
安野光雅、大岡信、谷川俊太郎、松居直が編集にあたった『にほんご』(福音館書店)という名著がある。
1979年に刊行され、何度も手元からなくし、今持っているのは2007年3月の第49刷。
小学校で初めて学ぶ言葉の教科書の試案として編まれたが、これまでの国語教科書にはない特長がある。
谷川俊太郎が代表してあとがきに書いてあることをまとめると、
1.
文部省学習指導要領にとらわれない小学校一年生のための国語教科書を想定したものであり、現代日本の学校教育制度、教科書をなかだちとする教師と生徒の関係を無条件では前提としていない。
2.
「読み」「書く」よりも「話す」「聞く」ことを先行させている。
まだ読み書きがよくできない子どもでも、すでにかなり複雑な言語経験は持っているからだ。
3.
言語を知識としてではなく「自分と他人との間の関係をつくる行動のひとつ」としてとらえていること。
「ことばは口先だけのものでも、文字づらだけのものでもなく、全身心をあげてかかわるものだ」ということを知ってほしいこと。
4.
「ことばには心だけではなく、それと切り離せぬものとして体、つまり文体と呼ばれるものがある」ということを暗誦を想定した文例で示すこと。
5.
日本語を、世界にあるたくさんの言語のひとつとしてとらえること。
いわゆる共通語を基本とするが、地域語の持つ共通語にはない働きにも関心をうながすこと。
6,
日本語に関して、子どもたちに教え込む知識と総量があるとは想定しない。
母語である日本語を通して、子どもたちにことばと、ことばを通しての人間のあり方にめざめてほしい。
基本は教える者と教わる者との間の人間関係。
この「教科書」はもとより絶対的なものではなく、これをどう生かすかは個々の教師の工夫次第。
で、ルナちゃんの日本語レッスンのなかにこの本を使っての勉強を取り入れる。
まず、読み上げさせる。
ひらがなの字面をおってたどたどしく読み上げることはできる。
次に意味を理解させる(例によってスペイン語への翻訳ソフトも横で併用して見せる)。
私たちが日本語としての自然なイントネーションや区切りをつけて読んできかせる。
それにあわせてまた読んでもらう。
ノートにその通り書かせる。
というサイクルを基本としてときどき関連するような横道にそれる。
が、とっぱなでつまづいてしまった。
書いてある文章はこうだ。
ないたり ほえたり さえずったり、
こえをだす いきものは、
たくさんいるね。
けれど ことばを
はなすことの できるのは、
ひとだけだ。
最初の3行の意味を説明してもルナちゃんはなかなか理解できない。
日本の子どもだったら接続助詞「たり」は自分で使わなくとも「泣いたり笑ったり」「寝たり起きたり」などとしてすぐにわかる。
それは別としても、これをもし英語やスペイン語に翻訳するとしたら、構文の順はまったく異なってくる。
(世界には)声を出す生き物、(例えば)鳴く(猫とか山羊とか虫とか)、吠える(犬とか虎とか)、さえずる(鳥)ものはたくさんいる。
情報内容をプレーンに伝えようとすれば基本的にはこうなる。
(修辞的には他の順もいくらでもありうるだろう)。
私たちは日本語を頭から順に意味を分からせようとしてしまい、おそらくルナちゃんは、この文章の順番の関係がわからなくなってしまったのだ。
しばらくおいといて先へ進もうとすると彼女は釈然としない表情。
どうも納得できるまで理解しないと気が済まない性格なのかもしれない。
それはそれでとてもいい面なのだが、今の日本の学校の中では、どうしてそんなことも分からないの、と困ったちゃん扱いされるのがわかりきっているからちょっと気がかり。
何がどう分からなくて、どういう違った思考回路に入っているかをできるかぎり早く理解してあげること、の重要性にあらためて気が付かされる。
次の3行はまた別の意味で難題だ。
「文字」を使うことのできるのはヒトだけ、だったら分かる。
「ことば」を話すことができるのはヒトだけ?
犬だって犬語で話してるよ、人間のいうこといっぱい分かるし、ことばは違うけれど話してるよ、
とどうも10歳の頭の中で疑問がうずまいているらしい。
こういう子どもの疑問を決して切って捨ててはならない。
これは現代の言語学や生物学でもさまざまな学説がある、けっこう根源的(ラディカル)な疑問なのだ。
「ことば」をもし、他とのコミュニケーションをはかるために発声するものと広くとらえれば、犬も言葉を発している。
Micだって、食事前や親しい人が来たときの喜びのとき、散歩をねだるとき、八つ当たりしているとき、他の犬と遊びたい願望のとき、警戒威嚇のときでは同じ「ワン」でも全然違う。
人間は「言葉」を発声する音韻の複雑さやヒトが聞こえる音域に勝手に限定しているが、イルカや象のヒトになど聞こえない超音波や低周波での高度なコミュニケーションはどうなるのか?
象が2Kmも離れたはぐれた仲間と交信し、群に導くことができるような能力の前で、そんなに「ヒトのことば」は唯一の優越性を持っているのか?
「教える」ということは、何か一方的に知識や考えを授ける、というようなものではまったくない。
教え、教わるものとの関係の中で、互いに何かを発見していき、互いに豊かになっていくプロセスであるだろう。