人が訴えを載せている。
Asia Letter: He isn't from Al Qaeda, but who would know? -Norimitsu Onishi IHT

8 28, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)

2004年08月26日

睡蓮が咲く

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小さな睡蓮の花が今朝、庭の水鉢で咲いた。

睡蓮の学名のNymphaeaはギリシャ神話の水の女神ニンフにちなみ、英語ではWater nymph ともWater lilyともいう。カイロ考古学博物館で睡蓮の花冠などいくつか描かれているのを見たことがあるが、古代エジプトですでに栽培され神聖視されていたという。
1880年頃からフランスで園芸化が進められ多様化した。
同じ頃パリ北西の小さな村ジヴェルニーに移り住んだクロード・モネ(1840-1926)は自宅の近くに睡蓮の浮かぶ池(水の庭)を作り、よく知られている傑作群を後半生描き続けた。

私が輸入販売に関わっている磁器工芸品リモージュ・ボックスにも関連のものがある。
モネ「睡蓮」
モネ「日本の橋」
モネの日本庭園 睡蓮の池にかかる日本の橋
モネの「日本の橋」(パステルカラー版)

8 26, 2004 18.花・木・野菜・生きものたち | | コメント(3) | トラックバック(5)

2004年08月25日

段葛こ寿々(鎌倉小町)

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鎌倉でそば処というと、雪の下の「鎌倉一茶庵」「たけや支店」、大町の「竹之家」、扇ガ谷の「そば処五島」、小町の「なかむら庵」といったところか。そばもラーメンと同じく人によって好みが違うのでどこが一番というようなことはいえない。
段葛の東側にある「段葛こ寿々」(だんかづら・こすず)も名物「わらび餅」とともにそばも旨い。
昭和初期の一軒家の茶道具屋を改装してあるので、開業してまだ8年ほどとは思えない雰囲気を出している。
辛味おろしそばも好きなのだが、きょうは「こ寿々そば」。
そばは国産玄そばを自家製粉して手打ちしている。三つ葉のきざみ、大葉、上質の天かす、海苔、大根おろし、ゆずがそばに盛られていて、これにつゆをかけて食べる。
「わらび餅」もとても評判がいい。沖縄黒糖から自家で作る黒蜜ときな粉を付けて食べると本わらび粉ならではのぷりぷりした弾力感が味わえる(これは箱詰めでも売っている)。
由比ガ浜通りにも甘味処「由比ガ浜こ寿々」がある。私は甘いものはだめなので行ったことはない。

8 25, 2004 02.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | | コメント(0) | トラックバック(1)

犬の感覚

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私が夜中にリビングで仕事をしている間は、Micは部屋の中をかけまわったり、TVの前に置いた寝床(ベースはA4サイズの書類入れ)でまどろんだりしている。丸くなって寝ている場合の必要面積はA5サイズくらいだ。
犬の聴覚は音量が同じなら人間の4倍ほどの距離まで感知するし、また一般の音楽CDの高音は2万2000ヘルツくらいが限界だが、犬は6万から12万ヘルツの高音まで聞き取れるらしい。

不思議なことに、Micは、オリンピックや映画やニュースやときにCDなどでけっこうボリュームの大きいTVの5.1chサラウンドの音はまったく気にならないようなのに、私がキッチンやトイレに行こうとすると少しの足音か気配でむくりと目を向ける。
塩酸や乳酸に対しては100万分の1の濃度でもかぎつけるといわれる嗅覚も関係しているのかもしれない。
いずれにしても、産まれて3ヶ月たらずのまだ大人のこぶしほどの頭の中で、いろいろ瞬時に仕分けし反応しているらしいのだ。

8 25, 2004 24.犬と暮らす | | コメント(0) | トラックバック(0)

麻心(鎌倉長谷)-1 琉球犬シャンティ

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鎌倉長谷のカフェ「麻心(まごころ)」には「琉球犬」の「シャンティ」(3歳)がいる。野性的な見かけと違ってとても従順で穏やかな性格だ。Micがじゃれついても、しょうがないなあ、という感じで逃げていく。
やや大きい中型だが体型骨格のバランスが犬というよりピューマあたりに近く、とても速く走るそうだ。
マスターのシンさんも友人から譲り受け、その友人も誰かから譲り受けたらしいので元々の入手先はわからない。

琉球犬は、本島北部の山原(ヤンバル)や石垣島、西表島などで猪の狩猟用に飼われていたという。琉球では「シマイン」と呼ばれていた。
トゥラーというトラ毛模様(毛色によって赤トラ、黒トラ、白トラ)、アカインと呼ばれる茶色、焦げ茶色、ブラウンなどの全身一色のものがいる。
狩猟の減少、戦禍、食糧難等によってほぼ絶滅しかけたが、90年頃から保存・戻し交配によって今は1,000頭前後にはなっているらしい。一部は沖縄県天然記念物に指定されている。

最近のDNA鑑定によると、アイヌ犬と近く、縄文人が南方から連れてきた子孫ではないか、といわれているが、これはおそらく琉球史の「日本的改竄」や「ニホンオオカミ」「和犬」などというナショナルな刻印を帯びた近代「分類学」を払拭した上でないとにわかには信じがたい。

8 25, 2004 01.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar, 24.犬と暮らす | | コメント(1) | トラックバック(2)

2004年08月24日

Daisy's Cafe(鎌倉長谷)-2

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夜中の3時ころ、近くのデイジーズカフェ(Daisy's Cafe)に行きピザを食べる。
Micも連れて行く。
前にも書いた(07/03)が Duca(デュカ)は巨大なバーニーマウンテンドッグ。体重40Kg超。Micとの体重比約25倍。尻尾の太さだけでMicの胴体くらいある。
Micは前に獣医に連れて行ったとき、猫に初めて出会ってひどくおびえていたが、Ducaにはじゃれつく。
お互いに同じ犬類と認識しているらしい。
最近のMicは噛まれるとけっこう痛いのだがDucaは大人の対応だ。

Daysy's Cafe

8 24, 2004 01.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar, 24.犬と暮らす | | コメント(3) | トラックバック(0)

2004年08月23日

「PLAY FAIR プレイフェア」(オックスファム・インターナショナル・オリンピックキャンペーン)

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※写真右/「1日12時間労働・週7日休み無し」「1万円のランニングシューズを作るのに日給3$(330円)」「時給33円で毎分4枚のシャツを作る」「週45時間の強制残業」
※写真左/オーストラリアのシドニーでオックスファム・オーストラリア(OCAA)がアテネオリンピックに向けてスポーツウェアを作る縫製工場のワーカーたちが悲惨な人権状況にあることを訴えたパフォーマンス(写真:OCAA)
※写真はいずれも許可を得てOxfam Japan サイトより転載

貧困や人権無視とその背景にある経済的政治的不公正をただすプロジェクトを中心として世界100ヶ国以上で活動する国際NGO「オックスファム・インターナショナル」(本部・イギリス)が、アテネ・オリンピックを期に、スポーツウェア産業労働者の権利尊重を求める「PLAY FAIR プレイフェア」キャンペーンを行っている。

すでに90年代後半のアメリカで「スウェットショップ(Sweatshop)」が問題化した。もともと19世紀に長時間低賃金無権利状況下に汗まみれでこきつかわれる繊維産業などの労働者が働く「搾取工場」(日本で言えば「女工哀史」や「ああ野麦峠」の世界)を指す歴史的な用語だったが、グローバリゼーションはこのことばを現代によみがえらせた。
「95年に労働省が摘発した工場の悲惨さは、第三世界にまさるとも劣らぬものだった。たとえばロサンゼルス郊外の工場では、六十余名のタイ移民女性労働者が監禁され、1週7日、ときには1日20時間も働かされていた。時給はわずか70セント、脱走者には暴力とレイプが加えられたという。その製品は大手百貨店や通信販売を通じて、高級ブランドとして販売されていた。…同省によれば90年代にアメリカ国内で生産された高級衣料品の6割はスウェットショップがかかわったものだという」(「安さの陰にひそむ矛盾/古沢広祐ー『安ければそれでいいのか!?』(山下惣一・編著/コモンズ)

スポーツウェアビジネスは現在国際的な大企業を中心とした寡占体制であり、オリンピックはその最大のPRチャンスだ。
「オックスファム・インターナショナル」が発表した「PLAY FAIR」レポート全文がボランティアの手で翻訳され日本語で読める(Oxfam Japan 「PLAY FAIR プレイフェア」よりダウンロード可)。
69ページにおよぶこのレポートは、ナイキ、アディダス、リーボック、プーマ、フィラ、アシックス、ミズノなどの華々しいブランドイメージを持つ商品群が、中国やタイ、カンボジア、インドネシアからトルコ、ブルガニアに至るまでの貧しい人々(特に女性の割合は圧倒的に多い)の過酷な労働と人権無視、暴力的な抑圧のもとで作られている実態をインタビューもまじえて生々しく描き出す。
企業は表向き改善の姿勢を見せても、実際はそれに相反するノルマと責任を末端の供給者におしつけ、受け入れねば工場を替えると脅し、構造は固定化し再生産されている。

「先進国」の私たちはこのような背景をほとんど知ることなく無自覚に買っている。

8 23, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月22日

スペシャル・オリンピックス

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速さを競う、力を比べあう、運動能力の極限を極める、のもいいだろう。
しかし同じ「オリンピック」でもこれは違う。
「スペシャル・オリンピックス」は、1963年、J.F.ケネディ大統領の妹、ユニス・ケネディ・シュライバーが自宅の庭を、知的発達障害の人たちに開放して開いたデイキャンプが始まり。彼女は、知的障害があってもスポーツを心から楽しむチャンスが開かれるべきだという信念を持ち、68年には組織化されて「スペシャルオリンピックス」となり、現在では世界160の国や地域が加盟し、約100万名のアスリートとほぼ同数のボランティアの活動で4年に1度世界大会も催されている。
「オリンピックス」と複数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会にいたるまで、いつでも、どこかで、この活動が行われているからだ。
NPO法人 スペシャルオリンピックス日本


以下は「転載自由・歓迎」なので転載する。

数年前にシアトルで行われた、スペシャルオリンピックスでのこと
九人の選手たちが、100ヤード走のスタートラインに立った
選手は全員が心身障害者だ
号砲とともに、全員がスタート
全力疾走とはいかないものの、ともかくゴールを目指し
勝つために走ろうという意欲が感じられた

ところが、一人の少年がアスファルトにつまずき
二回も転んで泣き出した
残る八人は、少年の泣き声を聞くと
スピードをおとして振り返った
そして全員が向きを変えてコースを戻っていったのだ
八人の選手全員が・・・

一人のダウン症の少女は、かがんで少年にキスをし
「こうすると痛くなくなるわ」と言った
そして九人で腕を組んで、ゴールまで歩いた
競技場にいた人たち全員が立ち上がり
声援がしばらくの間やまなかった

そこに居合わせた人たちは、今でもこの話を口にする
なぜ?
なぜなら、心の奥深くで、だれもが次のことを知っているから

今、生で大切なのは、自分が勝つなどという小さな目標ではないこと
たとえそのために、自分のペースをおとし、進路を変えることになろうとも
他者の勝利を助けることこそが大切だということを・・・

もしあなたがこの話を転送してくださったら
私たちのハートが変わったように
新しい誰かのハートを変えることができるかもしれません

「ろうそくが別のろうそくに灯をうつしても何も減りはしない」

翻訳:乾 真由美
TUP-Bulletin12
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-bulletin/message/12

七つ森書館:『世界は変えられる』より

8 22, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

隠蔽されようとするナジャフ

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※写真はreporters without borders「国境なき記者団」より

日本の人々がアテネ・オリンピックの「メダルラッシュ」などにうつつをぬかしている間、イラク中部のシーア派の聖地ナジャフでは殺戮と抗戦が続いている。すでに米軍の空爆などによって1000人規模が殺されただろう。「もちろん亡くなった人たちはみな“反乱軍”と呼ばれている。テレビに映った、アバヤにくるまれて道路の上にごろりところがされた女性もその一味ということに違いない」(Baghdad Burning 8/7/Girl blog from Iraq)。
バグダッド在住の24歳イラク人女性のBlogによる発信は、2003年8月17日の始めから2004年5月22日までの分が翻訳刊行されている。『バグダッド・バーニングーイラク女性の占領下日記』
サドル派レジスタンスの戦士自体はもう数百人かもしれないが、米軍の封鎖を突破して数千人が人間の盾となるべくアリ廟に集まってきている。ファルージャの虐殺が再現されてしまうのだろうか。
『ファルージャ 2004年4月』(現代企画室)。

そしてここでも事実は隠蔽されようとしている。
ナジャフに滞在するジャーナリストたちは「暫定政権」配下のイラク警察によって銃によって脅され退去を迫られた。ロイター、APやアラブ諸国の記者たち(いうまでもないが日本のマスコミの記者などはいない。遠く離れたカイロあたりの空調のきいた部屋で「情報収集」し記事を送っているだけだ)は抵抗するが、ナジャフを離れなかった記者たちに対しては「ホテルを粉砕し、お前たちを皆殺しにし、出ようとするものがあれば狙撃手に狙わせる」と警部補が宣告する。
reporters without borders「国境なき記者団」によれば、イラク戦争開始以来38名のジャーナリストが殺されている。
さらに墓碑は増えるのだろうか。そして真実は伝えられるだろうか。

8 22, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月20日

山下惣一さんの「農」の提言

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山下惣一さんの本が立て続けに刊行されて読めるのはうれしい。
『ザマミロ!農は永遠なりだ』(家の光協会)『食べものはみんな生きていたー生きるということはほかのものの命をいただくこと』(講談社)『農から見た日本ーある農民作家の遺書』(清流出版)

山下惣一さんは1936年(昭和11年)生まれ。佐賀唐津市で中学卒業以来50年以上農業を営む。
かたわら文筆活動を続けてきた。『海鳴り』(70年・農民文学賞)『減反神社』(79年・地上文学賞・直木賞候補)『この大いなる残飯よ!』『タイの田舎から日本が見える』『産地直想』等々。

日本の農業は1960年頃を境に急激な「近代化」がはかられた。山下さんはそれ以前と以後の両方を体験してきている。
そしてこの「近代化」と「アメリカの小麦戦略」と呼ばれる農産物の輸入をはじめとする戦後の「食」の国策的な欧米化、そして近年のグローバリゼーションの結果、日本の「農」は今崩壊寸前にある。
1955年(昭和30年)に3戸に1戸だった農家は、今総世帯のたった4%に過ぎない。
食料自給率はカロリー換算で40%、飼料用を含む穀物の重量ベースでは28%にまで落ち込んだ。もちろん「先進国」中で飛び抜けて低い。
朝日新聞は先日の社説で「国際競争力を高めよ」などと相変わらず述べている。
「国土」の7割が山で、わずかな平野部と谷川沿いで営まれている日本の農業は、単一作物への特化(これは必然的に土壌の劣化をもたらす)やアメリカ的な大規模化をはかったりはできないし、またアジア等の数十倍の生活費用を要するところで直接的に国際競争力を強化するなどというのはまったくの幻想にすぎない。

「農」を工業と同列におき、生産性・効率・価格競争力・成長そして最終的に利潤で評価する市場原理がグローバリゼーションのひとつの基調である。
それは「競争」すれば世の中は良くなるというイデオロギーをまきちらしている。競争に負けるのは企業努力が足りない質の悪いものであり、経済競争によって優れたものだけが生き残り、世の中を豊かにするという「新自由主義(ネオリベラリズム)」だ(「社会ダーウィニズム」が再来している。これが個人に適用されると「勝ち組」「負け組」となる)。

「自由化でつぶれる農業ならつぶれても仕方がない」「農、工の単位面積あたりの生産性は工業の方が1500倍だ」「トヨタと日産の売上高の方が農業粗生産額より多い、限られた土地を農地にしておくのは不経済だ」等々の特に80年代以降の農業不経済論はいまだ続いている。
96年にベストセラーになった『勝てば官軍』(なんというタイトルだ)で日本マクドナルドの藤田社長は「農民も海外に出て行けばいいのだ」と言い放った。労賃の安いベトナムやタイでコシヒカリやササニシキを作り日本に輸入すればいいのだ、という。南米の熱帯雨林を焼き払って牧場化し肥え太った会社の社長ならではか。
野菜・果物の「開発輸入」という名の日本によるアジアの経済植民地化は急速に進行している。今や生鮮野菜の2割弱が日本の商社等の肝いりで中国等で日本向けに生産された輸入ものだ。

山下さんは、「身土不二(しんどふじ)」の思想を発展させたいと願っている。
もともとは仏教語で、人間と世の中は別々ではなく一体である、というような意味だったが、明治30年代に石塚左玄らが唱えた「食養道運動」のスローガンとして使われた。人間の体とそこの土は一体であるから、わが住む四里四方で採れた旬のものを正しく食すべし、とする考え方で東洋医学や有機農業をやっている人々の間で引き継がれてきた。
むろん輸送手段や冷凍冷蔵技術が発達しているから四里四方に限る必要はない。しかし燃料石油を大量消費しながら地球の裏側から金にあかせて運んでくるのはおかしい。
人の命と健康の源である食料は「地場地消」(その土地でとれた農産物をそこに住む人々が消費する)がもっとも望ましいだろう。そして人口密度の高い日本は生産地のすぐそばにたくさんの消費者がいるという有利な条件があるのだ。

山下さんは世界40ヶ国以上の農業を見、農民と交流してきている。
世界で8億人といわれる飢餓状態の人々のことも考える。
山下さんの結論は「農業は、それぞれの国や地域で可能なかぎり自給する、その方向でみんなが支援し協力していくというのが、地球上から飢餓をなくす唯一の正しい方向だ」「自由貿易をどんどんすすめていけば、飢餓はなくなるというのはウソだ。農産物の貿易は、あまっているところから不足しているところへ、ではなく、値段の安いところから高いところへしか行かない。だから、日本みたいな飽食の国がある一方で、飢餓の国があるわけだ」(『食べものはみんな生きていた』)。
グローバリゼーションはこの構造を固定し拡大再生産する。

「農の原理は循環であって成長ではありません。その母体である自然界がいささかも進歩発展しないためです。この大いなる循環の中に農も食も人々の暮らしの根本もあるのです。」
「持続的、永続的な農業と安全な食と健やかな暮らしを目指すとすれば…直線的に昔に帰ることではなく、現代の技術と知恵で原理原則を、決して行き詰まることのない循環に転換していくということです」(『農から見た日本』)

8 20, 2004 19.食と農、健康と病 | | コメント(0) | トラックバック(1)

2004年08月18日

アーニー・ディフランコの9.11

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私の好きなアメリカのシンガーソングライター、アーニー・ディフランコ(ani difranco)が、9.11後のアメリカを唄った「self evident(自明)」(アルバム「SO MUCH SHOUTING SO MUCH LAUGHTER」所収)がネットでも読んで聴ける。
「Righteious Babe Records」のなかのself evident

TUP(Transrators United for Peace=平和をめざす翻訳者たち)の池田真理さんが下記で日本語に訳している。
「アメリカ、インディーズの闘うヒロイン、アニ・ディフランコが歌う9月11日」

アーニー・ディフランコは1970年、ニューヨーク州バッファロー(エリー湖畔の商工業港湾都市・ナイアガラ観光の拠点でもある)に生まれ、9歳のころからギターを始め、14歳で曲を自作、バーやコーヒーハウスなどで歌う。15歳で家を出て自活。19歳のときには書いた持ち歌は100曲にのぼった。1990年、20歳のときニューヨークに移り最初の作品集のカセットを自作しつつライブ活動を行う。学生や若者たちに口コミで伝わり共感と支持を得ていく。

私にはフォークともファンクともジャズともクロスオーバーするアーニーの音楽を歴史的に位置づける力はない。
全部を聴いたわけでもなく詳細に検討したわけでもないが、彼女の唄はほとんどが「あなた」とのやりとりのスタイルをとる。そのなかで愛してはいながらの「あなた」への、「世界」への、今ある「自己」への違和感と決意が表明される。
世代は違うが、たとえば1968年に、カルチェラタンでバークレーでトーキョーで無数に繰り返された斜めに交差した恋人どうしの会話でもありうるかもしれないという想いがよぎる。

様々なプロモーターやメジャーレーベルも目を付けてアプローチしたが、アーニーは「自分のやりたいようにやる」という姿勢を貫き、全米各地を年200回に及ぶというロードを繰り返し、アルバム制作にも力を注ぐ。
今では「世界でもっとも成功したインディーズ・レーベル」と呼ばれ、「ニューズウィーク」誌の選ぶ「21世紀アメリカを動かす100人」のうちの1人に選ばれたほどだ。

しかし彼女はおそらくけっして「取り込まれない」だろう。

How can one talk on the role of politics in art
when art is activism
(もしアートが積極的な行動主義=現状改革への行動を意味するなら、アートにおける政治の役割=政治性をどのように語ることが可能だろうか)
とショートインタビューで述べている。彼女の中心的な関心はここにあるはずだ。

アーニー・ディフランコは、きわめて自覚的、思想的に「政治的」であり、「あなた」を撃つことによって権力を撃つ、「アメリカ帝国」にとって徹底して異物であり続けるだろう。

and, you know, they never really owned you
you just carried them around
and then one day you put'em down
and found your hands were free
(そうよ、彼らがあなたを思うようにしていたわけじゃない。あなたがやつらを連れ歩いていただけなのよ。ある日荷を下ろしてみたら、両手が自由に使えることにあなたは気付いたのよ)
ー"garden of simple"

8 18, 2004 13.音楽の楽しみ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月13日

かきや(鎌倉腰越)

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老母を連れて腰越(こしごえ)の満福寺に墓参りに行く。母は杖をついて脚をかばいながらなので普通の人の五分の一くらいの早さでしか歩けない。墓は階段の上にあるのだが、幸い最近昇降機が取り付けてある。

満福寺には義経の「腰越状」と伝えられるものがある。
鎌倉時代の公的記録である『吾妻鏡』に全文が載っている。真偽は定かでない。
宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平家との戦いで圧倒的な勝利を収めて鎌倉に凱旋しようとした義経は頼朝に鎌倉入りを拒まれる。鎌倉殿に断り無く官位(検非違使尉=判官)の授与を受けたこと、頼朝の目付役梶原景時の義経専横慢心の訴え、平家滅亡ののち頼朝に唯一従わない平泉の藤原秀衡を義経がパトロンとしていることなどが因とされる。
1185年5月、この腰越で義経は、自己の功績と頼朝への忠誠を切々と(というかくどくどと)書き連ね(弁慶に書かせたともいう)提出するが容れられない。追放となり刺者も差し向けられる。京に戻った義経は叛旗を上げる。しかしもともと奇襲ゲリラの軍事戦に長けてはいても「郎党」を持たず、組織や政治にはまったく疎い個人プレイヤーであった義経のもとに馳せ参ずる者はほとんどいない。頼朝はここぞとつけ込む。京に大軍を派遣し、義経を頼朝への牽制に利用した後白河法皇たちを脅しあげ、朝廷に対する武家のヘゲモニーを一気に握っていく。
義経が衣川館で自害して果てるまであと4年、頼朝の鎌倉幕府開設まで7年だった(NHK「その時歴史が動いた」風)。

鎌倉は海に面しているが、東から材木座、由比ガ浜、七里ヶ浜とずっと砂浜で港にできるところがない。由比ガ浜は遠浅で波風が高く難破する舟が多かったので、北条泰時の時代には飯島崎の海上に石を積み築港した(現在「和賀江島」として跡が残っている)。
唯一、鎌倉の西端の腰越(鎌倉時代、京ー鎌倉往還の最初の宿駅がおかれた)は、不動岬(こゆるぎさき)から江ノ島にかけての腰越ノ浦が漁港となっている。
鎌倉で地場の魚といえばこの腰越と小坪(逗子)で揚がるものだ。

腰越には地場の魚料理の旨い店がいくつかある。
フレンチ風に料理するレストラン「鱗亭(りんてい)」、古くからの網元が経営する「しらすや」、創業100年の食堂「かきや」、ちょっと中に入るが「貝魚亭」など。
「しらすや」は満員だったので「かきや」の開店を待つ。江ノ電が唯一路面を走る腰越ー江ノ島間の道路沿いだ。
母は「しらすかき揚げ天そば」私は「しらす三昧(静御前)」を頼む。
しらすのかき揚げはさくっと揚がっていて美味。釜上げしらす(沸騰した湯にくぐらせた後空気にさらすのでいわゆるシラス干しとは違う柔らかな食味となる)がふんだんに載ったそば、ショウガ醤油で食べる生しらす(海からあげた時点で冷水と塩で身をしめる)。生しらすは鮮度が命なのであまり流通はしない。生きてはいないが噛むと口の中ではねるようだ。

8 13, 2004 02.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | | コメント(1) | トラックバック(0)

2004年08月11日

鎌倉花火大会

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※写真はクリックすると拡大表示されます

8月の第2火曜(今年は10日)は鎌倉の花火大会だ(2001年までは10日固定だったが02年からこうなった)。
戦後それほど間もない1949年(昭和24年)が始まりという。
東京や横浜の大きな花火大会に比べると数は今年も2800発で規模は小さいし、時間も1時間15分ほどで短い。他のところのようにひっきりなしに打ち上げるとすぐ終わってしまうので、間合いが適度に置かれる。しかし合間には波の音が聞こえ潮風が心地いい。
いつものような南東からの海風が少し強めに吹き、煙の渋滞もない(無風だと煙のために後に続く花火の発色が冴えなくなる)。
鎌倉の花火の最大の見物は水中花火だ。材木座方面から由比ガ浜に移動する高速船から次々に海に投げ入れられて爆発し海面から半円(半球)状に吹き上がり拡がる。空からではなく海中を経て砂浜を埋めた二十数万人の身体にズンという振動と音が伝わる。
水中花火と打ち上げが乱舞競演するフィナーレにはいつも感動する。
一緒に見た友人や学生たち9名も堪能してくれたようで招いた甲斐があった。

私の好きな『鎌倉 海と山のある暮らし』(安西篤子・文/沢田重隆・絵/草思社)に「花火大会のあとは、みんななんとなく気の抜けた顔つきになる。楽しみにしていた今年の花火が終わったというだけではない。これで夏の盛りも過ぎようとしているという寂寥感が、胸にこみ上げてくる。」と記してある。同感だ。

8 11, 2004 06.私の好きな鎌倉の風景 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月10日

「民度」ということば

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私が管理する掲示板が荒らされている。
大学の学科のもので、学生、卒業生、教職員、そして広く市民と交流し、キャンパスライフの活性化と社会との結びつきを深める趣旨のものだ。
この掲示板は匿名投稿を認めていない。匿名投稿は内容の如何を問わず直ちに削除する。
発言に責任を持ってもらうためだ。

「民度」などという言葉が取りざたされている。
一般には「文化や生活の程度」のこととされ「民度が高い地方」とか「民度を上げるための教育」などと使われる。おそらく「中国」の古典・古語には由来しない和製のものだと思われる。それも、明治以降の中央集権化と統合のためにお上が使い始めた装置語ではないか。「大言海」には載っていないのでひょっとすると戦後のお役所ことばか。
どなたかご教示願いたい。
いずれにしても「文化程度の高いー低い」「生活程度の高いー低い」という「文明ー野蛮」に発する差別・抑圧イデオロギーをぷんぷんさせている語だ。
したがって当然「民度が低い」という侮蔑の文脈で使われることが多い。
発する側は優越感と自己満足にひたる。

ネットの匿名掲示板は品も論理もない嘲罵と排斥のことばでどこもあふれている。
日本人だけで騒いでいてもしょうがない、中国の掲示板に行って書き込もう、やってみたけれど面白いぜ、とけしかけるモノもいる。
なにしろ東京都知事が煽っているようなありさまなのだ。

在日「中国人」に対する悪罵もすさまじい。
これがネット上のことばだけではなく、実際のいやがらせ、生活面での不利益の押しつけ、法的な規制強化の要望などになるのは(もう進んでいるだろうが)ほんの一歩だろう。

そうするとき、この嫌な言葉を使うならば「日本人の民度」は限りなく下がるのだ。

8 10, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)

2004年08月07日

「ヒロシマ」の日に

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※写真は私の母が作ったテラコッタの人形。東京大空襲で逃げまどう本人と妹を表現している。クリックすると拡大表示されます

核兵器が究極の無差別攻撃兵器であることはいうまでもない。

第一次世界大戦(1914-18)までは、飛行船ツェッペリンによるロンドン空襲がなされたとはいえ、戦争は陸・海軍の兵員どうしの戦闘が主だった。その後の航空機の飛躍的な進展によって、第二次世界大戦(1939-45)では大規模な「空襲(Air Raid)」が常態化した。
1940年、ドイツが英国の都市に対して焼夷弾を用い、きわめて有効であることが証明されると連合国側もそれに倣った。死傷する人間が誰であろうとかまわない、「都市全体を焼き払う」という戦争形態の誕生だ。ドイツの古く美しい都市は徹底的に破壊された。投下された爆弾量は対日本の9倍にあたる。

日本への空襲は、北海道から沖縄まで163都市に及ぶ。焼夷弾はドイツでは5割だったが、対日本では8割が使われた。石と煉瓦の家に比べて木と紙の日本家屋に有効だったからだ。そして「ヒロシマ」「ナガサキ」。

非戦闘員を区別しない戦争は「朝鮮戦争」そして「インドシナ」ー「ベトナム戦争」へと引き継がれた。焼夷弾とは比較にならない威力を持つナパーム弾が村をそして森を焼き払った。

第一次湾岸戦争(1991年)頃から、アメリカは軍事目標だけを叩いているのだと強調し出した。ゲームのようなピンポイント爆撃をTVで見せ、「クリーンな戦争」を印象づけようとした。そんなわけがないことは誰でも知っている。

そしてアメリカは今、戦術核の開発を再開した。
核は単なる「大きな爆弾」ではない。人類が制御などできないことがあきらかなものなのだ。イラク戦争でアメリカが使用した核の変種「劣化ウラン」弾の影響はイラクの人々だけではなく米軍自身、そしておそらくJapanese Armyにも及ぶだろう。

戦術核が使用される対象地域の「限定的な範囲」にどれだけの人々とその生の営みが行われているかについて、できるかぎり想像力をめぐらせ続けたい。

8 7, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(1) | トラックバック(1)

2004年08月06日

シー・キャッスル(鎌倉長谷)

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※写真はクリックすると拡大表示されます

きのうあまり食べなかったので、きょうの遅いブランチは家のそばのドイツ家庭料理の店「シー・キャッスル(Sea Catsle)」で、スモークローストポーク。
ベルリン出身のドイツ人夫婦が1957年(昭和32年)に開業した、鎌倉のレストランでも老舗だ。以来「ドイツ人の作るドイツ料理」をサーブしつづけている。
ドイツの街道沿いのレストランといった感じの内装。窓の外はすぐ由比ガ浜。きょうは適度の波のようだ。
本場黒ビール「ケストリッツァー・シュベルツビアー」(旧東ドイツの名門醸造所産)とともに、ポーク、ポテト、ザウアークラウト、黒パンをゆっくり味わう。
開業の頃はどうだったか、と聞くと、その頃の人々はみな明かるかった、今はカップルでも表情が暗い、とマダムは言う。
なぜ日本に来たのかと尋ねると、どうしてそんなことを聞くのだ、と聞き返される。単に好奇心だと言うと「Curiosity killed the cat(好奇心はネコをも殺した。せんさく好きは身を滅ぼす)」とかわされる。
まあいずれ”Long Story”を聞くこともできるだろう。

8 6, 2004 03.私の好きな鎌倉の店・洋食 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月05日

「おばあちゃんの家」(イ・ジョンヒャン/韓国/2002)

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※写真はクリックすると拡大表示されます

『おばあちゃんの家』(イ・ジョンヒャン/韓国/2002)を衛星TVで観る。

ソウルで働く母親(とうに夫あるいは男とは別れている)が、職探しの期間、7歳の息子を山村に一人で住む老母のもとに預ける。その2ヶ月の間の老母(少年にとっては祖母)と少年の話だ。
バスが一日たぶん二、三回しか行かないひなびた山村(韓国中部の忠清北道・永同=ヨンドンが実際の舞台だという)。
おばあちゃんは口がきけず、また多少は読めるのかもしれないが、ハングルを書くこともできない。わずかな野菜を作り、ときに町の市場で売って暮らしている。
都会育ちの少年は、おばあちゃんを馬鹿にし、なにもない田舎の生活を嫌い、ゲーム機に遊びふけり、部屋に入ってくる虫におびえ、祖母が工面して作った鶏肉をケンタッキーチキンじゃないとだだをこねる。
このあたりは日本でもまったく同じだろう。
おばあちゃんは少年のわがままにまったく厭な顔をせず、ひたすら少年のために自分のできることをする。少しずつ少年の心が開いていく。

出演者は、数本のCM出演経験はある少年サンウ役(ユ・スンホ)を除いて、すべてこの山村の住民だそうだ。
このおばあちゃん(キム・ウルブン=当時77歳)が実にすばらしい。
彼女は映画に出たことはおろか、映画を観たこともないという。
「演技」ということも知らない。生活がそのまま撮られ演技となっているかのようだ。
「亡くなったおばあちゃんの深い愛情に感謝する作品をずっと撮りたかった」という女性監督イ・ジョンヒャンが彼女を運命的に見出したとき「世界のすべてのおばあちゃんたちに捧げる」この作品の成功は保証された。
映画史上「老婆・おばあちゃん」ベストテンをやったら必ずノミネートされるだろう。

母のもとに帰っていく少年がおばあちゃんのために書いた絵入りのハングルカード(ちょっとした手紙書き方指南)が感動的だ。

8 5, 2004 12.写真・映像・映画・演劇 | | コメント(1) | トラックバック(0)

サンマリオHOTTA(鎌倉長谷)

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ミックにワクチンを打ってもらうために由比ガ浜を歩いていたら、老夫婦にこのへんでシラス料理のおいしいところをご存知でしょうかと聞かれたので、腰越にはもちろんありますがこの辺だったら「サンマリオ」がいいでしょうと答えた。
で、自分も食べたくなって後で「サンマリオHOTTA」に行く。
ハワイアン風というのか、気の置けないレストランだ。
夜も地元の人でにぎわう。

「江ノ島沖シラスのピラフ」を食べる。
他に「釜揚げシラスのサラダ」やスパゲッティなどオリジナルな料理が豊富。

テニス帰りの奥様たち6名が隣に来る。
各人がそれぞれ他の人へしゃべりかけたり、個人的な感想を述べたりというのが瞬時の合間無く続くので、横で聞いていると6名なのに少なくとも10名はいるような感じだ。
コーヒーをゆっくり飲もうと思っていたがやめて出る。

8 5, 2004 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年08月03日

強者と弱者—それを超えるものへ/高山広「ねずぶり」

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一人芝居のライター・ディレクト・ライター高山広さんの「ねずぶり」を観る(8月1日目黒区区民センターホール)。
8年前に作られ演じ続けられ練り上げられてきたこの作品は高山さんの代表作のひとつでもある。
観るのは昨年の王子小劇場に続いて2回目だ。

人間という権力者から忌み嫌われ、捕われれば熱湯をかけられ無惨に殺されるねずみと、さらに力弱いごきぶりという存在に託して現代社会の問題があぶり出される。
人間に惨殺された友の姿に怒ったねずみは、自分よりさらなる弱者であるごきぶりを見い出し、いたぶることによって満足を得ようとする。
報復の連鎖を自分のところで止めることを母から教えこまれているごきぶりは無抵抗だ。
だがねずみ取りにかかり動けなくなったねずみに対して、ごきぶりは今までの鬱積した怒りを爆発させる。
体力でダメージを与えられないとみると、ことばによるイメージ喚起という暴力で報復する。
しかし、絶望と目前の死にひんしたねずみが発する「おかあちゃーん」という叫びと「誰も悪くない」と言って死んでいった彼女の様を耳にしてごきぶりは自分の愚かしさを悟っていく。
外部のモノ、異質な存在を、遠ざけ嫌悪し排除し、知ろうとしない、気づこうとしない、理解しようとしない偏狭さと閉鎖性、無知と怠惰こそ克服さるべきことなのだ。
それぞれの群れの中のたった1匹ずつの相互理解にすぎないかもしれない。しかも双方ともすぐ死んでいく運命にある。
けれど、これが始まりになるかもしれないのだ。

このように記すとシリアス一辺倒の芝居のように思われるかもしれないが、さまざまな表現とせりふの中に遊びと笑いが仕込まれている。
いろいろな想いを想起させ、目まぐるしく思考させ、笑わせられ、そして涙する。

2時間半の間、高山広さんはさまざまなキャラクターの姿を瞬時に現出させ、目まぐるしく身体表現し言葉を発し続ける。「ねずぶり」の1回の上演で3Kg減るというのも分かる。

只野展也さんの音楽と演奏はせりふの間に忍びこむように寄り添い息づく。友の死に嘆き怒る無言の慟哭、叫びとの対比とラストは圧巻だ。

オーラスの「一人で表現する」圧倒的な連帯感に拍手を贈る。

私がジャケットデザインを担当したCD『高山広のキクっ!おキモチ大図鑑Vol.1』も当日から発売開始された。

8 3, 2004 12.写真・映像・映画・演劇 | | コメント(0) | トラックバック(0)