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2004年07月30日

憂鬱な季節

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また「ガンバレ、ニッポン!」と「感動をありがとう!」の憂鬱な季節が始まる。
消しゴム版画家・エッセイストだった故ナンシー関は、オリンピックやW杯に対する人々の態度に対して、繰り返し「怖いです。気味悪いっす」と表明していた。
なにが怖く、気味悪かったのか。
TVであれ実際のイベントであれ、与えられた(そう「与えられた」のだ)ものを疑いなしで受容し、熱中し、「束ねられ」、そうでない(参加しない、中継を見ない、応援しない等々の)人々は排除・異端視されるあり方だろう。

「純粋にスポーツを楽しんで何が悪い」というか?
「純粋」ならなぜ「国」ごとに分かれて競うのだ?選手やチームはなぜ「国」や「国民」を「代表」するというスタイルをとるのか?

「近代オリンピック」は古典的な帝国主義時代の「国家間戦争の代替物」でもあった。
近代「国民国家」の枠組みは黄昏とはいえまだ崩れてはいない。
「近代スポーツ」とそのイベントはそもそもの成り立ちからして「政治とは無縁」などではまったくなく「切り離して」考えることはできない。

7 30, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月28日

一番明るくうるさい国

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宇宙から夜の地球を見ると、一番明るいところは日本だそうだ。もちろんニューヨークもロスアンゼルスも明るい。ただそれは広大な大地のなかの点にすぎない。日本は日本列島の地図通りの形で明るいのだ。
地球を攻めようという意志を持った宇宙人が「明るさ」を基準に攻撃目標を定めるならば、第一目標は日本に間違いない。
谷崎潤一郎が「先年、武林無想庵が巴里から帰つて来ての話に、欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい。…恐らく世界ぢゆうで電燈を贅沢に使っている国は、亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だと云ふことであった」と『陰翳礼讃』に記したのは1933年(昭和8年)だった。ガス燈に驚き欧米諸国は「明るい」ものだと認識した文明開化日本はわずか六十余年ほどでヨーロッパ諸国を凌ぐ「明るい」エネルギー浪費国になったのだ。

そして宇宙から地球を「聴いて」みると、一番「うるさい」ところも日本に間違いない。
地球を攻めようという意志を持った宇宙人が「音を一番発している」ことを基準に攻撃目標を定めるならば、これも第一目標は日本だろう。
あらゆる駅、電車内、街中、銀行、エスカレーター、観光地等々は人工的なスピーカー騒音で満ちあふれている。田舎へ行けばいい?とんでもない。そこには超横綱級の「防災無線」がある。
驚くべきことにそれらのほとんどは「実効を期待しない」ものなのだ。
人々には「聞こえて」はいるが「聞いて」はいない。
そして誰も騒音に対して文句は言わない。それどころかしばしば「もっと注意してくれ」とクレーム(要望)をつけさえする。
唐突に思えるかもしれないが、こういう事態を招いている根底に「優しさ」「思いやり」「気遣い」という「暴力」が横たわっており、「管理されたがる」怠惰があり、音を発することをめぐる権力構造がある(パブリックな音は許容する、プライベートな音は拒絶する)。
これについてはまた記したい。

現代の日本人の「からだ」はこの「明るさ」と「人工騒音」に徹底的に慣らされてしまっている。

『夜は暗くてはいけないかー暗さの文化論』乾正雄(朝日選書)
『うるさい日本の私』中島義道(新潮文庫)

7 28, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月26日

Mic(ビーグルの子犬)が家族の一員となる

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ブリーダーの元で52日間生育したビーグル犬の子犬(Micと名付けた)を引き取りに行く。
2時間半の電車行で、クィーンクィーン鳴いたのはほんの一時だけで無事我が家に到着した。
さっそくリビング、キッチン、玄関を探検している。人間でいえば3歳児くらいの歩き方だが、ときどき飛び上がったり、駆け出したりする。8cmほどの玄関の段差ではみごとにこける。あちこちで小便をするが、トイレ容器に小便をすりつけて連れて行く。少しずつ躾るほかない。

写真は、WOWOWの特別ドラマ「4TEEN」(石田衣良・原作)を見にきていた息子の足元で遊び疲れてそろそろ眠くなってきたMic。

私の部屋に用意したケージに入れたが、いつまでも騒いでだめ。
出してやると夜中にまたひとしきり遊びまわっている。
私と同じ夜行性の犬になるかもしれない。
けっきょくリビングで夜通し仕事をしている私の足下にバスタオルを用意してやると安心したのかそこで眠り込んでしまった。

7 26, 2004 24.犬と暮らす | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月23日

「人名用漢字」

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法務大臣の諮問機関が「人名用漢字」を追加する案を出し「広く国民の皆様からの御意見を募集」したところ、計1308通の意見が寄せられ、「名前にふさわしくない」と一部削除を求める意見が「729通も」あり、諮問機関はそれを受けて数十字を削除する方針だ、という新聞記事が出ていた。
「日本国民」は1億2千万人いる。729通「も」というのはいったいなにを根拠にした表現だ?。
法務省のサイトではメールでも意見を受け付けていた。これくらいの数なら私ひとりでもメールできる。

もともとこの「見直し案」は「使用頻度や平易さだけを基準として」機械的に抽出した漢字で「人名としてのふさわしさ」などという判断は初めからしていないものであることを表明していた。
繰り返すが「人名として使え」などとはいささかも言っていない。

敗戦後の1946年(昭和21年)、日本政府は「当用漢字」というものを定めた(のちに「常用漢字」)。この頃の「国語」政策の基本は、漢字はいずれ全廃させるが、一気にそうするわけにもいかないので「当」面、使「用」してよい「漢字」の範囲をお上が定める、ということである。
その後、当用漢字では名付ける(戸籍として受け付けられる)上であまりに少なすぎるということで「人名用漢字」というものが追加された。
この際はおそらく「人名としてふさわしいかどうか」という判断基準を働かせていただろう。
今回の見直し案は、もうその判断はしません(放棄します)という表明でもある。
戦後の日本国家の「国語」政策破綻のひとつの顕れとみることもできる。

にもかかわらず「国民」は「支配されたがる」。
こんな漢字(糞・屍・呪・癌・姦・淫・怨・妾・娼…)は国家(たかが法務省だが)が定める「人名用漢字」からは削除してほしいとお上に「要望」するのだ(それが「国民の権利」であり「民主主義」だと思っている)。
削除を求める「国民の意見」の内容は「縁起が悪い」「不潔」「卑猥」「否定的」「非常識」「公序良俗に反する」「子どもの不利益、社会的混乱をもたらす」等々だという。

世界では、魔物や災い病いなどを遠ざけることを願って、「糞まみれ」「森の魔物」「名無し」「誰でもない」などという意味の名を付けることはいくらでもある。

「日本国民」の差別・異物排除意識、異常な「清潔」指向、対話をしない対立回避、言葉狩りによる現実の隠蔽等々の性向が如実に表われている。

国家が個人の名前に指図する、というのは近代「国民国家」としてはフランスが始めたことだろう。
1804年の「ナポレオン法典」で「氏」の創設を定めただけでなく、約500の名をあげ、それ以外を原則として付けてはいけないということにした(今手元に無いが「新スタンダード仏和辞典」の巻末付録にその一覧表が載っていた)。

革命当時「フランス」とされる「領土」に住む人々の半分は「フランス語」を解さなかった。
中央集権「国民国家」は「国民」がさまざまな方言やエスニック言語を捨て、国家が定めた言語に同化させることを強制する。そして、広範に通用する(有用である)ということと言語としての優劣などは無関係であるにもかかわらず、発達した文明の言語と遅れた未開の言語という観念とセットにしてそれを押しつけた。
同時に「そうした良い言語で付けられた名前こそ良い名前である」という基準を設けた。
数百万のイスラム教徒、60万のユダヤ人等々を「国民」として抱える現在のフランスでどれほどこれが踏襲され、どれほど緩和されているのかどなたかご存知だったらご教示いただきたい。

フランスをまねて近代化をはかった国々は、しかし個人の名まではそれほど規制はしなかったところが多い。
産まれてきた子にできるだけ独自な固有な名を自由に付けたいと願う親の希望は一般的には強いだろう(世界にはそうでない場合もあるが)。
しかし、たとえばアメリカへの移民たちは、入国管理官によって、かなり恣意的に固有の名を英語表記の名に改変された。
住まねばならない社会に受け入れられるために改名した人々は世界の歴史のなかで枚挙にいとまない。

子の「名付け」においても人々はそれほど「自由」にふるまってはいない。
なにかにあやかったり、記念したり、流行に左右されたり、暗黙の社会的圧力を避けたりする。

日本でも古代では漢風の名にあこがれ、明治近代では、茉莉(まり)杏奴(あんぬ)路易(るい)などというヨーロッパの名を洋行紳士が好んで子女に付けた。昭和になれば「和」を取り入れ、戦時中は軍国主義にちなみ、戦後は人気タレントやスポーツ選手にあやかる。

たとえそうであっても、国家が子の名付けを管理・差配する、などということには徹底的に抵抗しなければならない。

「中国」の「内モンゴル」地帯では「経済発展」のなかでモンゴル人は従来の遊牧生活を破壊されて貧民化しつつある。子どもたちはモンゴル語を学ぶことをやめ、漢語の生活に乗り換えていく。
ある人が産まれてきた息子に「ボール」と名を付けた。モンゴル語で「奴隷」という意味だ。この父親は、息子に、お前が成人する頃には、われわれの言葉を捨て漢族の奴隷になるのだ、と怒りを込めてこの名を贈ったのだそうだ。だがこの名は「中国」では立派な漢字で表記されるのでモンゴル語を知らない者にはその意味は悟られない。

「奴隷」くんはもはやみじめな子ではない。それどころか逆に奴隷の名をひっさげながら、奴隷状態と闘うべく運命づけられた英雄的な息子へと祝福されたのである(田中克彦「名前と人間」岩波新書)。

7 23, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | | コメント(1) | トラックバック(0)

大理石のテーブル

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大理石のテーブルが届いた。天板が120cmx60cmほど、下部は四角形でいずれもずっしりたものだ。買ったわけではない(買えるはずがない。とても高価だ)。もともとセレブリティが所有していたものだが、故あって、飲み仲間から引越祝いにプレゼントされた。
庭の真ん中に置く(えらそうに言うけれどわずか10畳ほどだ)。
夜8時過ぎに届いたので、オイルランプを置いて灯してみた。
右手前がSteltonのシンプルなもの、真ん中はE.Thomas&WilliamsのGalleyLamp Round-Core、左奥は日本のムラエのもの。
大理石の表面は、実に滑らかに磨き上げられ、乳白色の地にグレーとサーモンピンクが鮮やかな縞模様を織りなしとても美しい。

7 23, 2004 16.都市・住い・インテリア・暮らし | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月22日

『グリーンフィンガーズ(Greenfingers)』

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同僚の先生にだいぶ前に借りたDVDをようやく観た。
『グリーンフィンガーズ(Greenfingers)』(2000/英・米/監督ジョエル・ハーシュマン)。
Greenfingersとは「天才庭師」のことだ。

英国の代表的な田園地帯コッツウォルズにあるオープンな更正刑務所に送られてきた主人公のコリン(クライブ・オーウェン)は、実の弟を殺した自分を責め、他人に心を閉ざし、人生を放棄している。
目つきや態度がまるで若い頃の高倉健のようだ。

たまたま同室の老人ファーガス(デビット・ケリー)からクリスマスパーティーでもらったニオイスミレの種を「どうせ時間のムダだ。この寒さじゃ見込み無しさ」と言いながら痩せこけた土に蒔く。老人は「わしもそう言われた。でもそうじゃなかった。わしは人生を変えた」という。
春になって、ニオイスミレは芽吹きみごとに花を咲かせる。

この花をめぐる騒動から刑務所長は所内に庭園を造るよう粋な命を下す。
殺人や強盗の罪を負うコリンたちは徐々にガーデニングにのめりこんでいき、変わっていく。
出所の審査会でコリンは言う。
「命を奪うことの意味を俺は知っている。だが、命を与え育てることを知った。…俺は庭師だ」

そして、王立園芸協会が主催するヨーロッパ最大の花と庭園のショー「ハンプトン・コート・パレス・フラワーショー」に囚人たちのチームが出展することになる。
この「野草の庭」が素晴らしい。

英国が舞台とはいえ、ハリウッド的な味付けの軽いコメディだが、庭をどうしようかと思案している私にはとても楽しめた。

実話をヒントにしているという。英国では囚人たちの庭造りとコンテストへの応募、入賞が盛んなようだ。

7 22, 2004 12.写真・映像・映画・演劇 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月20日

この犬と暮らす

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都心は39.5℃という猛暑のなか、往復5時間ほどかけて、埼玉のブリーダーのところへ行く。
これから飼うことになるビーグル犬(Micと名付けた)と忙しくてはたせなかった初めての対面をする。
生後47日目。体長は20cm、体重1Kgぐらいか。両手にすっぽりおさまる。
抱き方を教わる。
左手で腹を押さえ、人差し指は右前脚の前に出して支える。右手で後ろ脚をぎゅっとすぼめるようにつかむ。それでおとなしく抱かれる。
歩く様は「よちよち歩き」よりかは少しマシだが、やはり幼児歩き。抱くとペロペロ顔を舐める。
生後28日目の写真では、眼はなにか青っぽい膜がはったような感じ(紫外線を防御しているらしい)だったが、今はビーグルらしい黒々とした眼になってきている。30cmくらいのところはしっかり見られるようだ。

25日(日)に引き取ることにする。
この子抜きでは成り立たない生活が始まる。

私の大好きな写真集に、エリオット・アーウィット「我々は犬である」がある。
1953年、25歳の若さでロバート・キャパに推薦されマグナム・フォトにも参加した写真家による。

なかでも私が好きなのは1977年、ニューヨークのたぶんセントラルパークで撮られた写真だ。
公園のベンチに座る男を後ろから撮っている。男はおそらくいろいろな想念をかかえつつ、公園の緑を見つめている。
そして同じベンチのすぐ隣の座に、男とまったく同じように犬が座り、同じ方向を見つめている。

こんな関係をMicと持ちたいと思う。

7 20, 2004 24.犬と暮らす | | コメント(2) | トラックバック(0)

2004年07月19日

桜蔭「女」vs. 開成「男」?

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AERAはふだんは買わないが、上記のタイトルがトップ記事(カテゴリー「人生」)として出ていたので思わずコンビニで買ってしまった(私も開成中学・高校出身で、在学中には桜蔭に通う”ガールフレンド”が一時いたこともある。卒業ははるか38年前のことだが)。

桜蔭と開成の92年卒業生各21名(73年度生まれ・現30-31歳・21名というのは両校とも同学年の1割以下の数)からアンケートを回収し、そこをたどって市場調査会社の起業女性、アメリカに留学を決めた女性弁護士、英会話スクール起業者、区議会議員など(まあいわゆる「勝ち組」なんでしょうね)を適当に紹介しながら、当時は「常識でしばられていた」「等質は適応力を欠く」などこれも適当に問題点をあげながら、けっきょく両校の卒業生は「資格職種や研究職が目立つ。年収は600万〜800万が最多。結婚率も公私の満足度も高く”高め安定”の生活がのぞく」と「分析」し、「成績の良い子が両校に集中し、東大に進み、また成績の良い子が集中。純化、均質化が進む循環」を少し嘆くようなポーズをとる(どこの「国」だってエリート校はそういうものだ)。

「卒業13年目アンケートで浮かぶキーワード」というのがサブタイトルだが、そもそもなにがキーワードなのか(小見出しはまったくキーワードとなっていない)、それがわれわれにとって、またこれからの社会にとってどういう意味を持つのかさっぱり分からない。
この記事はいったい誰に向けてのなんのための記事なんだ?

ジャーナリズムは、エリート・勝ち組意識をくすぐる、あるいはあこがれさせる、日本社会のなんの問題点もえぐらないこんな愚にも付かない記事(トップ記事!)の制作に精力を注ぐ前に、たとえば「言ってもしかたない」「どうせそんなことを言っても努力しろと言われるだけ」ということを繰り返し経験させられることを通じての「偏差値の低い者から”言葉を奪う”社会」『<対話>のない社会—思いやりと優しさが圧殺するもの』(中島義道/PHP親書)についてじっくり調査分析報道すべきではないのか。

7 19, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(1) | トラックバック(0)

2004年07月16日

「十代で死んだ人々」(「人間臨終図巻」)

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高校3年の息子(同じ鎌倉長谷に住んでいる)が18歳になった。

法律上は「児童福祉法」から外れる。つまり「児童」ではなくなる。
ネットでのおなじみ「あなたは18歳以上ですか?」にも堂々と「はい」と答えられる。
電話すると、今度パチンコに行ってみようかと思う、などと屈託がない。

これからいろいろな経験をするだろう。

直接関係はないのだが、なぜかたまたま目をやった本棚の山田風太郎「人間臨終図巻Ⅰ」を手に取る。

人生で唯一「経験」とすることができないのが死だ。

十代、二十代はくくられているが、30歳以降は1歳ごとに121歳まで、たとえば「35歳で死んだ人々」ーモーツァルト・ダントン・鼠小僧次郎吉・孝明天皇・佐々木只三郎・正岡子規・芥川龍之介・牧逸馬、などと色々な人々の人生と臨終について記されている。
「十代で死んだ人々」の項をめくる。

大石主税(ちから)/1688-1703/享年15歳
討ち入り後、別れて預けられるとき、父内蔵助が「かねがね申し聞かせてあるようにいたせ」というと「父上、ご心配なく」と答えた。切腹の場で検使が「内蔵助に会いとうはないか」ときいたところ、主税は首をかしげ、すずしくほほえんで「お言葉で思い出しました」と言った。「万人が知っている名のうち、みずから意志して死の道を選んだ最年少の人間はこの大石主税であろう」。

アンネ/1929-1945/享年16歳
1942年、ナチスのユダヤ人迫害をのがれ、アンネ・フランクの一家はアムステルダムの隠れ家に潜んだ。アンネはその間、後年『アンネの日記』として知られるようになる日記を書きつづる。2年後、一家は発見され収容所へ送られた。チフスにかかった姉マルゴットはベッドから床に落ち、すでに衰弱しきっていた彼女はショックのため死ぬ。同じくチフスにかかっていたアンネの気力が挫ける。「お父さんもお母さんももう死んでいるにちがいないし、これでわたしは家に帰る目的がなくなったわ」。数日後、連合軍がすでにフランクフルトまで入っていた1945年3月はじめのある日、アンネは蝋燭の灯の消えるように、しずかに息をひきとった。

天草四郎/1621-1638/享年17歳
1637年(寛永14年)、重税とかつてのキリシタン信仰の中心地であるがゆえの苛政、弾圧に対して島原・天草の農民たちは百姓一揆を起こすにいたる。幕府軍12万4千の軍勢をもってしても、一揆軍の立てこもった原城を陥れるのに足かけ5ヶ月を要した。「痩せ衰えた百姓軍がこれほど驚くべき抵抗を示した原動力の一つは、切支丹信仰と、その首領であり、シンボルである天草四郎時貞という少年への信仰のゆえであった」。
四郎は9歳から手習いを始め、長崎にも学問に通ったという。
一揆を指導した庄屋層や牢人たちは、広範な農民を生死を顧みぬ一揆に組織する上で四郎を救世主として演出した。彼が軍事的指導をしたとは考えられない。
一揆軍は文字通り皆殺しにされ、幕府は一揆方の記録をすべて抹殺したが、天草四郎の名は「伝説の世界の妖星のような印象を残した」。

山口二矢(おとや)/1943-1960/享年17歳
1959年16歳のとき、赤尾敏の大日本愛国党に入党。社会党委員長浅沼稲次郎が中国で「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」と演説したのを中国に媚びたものと憤激し、60年10月12日、日比谷公会堂での立会い演説会で演説中の浅沼を、短刀で一閃のもとに刺殺した。
11月2日、練馬の少年鑑別所に移された夜、シーツを裂いて縄とし、天井の裸電球をつつむ金網にかけ、ベッドの上に寝具を積んで、これを踏台として縊死した。
コンクリートの壁に、粉歯磨を水でとき、指を筆にして書いた「七生報国 天皇陛下万歳」という文字が残されていた。「彼は戦争中の少年が、十五年を経て不死鳥のごとくよみがえったかのような少年であった」。

ジャンヌ・ダルク/1412-1431/享年19歳
当時の英仏(むろんいまの「英仏」国家ではない)を中心としたヨーロッパ諸勢力の抗争「百年戦争」の後期、神託を受けたと信じた16歳の少女は白馬にまたがって「フランス」軍の陣頭に立ってオルレアンを「英」軍から奪還する。翌年捕まり宗教裁判にかけられ、「虚言者、偶像崇拝、残虐淫乱、悪魔の祈祷師、背教、異端の徒」等々ありとあらゆる「罪」をきせられ(「ルーアンの審決」)群衆の見守る中、火あぶりの刑に処された。
ローマ教皇庁はこの審決を21世紀になっても取り消していない。それでいて、教皇庁は1920年ジャンヌを「聖女」に列した。
従来の19世紀フランスナショナリズムに基づくジャンヌ・ダルク像は今後根底から再検証されるだろう。

7 16, 2004 14.読書三昧 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月14日

「外国語」とコミュニケーション(おまけ)

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「外国人」とのコミュニケーションに関して、実にファニーなエピソードを紹介しよう。
当時なにかの雑誌で読んだが手元には残っていないので、「ナショナリズムの克服」の森巣博氏の記述をもとに再現する。

2000年7月、「先進国サミット」が沖縄名護の万国津梁館で開かれ、当時の森喜朗日本国総理大臣が、クリントン米大統領と会ったときのことだ。

森の英語力は知らない。一応早稲田大学を出ているのだが、どうやって入学できたのかも問題視されたことのある人物である。同じ年の5月に「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」とスピーチして批判を受けた。ちなみに「蚤の心臓、鮫の脳みそ」とも評されていた。蚤も鮫も怒るだろう。

緊密な関係を誇る日米同盟の首脳どうしとはいえ、初めて会うときは「やあやあ」「初めまして」程度の挨拶をかわしてTVカメラ用に握手し、それがニュース映像として繰り返し垂れ流されるわけだから、通訳が横にべったりはりついていたりしたら「親密度」の演出・PRにとって都合が悪い。
で、秘書官あたりが森に、挨拶のことばなどは決まり文句だから、相手(クリントン)がしゃべることが分からなくともこのように応対すればよろしいのです、と小知恵を付ける。

森が呼びかける。
「ミスター・プレジデント、ハウ・アー・ユー?」
ところが「How」の発音がお粗末なため、クリントンには「Who are you?」(お前は誰だ?)と聞こえたらしい。
欧米の政治家は概して日本の政治家よりずっとユーモア感覚と言語能力を持っている。
「I'm fine thank you, and you?」というかわりにクリントンは答えた。

「I'm Hilary's husband」(私はヒラリーの夫である)

森は秘書官から教え込まれた通り、すかさず相づちを打った。
「Me too!」(私もだ!)

ブッシュの地元テキサスの酒場で同じことを言ったら即座に殴り倒されるか、下手をすると撃ち殺されるだろう。

上記のエピソードは日本の大新聞、TVではいっさい報道されなかったが、英語圏のメディアでは流され、おそらく世界中の失笑、嘲笑を浴びた(こういうときのために「国辱」などという言葉が造られたのではないですかね)。
当時の安倍晋三官房副長官はやっきになって否定したが、そのマジさかげんが逆にこの挿話の真実味を感じさせた。

森の英語力を嗤っているのではない。
コミュニケートしようとする意志の欠如が問題なのだ。

その後の通訳を介しての「首脳会談」が「対話」(dialogue)や「討論」(discussion)となった可能性は限りなく小さい。

7 14, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | | コメント(1) | トラックバック(0)

括弧付きにせざるをえない理由

ちょっと注釈しておきます。
私の書く文章には括弧(「」)が多い。
単に強調するためのものもあるが、大部分の括弧付きのことば・概念・国名等は、すべて「疑念」を付けているのです。
「国家」「国民」「国語」はもちろん「民族」「人種」や「進歩」「進化」「文明」「文化」「伝統」、「日本固有の」「日本人」、「中国」「中国語」等々。

これらの概念・観念・ことばが、いかに植民地主義的・帝国主義的近代西欧が差別・抑圧を背景として産み出したものであるか、またそれを「日本」で縮小再生産されたものであるか、世界的な思想潮流をみれば、60年代以降徹底的に批判され解体されています。
日本の大部分の人々はこれらの思想的営為をまったくといってよいほど知らされず、夜郎自大な風潮のもとで21世紀に入ってしまいました。
これらの概念やことばを、日本の世の中の今の「常識」通りに、無条件で使うことなどはとてもできない。
それで、説明不足は重々承知しながら、私の文章中では括弧付きで使っているのです。

「中国」「中国語」はちょっと違う問題なので、これも別の機会に述べますが、結論だけいうと、「中国」とか「中国語」というものは”無い”。日本人が勝手に想定し、そう名付けて呼んでいるだけのもの。
もっともアメリカ人も「Chinese」という言語があると単純に思ったので、以前ちょっと触れたApple社のMacOS「Chinese Talk」などという命名がなされたわけですが。

時間がないので、少しずつになりますが記していきます。興味がある方はどうぞおつきあいください。

7 14, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

「外国語」とコミュニケーション

私の大学で、来年度から「外国語」が「必修」から「選択」に変わることになりそうだ。
別に「外国語」を軽視しているわけではない。単にカリキュラム上の問題だ。
志のある学生はそんなことに関係なく必要な研鑽をつめばいい。
ついでながら「外国語」は「外国・語」だろうか、「外・国語」だろうか?

言語の異なる人々とコミュニケートする、ということは、知っている単語や言い回しの知識の量などが一番の問題ではない。
伝えてコミュニケートしたい「内容」を自分が持っているかどうか、そして相手が言っていることの「内容」が理解できる力があるかどうか、が最大の問題だ。
それがあれば、伝えたいことを伝えあうのはカタコトのつなぎ合わせだろうとできる。難しい概念であろうと、プレーンな言い回しで通じる。ビジュアルやボディランゲージで補うのもいいだろう。

グローバリゼーション(端的にいえばアメリカによる世界支配化)の流れのなかで、英語(米語)は世界標準とされている。
ハリウッドは、シチュエイションが北京であろうと、南米チリであろうと、ナチスドイツ下の収容所であろうと、占領下ポーランドであろうと、古代ローマ帝国であろうと、中世ジャンヌ・ダルクであろうと、すべて英語(米語)で通し平然としている(「英語帝国主義」)。
幕末・明治初頭の「サムライ」が、知るはずもない English を重々しくあやつり、おお日本人にも気骨があったぞ、などと「プチ・ナショナリズム」をくすぐってヒットしたのも最近のことだ。
私たちも、すぐ隣の「韓国」や「中国」の人とコミュニケートする上でも、現状では英語(米語)にかなり頼らざるをえない。

では英語(米語)ができるようになればいいのか。
むろんできるにこしたことはない。

しかしこれは例が適切かどうかわからないが、PhotoshopやIllustratorなどが使いこなせるようになればデザインの力が増すと思いこむのと同じような勘違いの面があるだろう。

「外国語」と「日本語」のことばは一対一では対応しない。
コミュニケーションはあくまで内容であり、それが背景となる「文化」の違いによって「ことば」の意味は微妙にずれるから、それをそれぞれが意識化し、問題点を発見し、理解しあうプロセスでもあるだろう。

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2004年07月13日

ラ・ジュルネ(鎌倉由比ガ浜)-1

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ろくに雨が降らないうちに、関東地方も梅雨明けしたという。きょうは35度くらいになっている。

暑いときに限らずもともと少食だが、そうめんだけはいつでも食べられる。

ラ・ジュルネは、由比ガ浜通りから細道をちょっと入ったところにあるので、あまり観光客は来ないが、地元の人で夜中までにぎわう。
テラス席は犬OKなので、犬を通したコミュニティの場でもある。

「とろとろ野菜の梅そうめん」を頼んだ。
そうめんと侮ってはいけない。ボリュームと栄養はたっぷりだ。
大きなコーンフリーの葉とつるむささきの天ぷらが載り、おくらとモロヘイヤのとろみがそうめんにからまっている。半熟たまご、白ごま、刻み海苔、そして梅たたき。
すべて取れたて鎌倉野菜を使っている。

そうめんは日本の夏の伝統の風情、などと言いたがる人がいるだろうが、これも元をたどれば「中国」から伝来したものだ。奈良時代ころと推測されている。
もともと「索麺(さくめん)」だったが字を崩して「素麺」と誤記され、その漢字をもとに「そうめん」と呼ばれるようになった。

日本農林規格(JAS)で、直径1mm以下と定められている。
ちなみに「冷や麦」(こちらは室町末期ころから造られたようだ)の規格はもっと複雑で、角棒状のものでは幅1.2ミリ以上1.7ミリ未満、厚さ1.0ミリ以上1.3ミリ未満のもの、丸棒状のものでは直径が1.3ミリ以上1.7ミリ未満のもので、小麦粉を原料とする、とある。

何を根拠に、なんのためにこんなことを「定めている」のかはよく分からない。
とにかく「区別」「分類」し手分けして「管理」するお役人の都合だろう。

7 13, 2004 04.私の好きな鎌倉の店・中華・エスニック | | コメント(1) | トラックバック(0)

2004年07月12日

「万歳」の誕生

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TVは、当選者事務所の万歳三唱でかまびすしい。

古くからの日本の「伝統」「文化」などと称することは、ほとんどことごとく近代になって創造(捏造)されたものだ。

「万歳三唱」も例外ではない。

牧原憲夫氏の「万歳の誕生」(『思想』845号・1994)という優れた論考があるのだが、今手元にないので、同じく牧原氏の「客分と国民のあいだ—近代民衆の政治意識」(吉川弘文館/1998)から要旨を紹介する。

もともと天皇の即位式に「万歳」の文字を記した万歳旛(ばん)が用いられ、雅楽の『万歳楽(まんざいらく)」が演奏されたことはある(ただこの場合は「バンゼイ」と漢音で発音、「マンザイ」は呉音)。
中世での一般的な掛け声は「ええ」「おお」だった。
明治天皇の即位式でも万歳などは行われていない。
明治国家を建設したはいいが、天皇は民衆にとってかけ離れた存在で、行幸しても人々は黙って見ているだけだった。これではまずい、ヨーロッパには君主の長久の繁栄を祝して唱える習慣がある。我が国もこれに倣うべきである。
当時の文相・森有礼は、はじめ「奉賀」を提案したが、連呼すると「ホーガーァホーガー」になってしまうのでボツ。外山正一教授の「バンザイ」案が帝国大学教授会(!)で承認され、それを受けた森が宮内省にかけあい、天皇の前で大声を発するなど不敬きわまりないという強い非難を押し切って実現させた、というのが祝声・掛け声としての「万歳(ばんざい)」の誕生経過であるようだ。
大日本帝国憲法の発布(1889年/明治22年)の時期である。
2月11日、憲法発布の祝賀祭では、あらかじめ特訓を受けた帝国大学生五千余名が「天皇陛下万歳、万歳、万々歳」を叫んだ。

「『天皇陛下万歳!』と一斉に大声を発して帽子をかかげ、あるいは双手をあげる。この動作が群衆の心理に与える影響についてくだくだしく説明する必要はなかろう。静粛さのみが求められたのならば、その直後に人びとは雑多な傍観者に回帰しうる。が、いまやそうはいかない。たまたま隣り合わせ、こづきあっていた者との間にすら一瞬にして共通の感情がうまれ、その共有された空間のなかで一人一人の”祝意”がまっすぐ天皇にむすびつく。いわば出店のひやかし客から神輿の担ぎ手への変身、その共属感覚の瞬時の創出にこそ『万歳』の効能があった。天皇と民衆の関係を転換させる決定的な<装置>の誕生といってよい」(同書p.165)

森が他の国家主義的教育者と決定的に違うのは、祝声としての「万歳」、そして「唱歌」(「君が代」も当時はお抱えアメリカ人音楽家が賛美歌から採ってきた唱歌であり、小学校で教え始めたばかりで、大人はほとんど歌えなかった)の導入、兵式体操(「運動会」に展開する)、行軍(「遠足」の始まり)など、「身体のレベルから国民意識を構築することを自覚的に追求した点にある」(同書p.166)。

能天気で危険な「声に出して読みたい日本語」の流行などの淵源は著者が自覚しているかどうかに関わりなく、このあたりと結びつく。

ついでながら、ユン・チアンは「ワイルド・スワン」の中で、文化大革命が荒れ狂うさなか「毛沢東万寿無疆」を叫ぶのは皇帝崇拝と同じだとしてかたくなに拒んだ父の姿を描いている。

7 12, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(1) | トラックバック(0)

民主党の「躍進」

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参議院選挙で民主党の躍進により二大政党化が進み「政権交代」の可能性が強まった、とマスコミは報じている。

二大政党が政策を競い「国民」が「選挙」で「投票」によって選択するのが「政治」だ、などというのは造られた幻想にすぎない。
「政治」ということの本質がこんな狭い限定されたところに無いことは世界の歴史を振り返れば明らかだ。

私は民主党が政権を取ることにより何かが根源的に変わるとはまったく考えていない。
小沢一郎はもちろんのこと、松下政経塾出身の若手らを含めて、彼らもまた「日本国家」を前提・枠組みとした人々だからだ(これは社民党・日本共産党であろうと同じ)。

露骨でストレートなネオコン・ナショナリズムに変わって、ソフトで見えにくいネオコン・ナショナリズムに変わる分だけ、より危険だとさえ言えるだろう。

7 12, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月11日

「国」という文字

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朝日新聞の「天声人語」が、ジェンキンスさんにからめて「国の壁」について触れ、今守るべき「玉」(貴重な財産の代名詞)はなにか、きょう「選挙」の日はそれを示す機会でもある、と述べている。

「国」という文字は和製漢字で「國」の草書体から造られたようだ。
康煕字典には、口の中に「王」という文字がある。文字通り、王を城壁で守るという意だ。
元になった「國」の中にある「或」は、土地の境界線である「一」と武器である「戈(ほこ)」から成る。

以下、白川静「常用字解」(平凡社)を参考。

もともと「或」だけで「國」の意味だったが、後に「或」が「或いは」のように用いられるようになり、混同を避けるため「口」を加えて「國」とし、武装した国の都を指すようになった。7世紀唐代の女帝則天武后は「或」が限定的な意味を持っていることを不満とし、あらゆる方向を意味する「八方」を入れて新たに「圀」の字を造らせた。徳川光圀(水戸黄門)にこの字を見ることができる。

略字の「国」の中にある「玉」は「玉座」として使われるように、貴重な財産一般などではなくまずもって権力者の象徴である。

境界(国境)を引き、武装して支配者を守る、ということに徹したこの文字とこれが意味する概念、および派生して明治近代日本で造られたことばと概念は、私がもっとも嫌うものであり、今後とも最大の批判対象のひとつとする。

7 11, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月10日

ポーランドの磁器フィギィア「チメルフ」

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※写真はクリックすると拡大表示されます

友人と、ポーランドの磁器フィギィア「チメルフ」の輸入販売を始めている。
昨日は一日、ウェブやプリント物に使うための撮影をやった。およそ100点、900ショット。

「チメルフ」は、ポーランドの南東にある町で、18世紀末から磁器生産が始まっている。1950年代後半から60年代前半にかけて、気鋭のデザイナーたちによって、斬新なデザインの磁器フィギィアがここで創られた。
不幸にして1964年、工房は火事で焼失し、制作は途切れ、作品は散逸し、忘れられた。
1996年、新しく工場を買い取ったアダム・スパワ氏は、当時の原型やオリジナルモデルを発見し、以降復刻を始めた。当時と同じ技法を忠実に受け継いでいる熟練職人たちによってひとつずつ手作りされている。全部を復元するにはあと20年はかかるだろうという。

動物、女性などが主なテーマになっている。
一瞬の動き、表情、らしさ(本質)を、オーガニックな流れるような曲線・曲面で切り取り、デフォルメし、ミニマムな絵付けで仕上げた作品の数々は、ミッドセンチュリーデザインの「モダン」の限界を超えて魅力的だ。

(写真は作品No.115 「Panther(豹)」 65x215mm)

7 10, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月09日

「国字」(和製漢字)

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私の大学に「哘」というめずらしい苗字の副手がいる。「さそう」と読む。
別の副手が、かな漢字変換でこの字が出てこなくて、彼に他の読み方(音)はないのかと聞いていた。

この字は「中国」から伝わった「漢字」(漢音とか呉音とかとの「音」と、日本でそれを読み替えた「訓」を普通持つ)ではなく、日本で作られた「漢字もどき」で、音はなくこの読みしかない。

こういう和製漢字がいつ頃から作られ、それが「国字」などと呼ばれるようになったかははっきりしない。
手元にある「国字の字典」(飛田良文監修/菅原義三編・東京堂出版)によれば、江戸中期の新井白石は「同文通考」で81字を「国字」として、江戸後期の伴直方「国字考」では126字をあげているという。

平成2年(1990年)初版発行のこの「国字の字典」には1551字が収録されている。
これを見ると、私たちがふだん良く使うものもけっこうある。

「畑」「畠」「働く」「匂う」「辻」「込む」「躾(しつけ)」「峠」「雫(しずく)」「凪(なぎ)」「噺(はなし)」「栃」「枠」「榊(さかき)」「樫」「鰯(いわし)」「鰹(かつお)」「癌」等々。
「吋(インチ)」「呎(フィート)」などは江戸末期から明治以降の造字だろう。

造字法は、大部分が意味を組み合わせたもの(会意)だ。
山の上と下との分岐だから「峠」、神前に供える木だから「榊(さかき)」、はなしはだいたい新しいから口編に新で「噺」、堅い木だから「樫」等々。
「麿(まろ)」などという「麻(ま)」と「呂(ろ)」の音を組み合わせたものもある。
元の漢字をくずしたり、省略したりしたものもたくさんある。
また訓だけかというとそうではなく、例えば「働」は「はたらく」とも「どう」とも読み、普通の漢字と変わらないように見えるし、「鋲(びょう)」などは音のみとも言える。

武田鉄矢が教師役で出てくる深夜TV番組で、新しい漢字を作らせるコーナーがあったが、アイディアとしてはまあ似たようなものだ。

もっともこんなものにずっと先行して、リョービの「ナウ」シリーズを制作した水井正さんの「おもしろ漢字大図鑑」(朗文堂)や私のところの非常勤講師でもある伊藤勝一さんの「漢字の感字」(朗文堂)など、クリエイターたちは漢字の造字力、イメージ造形力に着目していろいろな可能性を試みてきている。

「中国」にはないような「日本特有の文化を示すため」(こういう観念とそういう言い回しをする人を私はまったく信用しないが)に作られた、というがそう簡単ではない。無いと思って作ったら、清の「康煕字典」には同じ漢字があったのが後で分かる、とか複雑だ。

そもそも、もともとの漢字(正字ともいう)と違うと言えば、戦後日本の文字改革やJISで制定されたものなどのかなりの漢字は正字とは異なり、作られた和製漢字とも言えるのだ。たださらに言うと「正字」というのも絶対的な基準ではなく、もともと「異体字」がいろいろあって、そのなかのひとつを時の権力がこれが「正字」だと御用学者を使って権威付けただけにすぎない。

ついでに思い出したが、日本語について一知半解のApple社が80年代の後半に作ったMac用の初めての日本語OSは「Kanji Talk」と名付けられた。一方で「中国語」OSはたしか「Chinese Talk」だったと思う。
どちらも言語と文字に対する浅薄な理解による。

で、「哘(さそう)」に戻ると、「国字の字典」によれば、青森県上北郡天間林村哘、というのがもとで、このあたりは幅の狭い麻布を良く作り、地元では「細布」の字をあてて「さおふ」と呼んだ。それが「さそう」と転じて地名になった、という説があり、また口編に行く、だから「あべ」(東北地方でかなり広範に使われる「行こう」という「誘う」表現)から来た、という説も載っている。
哘くんは札幌の生まれ育ちだが、曾祖母はこのあたりの出身らしい。

7 9, 2004 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ | | コメント(4) | トラックバック(0)

2004年07月07日

パラドール・デ・かまくら(鎌倉長谷)-1

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江ノ電長谷駅すぐそばのスペイン料理店「パラドール・デ・かまくら」に寄り、由比ガ浜で採れたシラス入りスパゲッティで昼食。
96年開業のときから行っている。まだ息子は9歳だった。
その頃は閑静だったが、今はどのガイドブックも取り上げるので店は混んでいる。

スペインには残念ながら行ったことがない。
アルタミラの洞窟壁画の時代から、古代ローマ帝国の支配、西ゴート王国を経て、イスラムの統治、レコンキスタとハプスブルク・ブルボン朝、共和制からスペイン内戦、フランコ独裁と死を経てEC加盟へ、と、「万世一系」などと称する島国とは比べものにならない錯綜した歴史が織りなす文化はとても魅力的だ。

この店の名である「パラドール(Parador)」というのは、中世の古城、貴族・領主の館、修道院などをスペイン国営のホテルとして開放・運営しているところのことで全土に80数カ所ある。

この店のご主人、上野健太郎さんは1986年から8年間、経済誌の駐在員としてマドリードに住んだ。
この間、上野さんは竹山裕子さん(竹山さんは各地のスペイン郷土料理を学んだ)とともに、それらのパラドールすべてを泊まり歩いた。
その経験をまとめたものが「スペインパラドール紀行」(日本交通公社)だ。
どこもとても泊りたいが、16世紀の大学のレストランなどというのはぜひ行ってみたい(私の勤務する大学のプアな学食と比較してみたい)。

もう1冊、上野さんが著した「スペインハプスブルク・カルロス五世の旅」(JTB)は、16世紀前半、スペインが世界帝国として最盛期を誇った時代の神聖ローマ帝国皇帝の足跡(彼は人生の1/4を旅に費やしたといわれる)をたどり、史跡を捜し、郷土史を読み、伝承を聞き取り、研究者を訪ねた紀行書だ。

一方、彼の治世下、コルテスが現メキシコを征服してアステカ文化を滅ぼし、ピサロが現ペルーを支配下に置きインカ文化を壊滅させた。

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(ラス・カサス/岩波文庫)を読み直したくなったが引越後ちゃんと整理していない本棚に見あたらない。

7 7, 2004 05.私の好きな鎌倉の店・洋食 | | コメント(1) | トラックバック(0)

2004年07月06日

ブログと2チャンネル

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今出ている「AERA」に、「ブログライフの時代が来た」というのと「さらば2チャンネル」という記事が出ている。

ブログのことを「単純にいえば日付ごとに気になるニュースや近況がのせられている”ネット上での日記”のことだ」と述べている。
導入的な説明としてはいいかもしれないが誤解も招く。

日本では90年代後半に個人日記に特化したネット環境サービスが拡がっていたため、ブログもその延長で理解されることが多い。
もちろん日記サイトとして使われることが今のところ大半かもしれない(私のこのブログサイトだって日記といえば日記だ)。

しかし、これはブログ(ウェブログ)にはログ=時系列の記録のデータベース機能が組み込まれており、カテゴリー別を含めたアーカイブ化構造を提供していることから、日記にはきわめて都合がよいということであって、ブログというネットワーク・コミュニケーション環境の可能性はもっともっと広いものだろう。

増田真樹さんのMETAMiX!のように「一人総合雑誌」のように試行している方もいるし、この記事のなかに出てくるように企業がさまざまな形で利用し始めてもいる。

私も多摩美デザイン学科「ネットワーク」授業ブログでブログを授業のサポート環境として使う試みを今している。
これは日記とはまったく関係ない。
課題に対してトラックバックを付けた上で投稿させ、そこからすべて一望でき、逆にアクセスして各学生の軌跡も見て取れる。
また、最終課題はウェブサイトを作り運営することなのだが、そのプロセス・途中経過もすべて公開し、リンクをたどれば見られるようにしている。

また別個に始めた、友人の高山広さんという一人芝居の作者兼演出家兼俳優のプロモーションサイト高山広WORLDでは、管理人の私や高山さんだけでなくスタッフもライターにして(つまりグループで)運営し「寄ってたかって作っていく」というスタイルをとっている。

何かを発信し、コミュニケートしたいと思っている人々にとって、これまでのウェブサイト構築はとても敷居が高かった。
コンセプトメイキングから、アーキテクチャー設計、素材収集・整理・データ化、メニュー構成とページ立てなど、プラニングをきちんとやらないとその先のHTMLコーディングはできなかった(DreamWeaverなどのウェブ制作ソフトを使おうとも同じだ)。
その上、やれユーザビリティだ、アクセシビリティだ、インタラクティビティだ、と識者はうるさい。

だから、ウェブプランナー・デザイナーにけっこう高い金を出して頼み、あるいはさんざん苦労してやっとの思いで自力で作っても、そこで力尽きるような状態だった。
そこから先、それを不断に更新し運営するということはさらに大変な時間と労力を要する。

ブログ環境は圧倒的にその壁を打ち破った。

「かっこいいウェブサイトをデザインできます」などと言ってきたウェブデザイナーは、今後は仕事がほとんどなくなるかもしれないことを覚悟した方がいい。
ダイナミックなネットワーク・コミュニケーションにとって、今までの「見てくれ」のデザインがいかにこけおどしの些少な意味しか持っていなかったことを思い知るだろう。

余計な労力や費用はいらない。
「発信したいことを発信したいときに自分(自分たち)が発信し、コミュニケーションを拡げ深めたい」という一番重要なことに発信者自身が力を集中できるステージに入ったのだ。

また、ブログのネットワーク伝播力は、従来の静的なサイトの比ではない。
これはよく言われるトラックバック(逆リンク、結果として相互リンク)の力のみではなく、各ブログポータルへのping機能(更新情報通知)とRSS(サイトの新規投稿記事のサマリー情報がわかる仕組み)が果たす役割が大きいと思う。
これらによって、現に私のやっている高山広WORLDは、オープンしてからまだ2週間ほどだし、トラックバックも私が付けたひとつだけだが、すでに1日平均200アクセスを越え、GoogleでもYahooでも検索すればトップに来る。
ブログが上位に来やすいということに対するGoogleやYahooの方針が今後どうなるかは分からないが、今のところブログサイトの注目度は「便所裏にひっそりと咲く月見草」のようなスタティックなサイト(これ自体を馬鹿にしているわけではない)とは比較にならないほど高いのだ。

最初に触れたように、ブログという環境は、ログをアーカイブ化する機能を基本的に持っている(これをふつうのウェブ制作でやろうとしたらシステムまわりからやらなくてはならない)ので、どんなふうに進めようが全体の構造が崩れたりめちゃめちゃになるような心配がない。
とにかく思い立ったら吉日、始めてしまえばいいのだ。記事の編集もカテゴリー分けも後でなんとでもなる。どんどん更新し付け加え、編集していけばいい。
そういう意味でウェブにおける新しいパラダイム革命だと思う。

「AERA」の「2チャンネル」に関する分析記事は2チャンネルをめぐる背景がかなり分かってとても興味深いが、私の関心はそういうビジネス面のことではなく、90年代の終わりからアメリカではブログ(これは実名が基本で、よく「ブログではその人の顔が見える」という。また欧米では匿名の発言は基本的に相手にされない)が発展し、日本では同じ頃から匿名掲示板が「猛威」(?)をふるった、という「文化」的な違いの意味だ。

そして、2チャンネル管理人・西村博之氏が語っているように、2チャンネルでは「もう面白いことは起きない」だろう。
個々人が、技術の壁に挫折することなく、自由にネットで発信できコミュニケーションを「持続的に」はかることを可能にした、ブログ環境の爆発的な普及の方が、はるかに「面白いことが起きる」環境だろうことは確実だ。

7 6, 2004 09.ネットワーク・コミュニケーション | | コメント(0) | トラックバック(3)

2004年07月05日

菊地眞さんの風鈴

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由比ガ浜通りの鎚起銅(金・銀・錫)器の店、鎌倉清雅堂は、私の好きな店で改めて紹介したいが、先週通りかかると、男の人が店の横で銅管を細工して風鈴を創っていた。
音色は澄んで深みがある。
見事なのでひとつ買い求めた。
きのう贈答用に2つ買い増し、あらためて話を聞いた。

菊池眞さん。
東京学芸大を出て教員をしていたが、その間も金属工芸をやっていた。富山の地場企業で修行したりし、今は鎌倉今泉に住んで好きな道を進んでいる。鎌倉でこのようなものが置けるのは清雅堂なので、土日にやらせてもらっているという。
将来は金剛仏の工芸品を創りたい。

買い求めたのは風鈴。先週と合わせて3つ。
2つは緑青仕立て。
銅管を打って型どり、表面を細かく荒らす。酢に半日ほど漬け、その後塩化アンモニウムを薄めたものを塗っては乾かし、という工程を30回ほど繰り返す。晴れた湿度の高い日がいい。が、ちょっとの天候の差で緑青の出具合、色合いは微妙に異なってくる。少しの時間差でひとつとして同じものはできない(写真右は緑青のうちのひとつ)。
なおこの緑青は無害だ。

もうひとつは竹いぶし。銅の風鈴を竹で焼く。およそ100℃前後で、銅は金色になる。取り出し加減が難しい。
私が購入したのは、少し遅すぎたというが、別に金色でなくとも素晴らしい風合いだ。

わずか5cmほどのものだが、じっと見ていると、大伽藍の由緒ある鐘楼のように見えてくる。

7 5, 2004 10.美術工芸 | | コメント(0) | トラックバック(0)

きしめん・むつ富(鎌倉長谷)-1

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突然きしめんが食べたくなり、長谷大仏通りの「むつ富」へ行く。きょうは「地鶏せいろ」。

50年前、新宿ステーションビルに日本そば屋を出店しようとしたら、既に同業がいて受け付けられなかったところ、ちょうど名古屋大須の老舗きしめん屋が後継者がおらず、伝統の製法・仕入れ・職人ごと売り出していたのを受けて創業したのが始まりという。以来吉祥寺を経て6年前に長谷に移転。

良質の小麦粉、いっさい無添加、名古屋コーチンは出汁にはいいが肉がやや固いので使わず、那須と宮城の地鶏を仕入れる。醤油も小さいところだが200年来製法を守っている信頼できるところのもの。

淡泊なきしめんの喉越しと、だし汁のきいた柔らかな地鶏の味わいの濃厚さがいいバランスになっている。
食べ終わって、残りの付け汁に湯を入れてもらい飲むと旨い。

最近は、讃岐うどんに押されて名古屋でもきしめん専門店が少なくなっているという。

7 5, 2004 03.私の好きな鎌倉の店・和食 & 居酒屋 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月04日

NATAさんのイダキ・ライブ

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7月3日夜、長谷のカフェ「麻心」。

巨大なろうそくの灯りに囲まれてNATAさんは鎌倉の海に向かって静かに立つ。
窓外に逗子から葉山への明かりが拡がる。時折花火が上がる。
ハーッ、ハーッ、スー、というゆっくりとしたしかし腹から絞り出す呼吸音が届く。

始まった演奏は私の今までの音楽体験に無いものだった。
暗黙に前提としている「音楽」「演奏」という近代的な概念がいかに狭く貧しく定型化されたものであるかも感じる。

この音と響きとリズムをコトバで表現するのはほとんど不可能だ。
ブィー、ビー、などのアルファベットで言えば B、V系列の、海鳴りとも山鳴りとも地鳴りとも風鳴りともいえるような音の響き(文字通り体内に響くのだ)が基調になり、その通奏の上に、ドゥワ、バウ、パッなどの音が自ずからリズムを整えて発せられる。
NATAさんの右手は霊魂を招き寄せるようにゆっくりとたなびく。

感動した。
私は神を信ずる者ではないが、自然と神々と人間の感応の世界をかいま見たような気持ちになった。

楽器はオーストラリアの先住民、アボリジニのもので、彼らの聖地アーネムランドの部族たちは「イダキ(YIDAKI)」と呼ぶそうだ。19世紀以降、流刑者やロンドンの都市貧民を中心に流入したヨーロッパ人たちは、やがてアボリジニと接して、この世界最古の木管楽器を「発見」し、彼らの耳に聞こえた感覚から「ディジュリドュ(Didjeridu)」と名付けた。

NATAさんが使ったのは彼の陶芸の師匠に造ってもらった陶器製だが、アボリジニたちはユーカリの樹を使う。オーストラリアにある800種もあるユーカリのうち、このイダキに使えるのは10種ほど。
長さは130〜160cmくらいで中が空洞になっている。これは人の手でくりぬくのではなく、木の芯にあるユーカリ油をシロアリが食べて筒状になったものを用いるそうだ。
後で見せてもらったが、吹く口も、ただ数センチの穴があいているだけ。呼吸と舌使いだけで複雑で豊穣な響きが生み出される。

アボリジニは男女の役割分担がはっきりしており、イダキは男しか吹けない。父から子へと伝えられる。
死者を葬るとき、また祭礼のときに吹かれる。葬るときはイダキと拍子木と唄で、祭礼にはそれに踊りが加わる。

NATAさんは、アーネムランドでアボリジニと生活し彼らの伝統的な奏法や呼吸法、そして精神を学んだ。
彼らにファミリーとして受け入れられアボリジニネームももらった(これはアボリジニ以外の人としてはとても希少だという)。

アボリジニはそれぞれが持っている「曲」(ちょっとわれわれの概念とは違うが)をそのまま余所で奏することは許さない。しかしそうした事情がなかったとしても、NATAさんは、学んだものをそのまま復元・演奏することだけに満足はしない人だろう。
病んだ現代の社会と人々に向けて、静かにしかし力強く「違う世界」がありうることを彼自身のアートを通じて訴え続けるに違いない。

NATA...Japanese Yidaki Artist

7 4, 2004 13.音楽の楽しみ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2004年07月03日

Kanon Concert Gallery (鎌倉長谷)—その2

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1階はミエコ・カノンさん愛用のオールドヤマハのグランドピアノが置かれ、さまざまな企画展やミニコンサートが行われる、とても素敵なスペースだ。

すぐ外は由比ガ浜通りで、観光バスなどの往来が多いが、ガラス戸を閉めるとかなり静かになる。

食後、ミエコさんが即興演奏してくれた。
伸びやかで、澄んで、拡がる自由のイメージ。
オールドヤマハの音色も艶っぽい。

ここで収録した彼女のCD「Mieko Kanon Piano Improvisation」も愛聴盤のひとつになる。

Kanon Concert Gallery

7 3, 2004 13.音楽の楽しみ | | コメント(0) | トラックバック(1)

Kanon Concert Gallery (鎌倉長谷)

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長谷観音前の信号のそばに昨年5月オープンした「Kanon Concert Gallery(カノンコンサートギャラリー)に行く。
即興ピアニスト、ミエコ・カノンさんがご主人とやっている。

関東大震災の翌年1924年(大正13年)に建てられた民家を改築し、1階がギャラリー、木の急な階段を上った2階がカフェになっている。

長谷観音の参道が見渡せるテラス席で「カノン鶏飯コース」を食べる。
これはミエコさんのお祖母さんの出身地・奄美大島でもてなしの席などで供されるという。遠く鎌倉の地で郷土の食文化がこのような形で受け継がれるというのはとても好ましいことだと思う。
「かまくら楽食日記」でお馴染みの井上智陽さん(大町在住)の楽しい解説付きイラストがメニューになっている。たぶん「楽食日記」の続編(今その2まで出ている)に載るだろう。

食前酒は奄美の邯鄲(カンタン)ワイン。
具は、比内鶏の胸肉、フキとキクラゲの佃煮、奈良漬け、錦子卵、パパイヤの味噌漬け、胡瓜、海苔、紅生姜。
じっくり時間をかけて鶏ガラを煮出し、塩、昆布、鰹節で整えた澄んだスープが右のポットに入っている。

どうするかというと、ご飯の上に具を載せ、たっぷりと熱々のスープをかけて食べるのだ。
旨いものを食べたときのTVのコメンテーターの表現力の無さを日頃嗤っているが、自分も同じ状態になる。
「幸せになる滋味」とでも言おうか。
ミエコさんがピアノの調べを聴かせながら黒糖を使って煮た大粒の紫花豆「カノン祈り豆」もありがたく頂戴するという気持ちになる。もちろんおいしい。
食後に出される冷たいハイビスカスティーが口中の脂を洗ってくれて爽やかだ。

店内には、私も実際に絵を描くところを拝見したことがある、乾敏夫さんの流鏑馬の絵(昨秋来られて描かれたそうだ)や藤沢在住の万華鏡作家・田村慎一さんのさまざまな万華鏡(コンピュータ・グラフィックスなど目じゃないぞ)なども置いてあって楽しめる。

テーブルの真ん中は吹き抜けにしてあって、時折下でミエコさんが奏でるオールドヤマハのピアノの即興が2階にも拡がるのだ。

【追記】
カノン・コンサート・ギャラリーは、残念ながら2004年11月で閉じられました。

7 3, 2004 02.私の好きな鎌倉の店・Cafe & Bar | | コメント(0) | トラックバック(0)

Daisy's Cafe(鎌倉長谷)-1

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鎌倉は店の閉まるのが早く、以前住んでいた小町や駅の周辺では、笑笑とやるき茶屋ぐらいで行く気にもならなかったが、この長谷、由比ガ浜周辺はいろいろ開いていて夜型人間の私には都合がいい。

由比ガ浜海岸べり「麻心」の隣にある「Daisy's Cafe(デイジーズカフェ)」もそのひとつで朝5時までやっている。
夜中に空腹だったので訪れる。
50年代アメリカ風の小物(ダーツ、古ラジオ、椅子等)がさりげなくかつ雑然と置かれたなごめる空間。

そしてなによりの特長は、店の真ん中に大きなバーニーマウンテンドッグの「デュカ(Duca)」が鎮座しているのだ。
今2歳で40Kgもあるが、まだ大きくなるらしい。

バーニーマウンテンドッグは、2000年以上前に古代ローマ軍によってスイスにもたらされた軍用犬の子孫と考えられているという。その後スイスの山間部(主としてベルン)で牧畜犬として定着し、後に荷車を引くようにもなった。
デュカも私より力は強そうだ。
ベルン以外には知られず19世紀には絶滅しそうになったが1892年ころから繁殖がはかられ、他の地にも広まった。

鎌倉には犬連れで入れる店が多いが、ここもそのひとつ。
今ブリーダーの元で成育中のビーグル(ミックと名付けた)が手元に来て散歩できるようになったらぜひ連れてこよう。

Daysy's Cafe

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Bergfeld(鎌倉長谷)-1

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ちょっとした専門店に行けば今はいろいろな種類のパンが置いてあるが、チャールズ&レイ・イームズの映像作品「Bread」を見るとパンという食文化は日本人が持っているイメージよりもっとずっと多様なものであることが分かる。
なにしろメソポタミアで小麦を粗粒にして焼いたのは紀元前7000年に遡るのだ。それがローマ帝国を経て、ヨーロッパ各地、そしてアメリカに拡がった。さまざまな違いが発生するのは当然だ。
パンはまた食料一般、生活の糧を象徴するものでもあり、色々な宗教とも結びついている。

敗戦後、日本人を「米と魚から解放するには良いパンを給することである」という米進駐軍の方針で、「コッペパン」その他のアメリカパンが普及したが、1964年の東京オリンピックに向けてパン職人が世界にちらばり、いろいろ学んで、日本の製パンにもバラエティが出てきたようだ。

調べるときりがないのだが、さしあたって今日の私のブランチは、ドイツパン。
鎌倉長谷のBergfeld(ベルグフェルド)。
パンやクッキーだけを買うこともできるし、店内でも食べられる。

胚芽パン(ライトグラハム)にシーチキンとトマト、ライ麦パンにボロナソーセージ、ソフトロールにウインナソーセージの3種のオープンサンド盛り合わせ。ドイツビール(Henninger)と相性がいい。パンは噛みしめると味わいがある。

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2004年07月02日

今日の鎌倉由比ガ浜

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明け方、いきなりこのサイトのレイアウトが崩れてしまい、新しくアップした画像のリンクも切れてしまった。
いろいろ試したがよく分からず、一眠りしてあらためて見ると、しばらく前に申し込んだドメインマッピングが設定され、それに気づかずにいたようだ。
正しい設定のしかたがまだ確信できないのでとりあえずマッピングをはずす。

住んでいるところから100mほどで由比ガ浜海岸に出られる。
4日前に「海開き」(海なんていつだって「開かれて」いる。不思議なことばで、「海水浴」の歴史とともにあらためて検証してみたい)が行われ、今日7月1日から海の家も営業を開始している。
「海開き」によって、ここ由比ガ浜海岸および隣接する材木座海岸一帯は単なる海岸ではなく「海水浴場」となり、さまざまな行政的規制の下におかれることになる(これについてもあらためて記したい)。

天気はいいが、台風の余波で、今日の波はなかなか見応えがある。
うねり上がり、いっぺんに砕け散ったり、あちこちから少しずつ崩れてきたり、かと思うと今度は右から左へツツッと連続して巻いてしぶきを上げる。

波打ち際をスタイルのいい女性が歩いている。ちょっと立ち話し。英会話スクールのアメリカ人教師で、鎌倉が気に入って住んでいるという。

134号線をまたいだカフェ・バー「麻心(まごころ)」(2階にあるので、稲村ヶ崎から葉山まで俯瞰できる)で、ピタ(アラブのパン生地)に麻の実を練り込んで焼いたピザと、やはり麻の実を原材料に入れたビール「麻物語」で遅いブランチをとっていたら、正面の海岸で女性が読書していたので写真を撮らせてもらった。ご近所のマダム。

ニースかロングビーチか、といいたいところだが「深夜から早朝にかけての打ち上げ花火はやめましょう。住民の方が非常に迷惑しています。神奈川県・鎌倉市・鎌倉警察署」などという立て札がここが日本であることを示している。

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2004年07月01日

つるや(鎌倉由比ヶ浜)-1

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前の日、よくあることだが1食しかしなかったので、今日は由比ガ浜通りの「つるや」で鰻重を食べる。
できあがるまでに40〜50分はかかるので、電話しておいて頃合いを見て行く。
なぜこんなに時間がかかるかというと、浜名湖から仕入れ、井戸水の中に一週間ほど放して、余分な脂や泥臭さを落とし身が締まった鰻を、注文を受けてから取り出してさばき、焼き、蒸し、1929年(昭和4年)の創業以来少しずつ付け足して使い続けているタレに三回は付けて馴染ませ、備長炭でじっくり焼き上げるという工程を律儀に守っているからだ。

鰻の脂と辛口のタレがほどよく焼けた香ばしさと身の実にほっくりした食感は他の店ではまず味わえない。私にとって鰻といえばこの店だ。

どのガイドブックにも載っているが、川端康成をはじめとする「鎌倉文士」たちや、往年の大女優・田中絹代がひいきにしていたという。

田中絹代(1909-1977)といっても今の若い人はほとんど知らないだろう。
1924年(大正13年)14歳のときが映画デビューだから、私にしても同時代の俳優として知っているわけではない。
溝口健二「西鶴一代女」「雨月物語」、木下恵介「楢山節考」、小津安二郎「彼岸花」、市川昆「おとうと」などの田中絹代は、学生時代以降、日本映画の歴史を意識的に観直しはじめてから「発見」したようなものだ。
かろうじて死の3年前の熊井啓「サンダカン八番娼館・望郷」(1974・当時64歳)は封切りで観て、老婆役を演じきった凄みに感嘆した覚えがある。

新藤兼人「小説田中絹代」(今手元にないので正確は期せないが)によると、彼女は毎週月曜日に「つるや」を訪れて鰻重を食べ、女主人とひととき話していく、というのが決まりだったそうだ。1977年、ガンで亡くなる1週間前に入院先の目黒の病院から婦長と一緒にタクシーで食べに来た、という話も「ぶらり鎌倉—ちょっといい味いい話」(藤井宗哲/みずうみ書房)に伝聞として出ている。

つるや創業の1929年(昭和4年)が、田中絹代(当時19歳)にとって新進気鋭の小津安二郎「大学は出たけれど」での主演を果たし、人気スターの座を得た年であることも、彼女にとって意味があることだったかもしれない。

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