2010年09月01日

人類の歴史とともにー『武器ー歴史・形・用法・威力』(ダイヤグラムグループ編/マール社)


太古の昔、ヒトは食料となる獲物を得るため、自分を守るため、敵とした相手を倒すため、「武器」を創り出した。
始めは手の延長としての棍棒を、そして斧や刀や槍を、弓を、……そして、現在では人類全体を何度でも壊滅させ、地球というさまざまな生命が互いに繋がりあって成立させている奇蹟のような星の姿を一変させてしまう威力を持った武器を手にしてしまっている。

ロンドンのデザイナー集団「ダイヤグラムグループ」は、「ダイヤグラム(Diagram)」、日本語にすれば「図解化」という手法をもとに、さまざまなテーマに取り組んできた。
日本でも私が授業でよく見せている『目で見る比較の世界』を始め『図解オーケストラの楽器―歴史 形 奏法 構造』『楽器』『ウーマンズボディ』などが出版されている。

『武器ー歴史・形・用法・威力』(ダイヤグラムグループ編/田島優・北村孝一訳/マール社/1982初版)は、古今東西、さまざまな時代、地域文化のなかの代表的な武器を取り上げ、機能によって分類している。

「手の武装」から始まり、「手投げ武器」「携行用発射装置」「脚架付き発射装置」「定置武器」「爆弾およびミサイル」「化学兵器、核兵器、生物兵器」にいたるまで、イラスト・図解を中心に詳細に解説される。

命をかけて使う者にとって自信を、相手にとって脅威を、そしてもっとも合理的機能性と効果を追求するプロダクトデザインの歴史の原点を見る思い。

武器の歴史・地域別索引はピクトグラムでデザインされている。


「手投げ武器」の章扉写真に1972年北アイルランドの街角で盾と銃をかまえる治安部隊に投石する少年の写真が掲げられている。

キャプションに記されたことばー
もっとも簡単な手投げ武器である石は、現在でも使われている。
  

9 1, 2010 07.デザインの世界, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月31日

智と情の匠の対談ー『ぼくは こう生きている 君はどうか』(鶴見俊輔・重松清 /潮出版社)

戦後日本の思想家で最も畏敬するひとり、鶴見俊輔(1922=大正11年生まれ)の本があいついで出版されてうれしい。

鶴見さんが戦後発刊した『思想の科学』は1960年代の中学時代から読んでいた。
1965年のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動開始時は、間近で話を聞くこともできた。

ここ1年ほどに出版され、目の長患いでほとんど「積ん読」状態のものをちょっと確認してみると、『不逞老人』『言い残しておくこと』 『ぼくはこう生きている 君はどうか』『戦後日本の思想』 『教育再定義への試み』 『思い出袋』『思想の折り返し点で』『新しい風土記へ』 …。

最近顕著な、出版社が著者が「旬」のうちに売れるだけ売っておこうなどと量産する類いのものではない。


鶴見さんから私たちが学ぶこと、受け継ぐべきことはあまりに広く深い。
何をきっかけに若い人たちにそれを伝えたらいいだろうかと考えて、作家・重松清との対談をまとめた『ぼくは こう生きている 君はどうか』(潮出版社/2010)をまず読んでほしいと思った。

重松清(1963=昭和38年生まれ)は『ナイフ』『エイジ』『きよしこ』など高度成長期以降の子供や親子、学校、コミュニティーなどの変化をずっと題材として小説を書き、またTVのルポなどでもさまざまな人や土地に踏み込んでいく実践のなかで学ぶ人でもある。
こちらももちろん読んでほしい。

鶴見さんはテーマに関連するような重松清の小説を読み込み、そこから「教育」「家族」「友情」「老い」「師弟」などについて、自分の人生の経験と思考を平易なことばで語る。

重松清が「はじめに」で記す。

鶴見さんはやはり博覧強記のひとで、並はずれた記憶力の持ち主だった。だが、それ以上に、表情が豊かなひとだった。クリクリッとした目が、じつによく動く。話に熱が入れば机に身を乗り出して、怖いぐらいの迫力でつたない聞き手をじっと見据える。一方、僕がなにかを話しだすと、その目は少年のような好奇心でキラキラと輝く。かと思えば、はじけるような笑い声とともに、まなざしは一転、優しいおじいちゃんのそれになる……。

「知識を授けられた」のではなく「智恵を分け与えていただいた」


書名は対談のなかからとられている。

重松:僕は自分の小説は読者自身の思い出がよみがえるための「呼び水」だといっているんです。
鶴見:それは私の手法と通い合うところがあるんですよ。というのは「自分はこういうふうに生きている」「きみはどうか」ーそれが私にとっての哲学なんです
  

8 31, 2010 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 11.教育と学びのデザイン, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月29日

広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したかー『神国日本のトンデモ決戦生活』(早川タダノリ/合同出版)

アジア・太平洋戦争に向けて、あらゆるメディア表現は「国家総動員」「翼賛」体制への隷従を強いられ、潔しとしないものは沈黙するか投獄されるしかなかった。
そして「銃後」は「思想戦」の戦場となる。

これらについて若い人たちに参考になるようなものは少しずつ触れていきたいと考えているのだが、今月出た『神国日本のトンデモ決戦生活ー広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか』(早川タダノリ/合同出版)がとてもおもしろく、きっかけになると思うので先に紹介する。

この本がまず興味を引くのは、このテーマに関する文献ががほとんどすべてメディア史やデザイン史、日本近現代史の専門研究者によるものであるのに対し、奥付けを見ると1974(昭和49)年生まれ、三十代のフリー編集者・DTPオペレーターであること。
氏の「虚構の皇国」というサイトを見ると、ブラジル生まれ東京在住の日系4世。曽祖父は広島から開拓移民として移住し、日本敗戦直後は「勝ち組」に属して暴れ回ったという。
「現在Adbe奴隷」と記されているのは「InDesign」でのDTPワークに従事しているからなのだろう。

2000年頃から、「支那事変」から「大東亜戦争」期の雑誌、広告チラシなどの収集と研究を始め、当時それらが浸透させようとしていた大日本帝国臣民にふさわしい意識、感性、道徳、思想の一端を「標本化」することを目的にこの本はまとめられている。
「大東亜戦争」の総動員体制が引き起こした「クダラナイこと・知っていても役に立たないこと・人類の運命にとってはどうでもいいことを厳選して収集」したと「はじめに」で述べる。

それらは今の眼から見れば実に「トンデモ」なものばかりに映り、彼も嗤い、読む私たちも嗤うのだが、重要なのは、我々はそれほど単純にそれらを「嗤う」位置に現在いるわけではないこと、やがて近い将来訪れるかもしれない「ディストピア(ユートピアの対極である暗黒郷)」を浮かび上がらせるためのリアリティの断片群として彼は提示していること

  

いわゆる婦人雑誌を扱ったところはとりわけ興味を引く。
敗色濃厚になるにつれメーターの針が振り切れんばかりにボルテージが上がる。
「台所戦争に勝利せよ!」「台所を要塞化せよ」ときて、女学生時代の幅の狭くなった古いブラウスに別布を足しただけなのだがなぜか「決戦型ブラウス」と名付けられたものが奨励される(「勝負服」などというのはここらあたりに淵源を持っているのか?)。
『主婦之友』の昭和19年5月号からの特集は「勝つための戦争生活」「敵前生活」「突撃生活」「勝利の体当たり生活」「勝利の頑張り生活」と意味不明なタイトルが続き、敗戦間際には「一億特攻の生活」「勝利の特攻生活」などともうほとんどヤケクソ状態になる。
本文記事の「火無しコンロの作り方」などという実用記事の上には「アメリカ人をぶち殺せ」「一人十殺米鬼を屠れ」「ぶっつけろ一億の肉弾!」などのスローガンが入る。
占領軍が来る前に新聞社が写真を処分したように、出版社も在庫はおそらく大慌てで処分した。

丸善が創業間もない1885(明治18〕年に造り始めたものを沿革とし、現在でも万年筆用インキの定番である丸善アテナインキの『学生の科学』(誠文堂新光社)への広告(そういえば小中学生時代『子供の科学』というこの後身にあたる雑誌を愛読した)。戦争勃発直後に連続して掲載。
あまりにあけすけな帝国主義便乗に呆れるが、これも「誰か」が創っているー当時の「図案家(グラフィックデザイナー・イラストレーター)」「文案家(コピーライター)」「写植オペレーターあるいは活版清刷制作者」「版下制作者(フィニッシャー)」などなど…。


私が教えている大学でデザインの力を身に付け巣立っていく若い世代が、こんなにあからさまには事態がわからないようになっている時代のなかで、本質的にはこれと変わりない戦争美化や国家主義、新植民地主義的プロパガンダ制作を、無自覚にあるいはやむをえずやることになる可能性を否定する自信は私にはまだない。

そうならないよう傾注し続けるのみ。
   

8 29, 2010 07.デザインの世界, 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

3万枚の絵からの結実ー『戦争童話集〜忘れてはイケナイ物語り〜』(原作/野坂昭如・絵/黒田征太郎)


野坂昭如『戦争童話集』は1975(昭和50)年に刊行され、現在は中公文庫で読める。

黒田征太郎(1939〜)は、この原作をもとに7年の歳月をかけて3万枚の絵を描き、原作全12話を『戦争童話集〜忘れてはイケナイ物語り〜』4部作(NHK出版)として2002年に出版した。

黒田の盟友、長友啓典がアートディレクション、コピーライターである日暮真三、仲畑貴志が童話絵本としての文脚色にあたっている。


私のところの学生たちにはイラストレーションやアニメーション志向がけっこう強い。
単なる自分の趣味趣向ではなく、この「忘れてはイケナイ」物語りにインスパイアーされて、「歴史のバトン」の受け渡しとなるような独自の絵本やアニメーションを作る学生が出てきてくれることを私はひそかに願っている。


関連記事:
昭和20年8月15日。正午過ぎ。大日本帝国南のはずれの島の、太平洋に面した洞穴で少年が死にました。ー野坂昭如『戦争童話集 沖縄篇 石のラジオ』『戦争童話集 沖縄篇 ウミガメと少年』
  

8 29, 2010 07.デザインの世界, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月28日

人形というものは人間が作ったものの中で一番不思議なものかもしれない/悼・川本喜八郎氏

人形美術家、人形アニメーション作家、川本喜八郎氏が亡くなった。享年85。


1年生向けの「デザイン概論」という各分野の専任教員が担当する授業がある。
私の主担当は映像デザイン分野なので、入ってきたばかりの新入生にはまずアニメーション作品を観せて考えさせる。
アニメーションといっても彼らが子どもの頃から主として見てきたようなTVアニメやディズニーや宮崎アニメとはコンセプトも文化背景も表現技法も異質な作品を選んでいる。

たとえば今年の5月にやった一回目の授業で観せたのは、
『老人と海』(アレクサンドル・ペトロフ /1999)の一部、『鬼』(川本喜八郎 /1972)、『色彩幻想』(ノーマン・マクラレン /1949)、『霧につつまれたハリネズミ』(ユーリ・ノルシュテイン /1975)、『クラック』(フレデリック・バック /1981)、『ジャンピング』(手塚治虫 /1984)、『Birthday Boy』(セジョン・パク /2004)。

授業ブログのコメントで、感想、考えたこと、学んだことをアップさせている。
皆アニメーションの表現の多彩さと可能性に驚き気付いていくのだが、なかでも川本喜八郎の作品に強烈な印象を受けている。

人形をコマ撮りしてアニメーションにしていることを説明しないと、人形劇を実写していると勘違いする学生もいる。
そして「たかが」人形であるにも関わらず生々しく伝わってくる迫真の表情と緊迫感、西欧的な合理主義ではもちろん仏教的な因果応報の観念でも了解できない不条理さ。
『道成寺』(1976)、『火宅』(1979)と続く三部作のひとつであり、師と仰いだチェコのイジー・トルンカ(1912〜69)もなしえなかった人形によるイマジネーション世界の創出だった。


多摩美の八王子キャンパスでは最後の作品となった『死者の書』(2005)の撮影も行われ授業もされていた関係もあり、昨年、上野毛でもぜひお話しをとお願いしたが、療養中で来年にでも良くなれば、とのことで結局残念ながらかなわなかった。

合掌


川本喜八郎Official Site
川本喜八郎人形美術館(飯田市)
  

8 28, 2010 07.デザインの世界, 10.美術工芸, 12.写真・映像・映画・演劇 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月25日

満月と秋虫たち

暑気が少し収まった満月の夜中、Micを散歩に連れ出す。

路地の家々の庭から、リーリーリーリー、チンチンチンチンとさまざまな秋虫たちの声。
昼は暑いが確実に季節は変わっていく。
  

8 25, 2010 01.私の好きな鎌倉の風景, 23.日々のなかで | | コメント(0) | トラックバック(0)

京都は原爆投下最有力候補だったから、奈良、鎌倉は単に空爆優先順が低かったから ー『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(吉田守男/朝日文庫)

鎌倉駅西口の時計台小広場にウォーナー博士の顕彰碑というのが建っている。

ラングドン・ウォーナー(米国)1881〜1955
「太平洋戦争の勃発に際し、氏は日本の三古都をはじめ全土の歴史的建造物には決して戦禍の及ばぬよう強く訴えた。そして日本の多くの文化財は爆撃を免れた。博士の主張の成果というべきであろう」
とし、鎌倉の古都保存法制定20周年にあたり有志が建立するとある。1987年4月建立。

戦後、さまざまな経緯を経て、日本の「古都」が爆撃から免れたのは、戦前から日本美術に造詣が深かったウォーナー博士のおかげだという「伝説」が拡がった。
占領した地域での文化財を保護し、略奪された美術品等を特定し、返還するため、というのが最大の目的(それを爆撃破壊対象から外すなどということではない)である委員会でウォーナー博士が極東担当として日本古文化財のリストを作成提出した、ということが唯一の根拠であり、その後尾鰭がどんどん付いた話が広まった。

GHQは、アメリカ文化の寛容と優越を日本国民に示す宣撫のため、また原爆投下への批判をかわすための格好なプロパガンダになると考え、お墨付きを与えた。
お墨付きを得た矢代幸雄(1890〜1975)という文化財保護委員として重きをなしていた美術史家はその広報マンとなり話を持ち込まれた朝日新聞は「美談」として持て囃し、戦後来日した氏は国賓級のもてなしを受け、1955年に死去した際は、マスメディアはこぞって美談を繰り返して偲び、日本政府は外国人に対する最高の勲章を授与し、ウォーナー博士の「貢献」は政府公認の「定説」となった。
鎌倉円覚寺でも当時の政界、美術文化界の錚々たるメンバーの発起のもとに盛大な法要が営まれた。

ウォーナー博士自身は訪日の際、自分はそのようなことはしていない、と繰り返し否定し、それはそれで東洋的な謙遜の美徳などとされ、それでも繰り返されるしつこい質問に不機嫌になり癇癪も起こしたという。

米軍の戦争にあたっての文化財への「配慮」は、実際には次のようだった。
1943年12月、アイゼンハワー将軍はヨーロッパ戦線で全アメリカ軍に指令を出したが、そのなかで言う。

我々が戦場としている地域は多大な文化遺産、遺跡が豊富な地域である。我々は「戦争が許す範囲で」これらの遺跡を尊重する義務がある。
しかし、…軍事的必要性よりも優先するものは何もない。これは認可済の原則である。

この原則はもちろんドイツ降伏後の日本にも適用された。
つまり米軍に空爆や原爆投下に際して「文化財保護」の精神や足枷などなにもなかった


米軍は日本の都市爆撃の目標として180の都市をリストアップし、優先順位を付けていた。
建物が密集しているか、燃えやすいか、軍需・輸送施設があるか、都市の大きさと人口の多さ、レーダー爆撃が可能か、などを基準に、第1位・東京(678万人)から第180位・熱海(2.4万人)まで

そして、広島、長崎を除く64番目の都市空襲で「終戦」となった。

奈良(5.7万人)は第80位、鎌倉(4万人)は第124位とプライオリティが低かったため空襲を免れただけ。


京都で原爆投下照準点とされたのは京都駅から西1.5Kmの梅小路機関車庫。東海道線と山陰本線が交差し上空から目視しやすいと選ばれた(原爆関係の極秘文書から発見された地図より)


京都(100万人)がなぜ空襲を受けないでいたかというと、原爆投下の最有力候補であり続けたから

原爆投下目標都市(京都・横浜・長崎・新潟・小倉・広島)は、一般空襲は禁止されていた。通常の空襲で破壊されてしまうと、原爆投下時の「効果」が有効に測定できなくなるという理由
だからそれまで空襲を受けず、幕末開港以来の由縁があるからなどと勝手に安心していた横浜は原爆目標から外された翌5月29日には大空襲を受け灰燼と化す。

京都は市街地に直径3マイル(約5キロ)の円を描け、東北にまだ市街地が拡がり、周囲の山陵からの増幅力も入れると原爆の未知の威力を試すには理想的な目標とされていた。
一時目標から外されたりした(古都であるからとかは関係なく、戦後ソ連との国際政治関係を考慮してのもの)が爆撃禁止は解かれなかった。
8月末には準備が整う3番目の原爆投下候補地として残されたから。


鎌倉駅西口の顕彰碑には、肖像レリーフとともに、「文化は戦争に優先する」(英文碑では "CULTURE TAKES PRECEDENCE OVER WAR.")と刻まれている。
これがウォーナー博士自身の言葉か、建立者有志が創った言葉かどうかは分からない。

長年にわたり丹念に資料に基づいて「伝説」「定説」の根拠を解明・批判した吉田守男氏(元大阪樟蔭女子大学教授)の『京都に原爆を投下せよ』が刊行されたのは1995年。ほどなく絶版となってしまい、2002年『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』として朝日文庫で復刊された。

未だにこのような顕彰碑を残し、6月の命日には法要まで行うというのは「戦争が文化に優先した」歴史の実態を覆い隠し、幻想擬制に無自覚に安住するものではないか。
  

8 25, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ, 28.それってどうなの鎌倉 | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月23日

子どもだった頃の同時代史 ー『日本の子ども 60年』(日本写真家協会・編/新潮社)

8月15日ではなく8月6日の広島原爆投下直後、よろよろと火傷に油を塗ってもらう子どもたちの姿の写真から始まる。

日本写真家協会がまとめた戦後60年の子どもたちの写真204点を収録。


上)撮影:菊池俊吉 /1945(昭和20)年
上野駅地下道などでは餓死病死した子どもたちが折り重なるように倒れていた。
戦後間もない時期、東京の戦災孤児収容所で。
アメリカの直接軍政下に置かれて途絶させられた沖縄を除き、全国の戦災孤児者は12万名を超えた。

下)撮影:白井和成 /2000(平成12)年
渋谷を闊歩する「ヤンママ」たち。
  

このあいだに、このなかに、私たちと私たちの子どもと、そして若い世代にとっては自分と自分の親たちの子どもだった頃の同時代史がつまっている。
  

8 23, 2010 12.写真・映像・映画・演劇, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)

2010年08月22日

水木、俺たちのことを描いてくれ ー『総員玉砕せよ!』(水木しげる/講談社文庫)

先日の『ゲゲゲの女房』(NHK)で、水木しげる(役)が戦争中、自分の属していたニューブリテン島の部隊は「玉砕」してなくなった、ということを初めて明かす場面があった。
水木自身はその前の空爆で左腕を失い、後方ラバウル郊外の傷病兵施設に収容されており、その後さしたる戦闘がなかったため帰還できた。
そして彼は最近夢に当時死んでいった仲間たちの顔が出てくると言う。
「水木、俺たちのことを描いてくれ」と訴えているかのように。

水木は、貸本マンガ時代から妖怪もののかたわら戦記物を少しずつ発表し、後『ラバウル戦記』として出されるものの元も描き続けていたが、戦後も四半世紀を過ぎた1972年、戦友たちの霊に全力で手向けるように、長編『総員、玉砕せよ!』を発表し、自らの体験とその後知った部隊の悲惨を描ききった。

新兵の補充がないためいつまでも最下級兵で上等兵の不条理なビンタが続き、戦いがなくとも様々な労役が課され、腹いっぱい食べることだけをひたすら夢見る毎日。

いろいろな死がある。
陣地構築のためのヤシの木の刈り出しで押し潰される兵、栄養失調のもとデング熱で一晩で息を引き取るもの、魚採りを命じられ手榴弾で浮かび上がった魚を喉につまらせての死、正月用の豚を調達せよとの命に対岸に渡ろうとしてワニに食われ下半身だけ流れ着く者、重傷を負ったがまだ生きている兵の小指をスコップで切り落としこれで遺骨にしてやると放置される倒れたままの姿、気まぐれのようにやってくる米機の機銃掃射に倒れる同僚…。

そして「玉砕」してまで守る価値のない陣地から夜襲・切り込みの白兵戦という帝国陸軍が信奉する無謀な突撃。

図らずもはぐれたり、別動隊に襲われているうちに生き延びてしまった兵にはさらに過酷な運命が待っている。
皇国兵士に降伏や捕虜になることは許されない。
生き延びたこと自体が罪となる。
将校は自決させられ、下級兵士は次の玉砕攻撃の先陣に立たされていく…。

長編マンガとしての完結性のため少しの脚色がなされているが、「90パーセントは事実」と水木は語る。

戦争をテーマにした戦後日本の小説や映画は数多い。
しかしこれはマンガという表現メディアのなかで、下級兵士の経験と立場から描いたものとして、水木しげるにしか描けない最高傑作。

最初に出された時のタイトルは『総員玉砕せよ!! 聖ジョージ岬・哀歌』。
こんな前線にも慰安所はある。
冒頭で「女郎の歌」と呼ばれる哀歌が流れる。
玉砕攻撃の直前、隊長が言う。
「最後にお前たちの好きな歌をうたって死のう」。
兵たちが顔を見合わせたあと歌い出すのはこの「女郎の歌」。

私は〜 な〜あんで
このよう〜な
つら〜いつとめ〜を
せ〜にゃ
なあらぬ

    

8 22, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月21日

昭和20年8月15日。正午過ぎ。大日本帝国南のはずれの島の、太平洋に面した洞穴で少年が死にました。ー野坂昭如『戦争童話集 沖縄篇 石のラジオ』『戦争童話集 沖縄篇 ウミガメと少年』


野坂昭如(1930=昭和5年〜)が『戦争童話集』を書いたのは1971(昭和46)年。

70年の日米安保自動延長を乗り切った後の日本の世の中は高度成長真っ盛り、同年には三波春夫の「世界の国からこんにちは」ががんがん流される「日本万国博覧会」(大阪万博)が開かれ、「日本の人口の三分の二ほどは、まだ、鉄の臭い血の臭いを忘れていなかったと思うが、眼先きの繁栄にとりまぎれ、泥沼のベトナム戦争は他人ごと、焼跡闇市の記憶消滅、さらにアジヤ、太平洋戦争の記憶は、ゆるやかなものだが、封印された」(『戦争童話集』ー中公文庫・改版のためのあとがき)

「終戦」時、15歳、自ら「焼跡闇市派」とする野坂には、この繁栄は「あやふやな感じがつきまとう」。

「今でもそうだが、舗装道路のヒビ割れに育つ草を眼にして、これは“食える”、頑丈な庇(ひさし)の下にいると、“ここなら焼夷弾の直撃はない”、風光明媚な山間部では、水を確め、つまり“疎開”にふさわしいかどうか。

戦争をひきずっていることは確か」

『戦争童話集』は、すべて「昭和二十年、八月十五日」で始まる。
野坂はこの「カセ」を自らに課して物語をつむぐ。

「“沖縄”と“原爆”と、旧満州からの引き揚げ者については、書けなかった」と同改版のためのあとがきに彼は記したが、その後、沖縄篇として『石のラジオ』と『ウミガメと少年』を書いた。

『石のラジオ』(講談社/2010)は黒田征太郎の絵、『ウミガメと少年』〔徳間書店/2008)は男鹿和雄の絵、早川敦子の英訳、そして吉永小百合の朗読とともに受け継がれねばならない歴史的バトンとなる。
  

8 21, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月19日

忘れられない写真ー『写真 昭和30年史 1926-1955』(毎日出版社)

『写真 昭和30年史 1926-1955』(毎日出版社)を古本で購入し再会する。
1955(昭和30)年3月15日初版発行とある。
「終戦」後10年目の節目、まだ通学の途中の空き地に防空壕の跡があったりした時代。

発売されてすぐ父が購入した。
その頃私はまだ7歳だったが、小学生時代、この写真集を何百回となく飽きずにめくって見ており、ガキのくせに妙に昭和や戦争の歴史には詳しくなってしまった。


新聞社勤めが永かった友人に聞くと、戦後、占領軍が来る前に、大本営のプロパガンダメディアとなっていた各新聞社は「戦争協力」の証拠となりそうな写真ネガはほとんど処分してしまった。
そうした中で毎日新聞社は、膨大な戦前、戦中のネガをどこかに疎開させ保管したらしい。
「戦後」に伝え続けようという気概があったからか、たまたまなのかはわからない。
しかし、この保管写真が、この『写真 昭和30年史 1926-1955』をはじめ、その後の『1億人の昭和史』シリーズ、『20世紀の記憶』シリーズ、『秘蔵の不許可写真』、そして最近の『日本の戦争 1 満州国の幻影』『日本の戦争 2 太平洋戦争』に至る毎日新聞社の財産となっている。

最近、朝日新聞大阪本社所蔵だった戦前戦中の写真ネガが7万点ほど奈良で見つかり、一部がウェブでも公開されている(料金が高いから個人で閲覧はほとんど無理)。


子供心に脳裏に焼き付いて忘れられない写真の数々がある。

1929(昭和4)年にアメリカで始まった世界大恐慌は日本の農村を直撃した。
当時農林水産業労働者の総数は約1,000万人、農家は560万戸、有業者の34%を占めていた。
30(昭和5)年にはその4割が副業と頼む生糸価格が暴落し、一般の農作物が続いた。時の政府の農業合理化策で低米価となり、31(昭和6)年満州事変を始めた年は東北・北海道は「凶作飢饉」に襲われる(写真上は青森の凶作農家)。

1934(昭和9)年、東北農村の飢饉は極点に達する。

わずかに大根で餓えをしのぐ子らの写真は、岩手県青笹村小水門部落(11月)。
東北線岩手県一戸駅で食堂車に群がる子どもたち。
松の木の甘皮をむいて食料にする農民たち。山形県東置腸郡伊佐沢村付近。

壁板から月光がさしこみ寒風にふるえる母と子。青森県三本木。
人買いの手から救世軍に救われた娘たち。

村長と駐在巡査が娘身売りの相談を受けている。山形県伊佐沢村。


戦後、高度成長のなか、日本は工業製品を作って輸出で儲け、農業のような生産性の低いものはアジアなどにまかせればいいんだ、というような主張がまかり通った。
愚かしい歴史から学ばない限り、私たちはこの先を歩めない。
  

8 19, 2010 12.写真・映像・映画・演劇, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

『<新版>私の従軍中国戦線ー村瀬守保写真集<一兵士が写した戦場の記録』

『<新版>私の従軍中国戦線ー村瀬守保写真集<一兵士が写した戦場の記録』(日本機関紙出版センター/2005)は、プロの報道機関員ではなく、写真好きの一兵士が日中戦争従軍中に撮った希有な写真集。

村瀬氏は1909(明治42)年、本郷真砂町に13人兄弟の6男として生まれる。
15歳のとき初めてカメラを手に入れてから60年以上撮り続ける。
37(昭和12)年に召集されたとき、かさばらないカメラをと「ベビーパール ヘキサー4.5」を買い、胸ポケットに入れて出征する。

上海攻略後の外国人租界の写真店では二眼レフと現像焼き付け機材も買い込む。
行軍の合間に、中隊長をはじめ部隊中の兵隊たちの写真を撮って焼き付け配っていた(内地の家族へ送る)ため、彼が写真を撮ることは軍務に支障がない限り半ば公認となる。

こうして2年半の従軍中、約3,000枚を撮り、除隊後も700枚ほどのネガを保管した。

わずか2年半にも関わらず、実に中国大陸のあちこちを転戦している。
天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西、ノモンハン…。
配属されたのが兵站自動車第十七中隊(200名)だったので、常に侵攻前線の後を追う。
その結果、彼が見ることになったのは、破れた中国軍兵士の遺骸であり、戦禍と餓えと日本軍による虐殺、暴行に苦しむ中国の民衆の姿だった。

カバーに載せられた写真は、南京攻略途上のある部落で、逃げ遅れた老婆と子供。
「子供にキャラメルをやろうとしましたが、手を出そうともしません。涙ながらに語る老婆の訴えをきくと、八十にもなる老婆がつかまって、二人の日本兵に犯され、けがをしたというのです。言うべき言葉もありませんでした」

南京揚子江岸ではおびただしい数の死体の山を撮る。
「軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。死臭で息もつけない中を、工兵部隊が死体を沖へ運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では一〜二ヶ月はかかりそうでした」

大木に村人20名ほどが縛られ焼き殺されている猛烈な死臭のなかでの昼食。
怪しいと引き立てられ、翌朝には、日本刀の試し斬りで惨殺されている若者たち。
大洪水と悪路の行軍、コレラの発生。
「コレラ患者はほとんど放置されて死を待つばかりでした」
「徴発」(食料の強奪)に出かけた兵隊がひとり戻ってこない。捜しても見つからず、このあたりでやられたのだろうと思われる部落を焼き払い、逃げ出してくる住民を銃殺した、と報告がある。

彼のレンズは、底辺にあえぐ人びとをも捉える。
「盲しいた方が生きる道は物乞いをする外にどんな方法があるでしょうか」
いつも弟が盲目の兄の手をひいて物乞いをして歩く兄弟の一瞬の笑顔に彼の心も少しだけなごむ。

兵の移動に伴い軍直営慰安所の女性たち(大半は朝鮮から連れてこられた)は無蓋トラックに押し込まれ荷物同様に運ばれる。
さらに、戦火で生きるすべを失ない子供や家族のために私設の慰安所に身を沈める女性たち。


村瀬氏は除隊後会社を経営、戦後40年を経てからこの写真集の元になったものを出版し、1988(昭和63)年に亡くなった。

遺された歴史のバトンを私たちはしっかり直視し受け取るほかない。
  

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2010年08月16日

鎌倉と戦争ー『鎌倉近現代史年表稿』(編著発行・小坂宣雄)


往時の鎌倉海浜ホテル(現由比ヶ浜4丁目角で今はマンションが建っている)ー『ふるさと鎌倉』(郷土出版社)より


鎌倉裏駅前の行きつけ「たらば書房」に『鎌倉近現代史年表稿』(編著者・小坂宣雄)というのが置いてあったので求める。

個人出版のよう。小坂さんは1925(大正14)年生まれ、永らく鎌倉市役所に勤め、67(昭和42)年ころから、鎌倉のできごとを整理しようとメモや記録を始め、退職後この書を出した。

昭和の鎌倉の戦時・戦争に関わるようなところを見てみる。それほど多くはない。


1935(昭和10)年
9月9日、大日本国防婦人会鎌倉支部、発会式。
「大日本国防婦人会」は1932(昭和7)年に設立された、日本で最初のファッショ的婦人団体。後に「大日本婦人会」に統合され、「大政翼賛会」傘下に入った。
20歳以上(以下でも既婚者は含まれた)のすべての娘たち、おばちゃんたちの「経済戦、思想戦、国土防衛戦の戦士として恥しからぬ訓練を施す訓練体」とされた。
鎌倉支部の幹部たちはどういう人たちだったのだろう。
当時の鎌倉は横須賀海軍の高級将校の別荘が多かったから、なんとか海軍中将夫人あたりなのだろう。

1938(昭和13)年
3月27日に、訪日イタリア使節団(ファシスト黒シャツ隊ームッソリーニの武装突撃隊)来鎌、鎌倉海浜ホテルに1泊、9月22日に、ヒットラー・ユーゲント一行来鎌、26日まで鎌倉海浜ホテルに滞在、とある。
1940(昭和15)年、日独伊三国同盟が結ばれる前だ。
彼らは何を観、どう感じたのか。

5月22日、鎌倉町、皇軍大勝利を祝し小学校、女学校、婦人団体による旗行列、夜は町民の提灯行列を行う。
徐州占領(5月19日)の報によるものだろう。
大勝利といっても中国軍主力は逃れ、黄河堤防を決壊されて追撃は不可能となり、武漢攻略戦へと日本軍は泥沼の戦線拡大を強いられることになる。

1941(昭和16)年
12月8日、日本はパールハーバーを攻撃、マレー半島上陸、米英に宣戦布告。

12月28日、鎌倉警察署、防空上の見地から除夜の鐘をつくことを禁止。
除夜の鐘をつくと敵機に察知される?

1942(昭和17)年
4月3日、鎌倉市翼賛壮年団結成発団式。
まだ徴兵されていないおじさんたちか。

1943(昭和18)年
4月10日、鶴岡八幡宮、金属回収のため楼門前の鉄製雨水鉢を供出。12月24日、建長寺半僧坊の青銅製の烏天狗が金属回収のため供出。
戦前、鉄鋼材料の7割をアメリカから輸入しておいて戦争を始め、文化財まで供出させる愚。

4月、灯火管制が強化され、鎌倉市内の街路灯がすべて廃止。

11月21日、鎌倉市の学徒出陣式、鶴岡八幡宮で行う。
どのような学生たちが鎌倉から出征し、その後の運命はどうなったのだろう?

1944(昭和19)年
3月、鎌倉図書館が軍(東京第3警備旅団第8特設警備工兵隊第4中隊本部)に接収され閉鎖。
8月、海水浴が禁止される。

1945(昭和20)年
2月16日、米艦載機横浜、川崎、横須賀の各市と湘南各地を空襲、高射砲破片、鶴岡八幡宮境内に落下。
5月23日、空襲警報発令中、十二所方面に焼夷弾が投下。
6月、衣張山などに陣地構築のため、久里浜防衛隊の第15特別連合陸戦隊20数名が妙本寺に常駐。
6月、秘密命令で15歳以下、60歳以上の婦女子を長野県へ疎開させるため名簿を作成。
7月30日、空襲警報発令中、敵小型機10数機による機銃掃射が市内であった。

8月15日、「終戦」

8月27日、米軍の艦船、由比ヶ浜沖に停泊。
大佛次郎『終戦日記』にある通り。

8月28日、米憲兵鎌倉警察署を来訪、市長、市議会議長等に占領軍の指示命令に従う旨の署名を要求。

8月30日、占領軍、慰安施設設置を命令、鈴木市長これを拒否。
『慰安施設」はむろん売春を伴うもの。市長が拒否したのは評価したいが、横浜などの貧困地域に米兵相手の売春は拡がる。
大佛次郎『終戦日記』に、友人が日系2世の米兵を鎌倉に連れてこようとしたら北鎌倉駅でMP(米陸軍憲兵)に制止された、という記述があり、下級兵士は鎌倉には入れなかったらしい。

8月30日、鎌倉海浜ホテル、米軍に接収。
鎌倉海浜ホテルは、もとは「鎌倉海浜院」として医学者長与専斎が横浜の富豪商人らと洋式保養施設として明治21年に開設。その後高級ホテルとして外国の賓客、政府要人、実業家が利用していた。
12月15日、占領軍の倶楽部となっていた鎌倉海浜ホテルは、アメリカ兵がストーブを倒したことから出火、1350坪を全焼。損害時価1000万円。

9月2日、マッカーサー元帥、幕僚12名を帯同し鶴岡八幡に参拝。マッカーサーは29日にも夫人を伴って参拝している。


鎌倉と戦争と人びとということを少しずつ調べてみたい。

戦時中、陸軍は相模湾から米軍は上陸してくるだろうと想定して、七里ヶ浜丘陵一帯にトンネルを張りめぐらし大砲を配備したらしいが、高度成長期、西武による大規模宅地開発の過程ですべて無いものとされ埋め尽くされた。

当時を知っている人はどんどんいなくなってきた。
ここでも歴史の数々のバトンは落とされ失われている。
  

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2010年08月15日

由比ガ浜沖の米軍艦隊ー大佛次郎『終戦日記』

中・下は『ザ・パシフィック』(トム・ハンクス、S.スピルバーグ、G.ゴーツマン/製作総指揮)第1話 ガダルカナル より


由比ガ浜で海を眺めていると、ああここはアメリカ海兵隊にとって絶好の上陸地点だろうなあと思い、揚陸艇が押し寄せるイメージが浮かぶ。

かつて由比ガ浜沖に米軍の艦船が並び、やがてその後極東最大のアメリカ海軍基地となる横須賀へ去っていったことがあった(写真が撮られているはずだがまだ見たことがない)。


大佛次郎『終戦日記』(文春文庫)より

1945(昭和20)年
8月16日
材木座に海軍機が来て海軍航空隊司令の名で大詔は重臣の強要せしものにて海軍航空隊は降伏せずあくまでたたかう旨のビラを撒きしと。
朝鮮人の乱暴食料奪取の危機などに人は怯えいるらし。
夜おそく村田来たり医者が診察に来ての話に、米軍は明日あたり上陸(それも鎌倉に)するらしく女子供を避難させる要ありと話して帰りたるがと意見を問われる。
工場に来ている巡査もデマがとめどもなく飛び処置なしと語りし由。

8月17日
県で婦女子逃げた方がいいと触したのが誇大につたわり敵の上陸が今明日の如く感ぜられ駅に避難民殺到すと。
あさましき姿なり。
横浜では警官の持ち場を捨てて逃亡続出すと。役人からこの姿なのだから国民がうろたえ騒ぐのは当然である。
日本人のどこに美しく優れたところがあったのか。絶望的である。

8月20日
吉野君の話では材木座あたりでは米軍が小さい子供を軍用犬の餌にするとて恐怖している母親が多いという。
無智と云うのではなくやり切れぬことである。
敵占領軍の残虐性については軍人から出ている話が多い。自分らが支那でやって来たことを思い周章しているわけである。
日本がこれで亡びないのが不思議である。

8月27日
敵艦隊が見えるというので由比ヶ浜へ出て見る。
浪の高い沖に「やあ」と苦笑を感じるばかりに垣根のように並んでいる。
二十一隻が数えられた。
心外だが堂々としたもので持っているなあと感心させられる。

8月29日
由比ヶ浜沖の米艦は東京湾へ入ったらしい。明日が横須賀上陸である。
  

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そして私たちもそれぞれの責任について考えるようになりますー『夢の痂(かさぶた)』(井上ひさし)

戦後、1946(昭和21)年年頭に神格否定のいわゆる「人間宣言」を発した後、昭和天皇は全国を「巡幸」した。

井上ひさし夢の痂(かさぶた)』(集英社/2006年初演)は、昭和天皇の宿泊先となった宿一家の人びとのあたふたぶりに託して、天皇と、そして庶民ひとりひとりの戦争責任を問う。

宿の主人は予行演習をすると言い出し、自ら天皇役になりきる。
ところが恋人を戦争で失った長女が突然進み出て「天皇」に申し述べる。 


天子さまがご責任をお取りあそばしたならば
その下の者も
そのまた下の者も
そのまたまた下の者も
そしてわたしたちも
それぞれの責任について考えるようになります

「すまぬ」と仰せ出された御一言が
これからの国民の心を貫く
太い“芯棒”になるのでございます

ご決意を

御一言を!


1975(昭和50)年、昭和天皇は初めて訪米し、帰国後の記者会見で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」という質問にこう答えた。

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます
  

8 15, 2010 08.ことばとコミュニケーション・文字・タイポグラフィ, 12.写真・映像・映画・演劇, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月14日

華と散った?ー『餓死した英霊たち』(藤原彰)

藤原彰は1922(大正11)年に生まれ、陸軍士官学校を卒業して華北へ従軍。44(昭和19)年には陸軍大尉として「大陸打通作戦」等転戦し胸に銃創を受ける。
戦後、東京帝大で歴史を学び、昭和史を中心に一橋大学などで教鞭をとり、2003年に没した。

多数の著書を残したが、この『餓死した英霊たち』(青木書店/2001)は、戦没者の「死に様」の驚くべき実相を明らかにしたもの。

アジア・太平洋の各地に送り込まれた「皇軍兵士」たちは雄々しく戦って「華と散った」わけではなく、その大半が餓死、餓えを因とする病死だったのだ。

ここで分析推計されている数字は、アジア・太平洋戦争を果敢な「玉砕」や「特攻」で漠然とイメージしている今の日本人にとっては唖然とさせられるものだろう。

1946年夏に目一杯戦線を拡大した日本軍に対して、ミッドウェー海戦で連合艦隊の主要空母、航空機、熟練パイロットを殲滅したアメリカは、海兵隊を先遣として日本軍の要衝となっている島々の攻略を始める。
その最初となったソロモン諸島ガダルカナル島の攻防では、日本側死者2万を数えたが、そのうち戦死は5千、残りの1万5千名は密林の中を彷徨った末の餓死者。後に「餓島」と呼ばれるようになった。

※ガダルカナル戦に関しての本は亀井宏氏が多方面の取材をまとめた労作『ガダルカナル戦記』(光人社NF文庫・全3巻)など多数あり、また太平洋戦に従軍した海兵隊員の手記などをもとにトム・ハンクス、スピルバーグらが200億円と7年の歳月をかけて製作し、WOWOWで現在放映中の『ザ・パシフィック』(全10回)でも最初の2回があてられている。

かつて海軍の誇る零戦の基地だったラバウルは、戦闘機も船もなく補給もない状態となったので、アメリカはもう見向きもせずに次の目標に向かったため戦死者はほとんどなく、死者の9割は広義の餓死。
地獄といわれたニューギニア島も同じく9割が餓死。
『ビルマの竪琴』(竹山道雄)で知られる「インパール作戦」での死者16万5千のうち14万5千が病死、すなわち餓死。
補給も支援も断たれ、米軍にも相手にされずに「置き去り」状態になり、自給の途も断たれた島々の兵士たちも大半は同じ運命をたどった。

緒戦で追い落とされ「I Shall Return」とマッカーサーが執着していたフィリピンでは、日本側は中国本土での死者46万を上回る戦争中最大の戦没者50万を出したが、決戦場と位置づけたレイテ島でさえ半数は餓死。
ルソン島、ミンダナオ島などの持久戦を戦った部隊は、米軍に追われた上に住民がすべて敵となる中で餓えに倒れるほかなかった。
フィリピン50万戦没者のうち40万は餓死と推定される。

中国大陸では戦線が拡大し兵站補給線が細るにつれて栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死が増大し、最終的には46万の戦没者のうち23万は病死。

沖縄9万、硫黄島を含む小笠原諸島1万6千はほとんどが「玉砕」による戦死。


総計すると、アジア・太平洋戦争における日本の戦没軍人軍属230万のうち、戦闘による「戦死」は90万、そして140万名もが餓死、餓えを主因とする病死だった。


日本という、死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ(そしてどのように)死んだのか教えることができなかった国」(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』/加藤陽子
  

8 14, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

ジャパンナレッジ『国史大辞典』

吉川弘文館が1979年から1997年にかけ刊行した日本史に関する最大級の辞典『国史大辞典』(全15巻17冊)がデジタル化されて、「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)」で利用できるようになったので、入会し直した。

まあ、これまでは図書館に行かないと調べられなかったものが自宅でもiPhone、iPadでも見られるのは嬉しい。
他の辞典との串刺し検索もできる。

ジャパンナレッジ・コンテンツ案内

国史大辞典』『日本歴史地名大系』『デジタル版集英社世界文学大事典』なども含めて閲覧できる個人会費は月2,100(年21,000)円。
調べられる内容の広さ深さからいってこれは安い。

『国史大辞典』は8月31日までお試し期間だそう。

8 14, 2010 09.ネットワーク・コミュニケーション, 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月13日

俺はお前の父ちゃんだよー『人間の運命』(ミハイル・ショーロホフ)

初めにいつごろどんな版で読んだのかは今となっては覚えていない。小学生の頃の少年少女世界文学全集なのか、中学に入ってからの角川文庫だったか、叔父の蔵書の世界文學全集だったか。

第二次大戦、苛烈な独ソ戦争がようやく終わった後の最初の春、ドン河のほとりで時間待ちをしている際に出会った、小さな男の子連れの男が一刻の間に話す半生。

戦場の悲惨と恐怖、過酷な捕虜生活の中での死を覚悟した最後の矜持、ぎりぎりで生き延びたにもかかわらず家族すべての死という人生の暗転、そして…


そこですぐさま、こう決心した。「俺たちが別々にくたばるようなことがあってはならん! こいつを引き取って、自分の子供にする」
すると、たちまち俺の心は軽くなって、なんとなく明るくなって来た…


文庫本でわずか50ページほどのものだが、戦争と人間と生について少年時代にこれほど深く心に残った小説はない。


もし、小学校高学年くらいの子供がいる方は、ポプラ社の『Little Selections あなたのための小さな物語 1 戦争』(赤木かん子・編)に『人の運命』(井上満訳)として収録されているものがお薦め。

手塚治虫の漫画の原点である戦争体験を記した『ぼくは戦争を忘れない/語り部になりたい』、漫画『紙の砦』も収録されている。
  

8 13, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月12日

『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(池田浩士)

『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(池田浩士)現代企画室(代表・北川フラム)発行の「子どもたちと話す」シリーズの新刊。

1940(昭和15)年生まれのおじいちゃん(もちろん同年生まれの著者・池上浩士)と孫であるミッちゃん(高校2年生)とヤーくん(大学情報学部1年生)とが話す、という設定の中で、若い人にとって「別にぃ~、関係ないよぉ」という「天皇」「天皇制」が、「国民主権」となったはずの現代日本においても、いかにすみずみに(「一木一草に」竹内好)見えない形で染み渡っているかを解きほぐしていく。

今、「国民の祝日」というのは年に15日あるが、そのすべてが明治以来の天皇制に関連して制定されていること、太平洋戦争中、日本軍は「天長節」などの祝祭日を期して攻撃をかけ、相手もそれを考慮して戦術をたてたことなどから始まる。

戦後日本の手っ取り早い安定占領政策のため、アメリカは日本の戦争最高責任者(戦争を始めることができ、また終わらせることができる唯一の存在)である昭和天皇を軍事裁判の上では免責したが、すんなりと許したわけではなかった。

「極東軍事裁判(東京裁判)」で、A級戦犯として28名を起訴するが、その起訴状の発表は1946年4月28日〔日曜)であり、提出されたのは翌29日、昭和天皇の誕生日(現・昭和の日)だった。

ー意地が悪い。そこまでやるの?

A級戦犯で病気を理由に最後まで出頭命令を逃れていた松井岩根陸軍大将(1937年南京大虐殺時の現地軍最高司令官)が逮捕収監されたのが1946年3月5日。新聞に載る翌3月6日は「地久節」、つまり皇后誕生日の祝日。

ーで、まだこれでおしまいじゃないの?

東条英機以下7名の絞首刑が執行されたのは、1948年12月23日深夜零時1分から35分までのあいだ。日本占領軍(GHQ)の緊急発表は零時45分。当日朝の新聞に間に合うように。
その当日というのは、さて?

ーもういやだ! だって、12月23日って天皇誕生日じゃない!

現明仁天皇は、当時皇太子で、満15歳の誕生日を迎える日だった。
明仁天皇は、父昭和天皇裕仁の身代わりに殺されたといっていい人たちのことを、自分の誕生日が来るたびに思い起こさずにいられないことになる。

無条件降伏したにも関わらず、戦前の「国体」、天皇制の存続にしがみついた政治家たちと、効率的な占領政策のために天皇の戦争責任を追及しない方が得策と判断した占領軍との思惑の一致で、天皇は裁判にかけられなかった。

しかし、当然天皇を処刑するところを代わりにA級戦犯7名を絞首刑にすることですませた戦勝国アメリカは、本当はお前たちが裁かれるべきだったのだぞ、ということを天皇一家に思い知らせるため、「天皇のカレンダー」に合わせて一連のスケジュールを組んだのだろう。

ー天皇の言いなりになって、天皇のために戦った国民にも、思い知らせるつもりだったのかもね。
ーそう考えるべきだろうね。おじいちゃんもそう思うよ。

以下、「人間天皇」と戦後民主主義、「君が代」「日の丸」「元号」、「象徴」と憲法の矛盾、「統合」と「排除」という天皇制の持つ二つの力、将来を決めるのは私たち、と新書判200ページに満たないが、これまでの「天皇制」論と一線を画す内容。

若い世代にぜひ読まれて欲しい。
  

8 12, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月11日

今朝のおはよう-428 ムクゲの花

わずかに底紅、庭の木槿(ムクゲ)。

韓国の国花でもある。
  

過去記事:
今朝のおはよう-424 ムクゲの憂鬱(2010年07月21日)
今朝のおはよう-276 白ムクゲ(木槿)(2009年07月19日)
今朝のおはよう-267 木槿の咲き始め(2009年07月04日)
  

8 11, 2010 18.花・木・野菜・生きものたち, 26.今朝のおはよう | | コメント(0) | トラックバック(0)

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となりますー『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』

「韓国併合100年」にあたっての首相談話に対して、毎度のように、いつまで謝り続ければいいんだ?自虐外交だ、いいかげんにしろよ、という声が出る。
保守的、国家主義的な政治家(民主党内にもたくさんいる)やマスメディアはもちろん、ネットでの内向不満匿名吐き出しタイプによるものもどっとあふれる。

なぜいつまでも謝罪を続けなければならないか?
答えは単純。
ちゃんと謝ってこなかったから
政府レベルでも国民レベルでも。

謝罪をすれば相手がつけあがる、金でカタがついているのに余計な要求が出る、などという旧植民地宗主国である日本の閣僚や政治家の声が報道されていたら、謝罪といっても「嘘偽りのない謝罪」「心からの謝罪」(『言葉の力 - ヴァイツゼッカー演説集』/岩波現代文庫)などと受けとめられるわけがない。

1952(昭和27)年にアメリカの指導で始まった日本と韓国の戦後交渉は、日本側の「日本の朝鮮統治による恩恵もあったはず」という発言に韓国側が席を蹴り、日本政府が正式に取り消して再開するまで5年間も要した。
今でも同じようなことを平気で発言する政治家が後をたたない。


敗戦後のドイツは西と東に分裂し、ナチスの引き起こした惨禍の広さ深さからいって歴史の引き受け方はある意味日本よりもっと重かった。
「過去が過ぎ去らない」ことへの苛立ち、「ドイツだけが悪かったわけではないだろう」という感情、重苦しい汚点のある歴史を忘れていいなら忘れたい、というなかで「戦後」を模索してきた。

新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット)は、1985年、当時の西ドイツ大統領フォン・ヴァイツゼッカー(後、統一ドイツ初代大統領)によるドイツ連邦議会での終戦40周年記念演説(約50分)を翻訳収録したもの。

あと4年でベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは統一に向かうのだが、当時そんなことは誰も予期できなかったし、別に「ラウンド・ナンバー」でもない40周年に「わざわざ傷口を開くことはない」という意見も根強いなか、各界各層の人々と話を重ね、数ヶ月にわたる準備を経た上での演説だった。

「われわれにとっての5月8日(無条件降伏の日)とは、何よりもまず人びとが嘗めた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」

ここでいう「人びと」はドイツ人だけのことではない

「強制収容所で命を奪われた600万のユダヤ人」「戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連、ポーランドの無数の死者」「シンティ、ロマ(ジプシー)」「殺された同性愛の人びと」「殺害された精神病患者」「宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びと」「非人間的な強制的不妊手術を受けた人びと」「ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者」「ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス」「積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びと」…

「われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。かつて起こったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります

演説の最後でヴァイツゼッカーは若い世代に訴える。

「ヒットラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とを掻きたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないように
していただきたい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日5月8日にさいし、及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」
  

「次の選挙を考える政治屋(ポリティシャン)」ではない「次の世代を考える政治家(ステイツマン)」のことばと背景を解説した「若い君への手紙」(永井清彦)も収録。
  

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2010年08月09日

こんな日本になってしまったわけー橋本治『二十世紀』『日本の行く道』『“わからない”という方法』

橋本治は『日本の行く道』(2007/集英社新書)で以下のように書いている。

1964(昭和39)年の東京オリンピックの年に16歳になる。
その次の年が「終戦から20年」と言いはやされていたのだが、彼はこの言い方が嫌でしょうがなかった。なぜかというと、自分が生まれた時にはもう戦争が終わっていて、それ以前に戦争があって、その前にもなんやかんや色々あっただろうが、「戦争が終わって新しい時代が始まった」ということを前提にして生きてきた16歳にとって「そんな終わってしまったことなんてどうでもいいじゃないか。もう終わったんだから」としか思えない。
「自分が生まれる前の時代は意味のない時代だったーだって、それは“よくない戦争の時代”だったんだから」で割り切ってしまいたかった。それでいいと思っていた。

私が属する大学も学生のほとんどは平成生まれになった。
平成の始まり(1989年)頃ははバブルの絶頂と崩壊、「空白の20年」の始まりで、俺たちはそのなかで育ってきたんだから、もうそれ以前は無いものとしたっていいや、と思うものもいるかもしれない。

私も橋本治と同年代だから気持ちはよく分かる。
ただ子どもの頃から歴史は好きだったのでそうは考えなかったが、保守的で頑迷な老人たちがどんどん世を去っていけば世界は少しは良くなっていくだろうなどとは思っていた。

むろん、その後の橋本はそんな次元に留まっていたりせず、ずっと社会と歴史を、「どこかに正解があるはずだという20世紀的幻想」によってではなく、「わからない」「わからないからやる」という方法に徹し(『「わからない」という方法』(2001/集英社新書)調べ、経験し、考え、文章にしてきている。

そのひとつが「私がこれまで書いた本の中で最も個人的な本」という『二十世紀』(2001/毎日新聞社)。
子どもの頃「自分の生きている社会はどっかがへんだ」と思っていて「どんないきさつで“こんな時代”になったのだろう」ということを、最も強く知りたがっていたから。
16歳のころと話が違うじゃないかと思われるかもしれないが、これは多分両方とも本当だと思う。

『二十世紀』は、『日本の行く道』で述べられているような産業革命以来現代まで引きずっている世界のおかしさを書いた総論「二十世紀とはなんだったのか」と1900年から(20世紀は本来1901年からなのだが時のドイツ皇帝は勅令を出して1900年を20世紀の最初の年とするというとんでもないことをやってヨーロッパで通用してしまったのでこの年から話が始まる)2000年までの101年間を一年ずつ分けて書いてある。

その年にあったことはもちろん含まれるのだが、それに限らず話は縦横に拡がる。
1年4ページなので、自分が関心がある年から読んでもぜんぜんかまわない。

長くなるが、たとえば1979年のページから少し引用ー

1970年代を経過して、「モーレツ社員」という言葉は日本人の間に深く定着していた。「貧しさからの脱却」とは、そのまま「豊かさへの一直線」になるはずで、日本人は、あるはずのゴールを目指してひた走りに走っていた。ところがしかし、そのゴールがいつの間にかなくなっていた。一生懸命働くことが「ほめられる」には通じず、「ウサギ小屋に住む仕事中毒患者」という揶揄にしかならなかった。

「もう豊かだからいい」ではない。「まだ豊かではないが、それはそれとして、疲れた」という臆病な認識が、高度成長のガムシャラ態勢を温存させたのである。既成の秩序はそのままで、しかし、人間だけが疲れているーーだから末梢的なものがブームになる。「空疎にして豊かで、各人はバラバラ、金だけがその空洞を埋める」というその後の日本のあり方は、この1979年の臆病さから始まる。

住宅街の自販機の前で疑似ポルノを買う青少年というのは、かなりへんなものである。一人掛けの席にずらっと男の客が並んで、その前をミニスカートにノーパンの娘が歩いて行くのを黙って凝視しているのも、かなりへんてこりんなものである。しかし、日本人はオープンに孤独だった。それを不思議とは思わなかった。だからこの年には、その孤独状況をさらにスケール・アップさせるものが登場する。インベーダー・ゲームとソニーのヘッドフォン・ステレオ「ウォークマン」である。
若者たちは社会の一角で、“社会との無縁”を公然と演じ始めた。

それは、関係のない人間には関係のないもので、日本における「個人の自由」は、そのような形で確立されたのである。
インベーダー・ゲームとウォークマンは、やがてコンピューター・ゲームと携帯電話という二十世紀末日本の最大産業へと発展する。社会の中で、人は公然と自分自身の孤立を表明して、しかし悩まない。悩む理由がない。悩む必要が分からない。社会は、その基本構造を変えないままにあって、人の孤立は、もう“当たり前”になっていた。その「社会の中の逃避」は、1979年に始まる。
  

8 9, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

アインシュタインが原爆開発に関わった?

長崎平和祈念式典での挨拶で菅直人内閣総理大臣がとんでもないことを述べた。

以下NHKの生中継録画より述べた通り起こしたものー

最後に私自身のことをひとこと触れさせていただきます。
私が大学で物理学を専攻した際、原爆開発にも関わったアインシュタイン博士や日本の湯川博士が核廃絶を呼びかけたパグウォッシュ会議のことを知りました。
人類の幸福に役立つはずの科学が人類の生存をおびやかす核兵器を生み出したという矛盾です。この会議の活動を学び、自分もこの矛盾を解決したいという思いが、政治を志す私の一つのきっかけになりました。この初心を忘れずに世界から核兵器をなくするその努力を全力をあげて取り組んでまいりたいとこのように思っております。


なに?これ。

アインシュタインは原爆開発の中心人物レオ・シラードに名前を貸してルーズベルト大統領への注意喚起の手紙に署名はしたが、その後のマンハッタン計画のことはまったく知らされておらず原爆開発に一切関わってなどいない
日本国首相としての公式発言だから、遺族から名誉棄損で訴えられるよ。

なお「パグウォッシュ会議(科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議)」(1957年)というのは、バートランド・ラッセルとアルベルト・アインシュタインによる「ラッセル=アインシュタイン宣言」(1955年ー湯川秀樹も書名、発表時にはアインシュタインは既に死去)を受けて10カ国22名の科学者が、1957年にカナダのパグウォッシュ村に集った会議。
日本からは湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄が参加し、核兵器は絶対的な悪であり廃絶を求めるとした。

こんなことは反核運動の世界の常識だし、原稿を書く段階で少しでも確かめればすぐ分かること。
こういうアバウトさで「政治を志している」というから信用できないんだよ。

ついでながら、アメリカの場合は、落とした側の「道義的責任」という言い方も現段階でのぎりぎりのものとしてあるだろうが、日本の場合は、核廃絶を進める「国際的政治的責任」だろうが。
  

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2010年08月08日

17歳のために、そしていまだに17歳からのやりなおしをしていない大人のためにー『17歳のための世界と日本の見方』(松岡正剛 /春秋社)

セイゴオ先生は、1998年、関西の大学から新設した「人間文化学部」で「人間と文化」についての1年生向け講義を受け持つよう頼まれて応じる。
ところが予備的な講義をしてみて、学生たちがあまりに何も知らないことに驚く。


今、世界の中での日本の立場は、孤立はしていないにしても、必ずしも充実したものではなく、アジアともアメリカともかなり片寄った付き合いをするようになっている。
日中戦争と太平洋戦争で敗れたことによって、アメリカにばかり顔を向け、いつのまにか「世界と日本の相互関係の歴史」を見なくなってしまった。
たとえば、「日米安保条約が何を足枷にどのくらい続くのか、中国がどんな現代史のなかにいるのか、世界中のマグロと日本はどういうふうにつながっているのか、そういうこともよくわからない」

一方で、日本は2000年も前からアジアの諸国とは交流し「百済や新羅の時代は朝鮮半島とつながっていたようなもの」だし「儒教のテキストの四書五経や漢訳された仏教も、アジア人のように学んできた」。
ところが「世界と日本の相互関係の歴史」を見なくなるのとともに、「なぜか日本人は仏教のことも、着物のことも、三味線のことも知らなくなってしまったのです」。

「最初の予備講義のときに、学生たちにブッダのことや帯のことや三味線のことを訊いてみると、みんな何も知らないのです。伊勢神宮も連歌もお手上げでした。当時のみんなが好きなのは“お笑い”と“プリクラ”と“トレンディドラマ”でした。
いや、ドストエフスキーの『罪と罰』も与謝野晶子の歌も、プラトンの理念も溝口健二の『雨月物語』もマルセル・デュシャンも知らないのです。
これでは世界と日本の相互関係といったって、何もわかるはずがありません。もう東京裁判のことやベトナム戦争のことを尋ねる気はなくなりました」

しかしセイゴオ先生は気を取り直し、「せめて“世界と日本をめぐる人間文化”という視点で話してみようと決意」する。

こうして1998年から2004年まで続けた講義を5講(1. 人間と文化の大事な関係 2. 物語のしくみ・宗教のしくみ 3. キリスト教の神の謎 4. 日本について考えてみよう 5. ヨーロッパと日本をつなげる)にまとめたものが本書。

人間文化を学ぶ」ということはひとつは「世界と日本を歴史観をもって見ること」、もうひとつは「社会と文化はどのように成立しているのかをよく知ること」という基本の上に、タテヨコナナメ、「関係をつかむ」刺激的なレクチャーが展開される。

「17歳のための」としたのは単なるマーケティングフレーズではない。
「大学生に話す前に、高校生の諸君にこそ語りかけたかったという思いをこめて」。もちろん特に年齢にこだわっているわけではない。「でも、17歳というのは象徴的な年齢だと思います。私も、何かを考えたり行動したりするときは、しばしば“精神の17歳”に戻ります」
「いまだに17歳からのやりなおしをしていない“大人”だっていいのです」


続編にあたる近現代を扱った『誰も知らない世界と日本のまちがいー自由と国家と資本主義』(松岡正剛 / 春秋社)も必読。
  

8 8, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)

2010年08月06日

核抑止力は必要?

広島原爆の日の平和記念式典での挨拶のなかで秋葉忠利広島市長は「非核三原則の法制化」と「核の傘からの離脱」を総理大臣に明確に求めた。

その後に挨拶した菅直人内閣総理大臣は、むろんそれに答えることなどなく、また例年になく海外マスコミが注目しているにもかかわらず、用意された通り一遍の原稿を、とっぱなで「原爆」を「原発」と言い間違えながら目を伏せて精気無く読み上げるだけ。

後の記者会見で「非核三原則は堅持するが、核抑止力というものは我が国にとって引き続き必要だ」と述べている。
冷戦時代の「核軍拡」のためのプロパガンダ論理である「核抑止力」などというものをまだ信奉しているわけね。

こんな考えで「核廃絶の先頭に立つ」?
ちゃんちゃらおかしいにもほどがある。

鳩山前首相も、いろいろお勉強してみると普天間の米海兵隊の「抑止力」がよくわかりました、などと唖然とするようなことを言っていたが、ほとほと彼らには愛想がつきた。
  

8 6, 2010 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)

歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話ー『歴史とは何か』(E.H.カー/岩波新書)

中学から高校の頃読み、英語の原書でも読み1章まるごと暗記したりした。
歴史についての興味はこういうところからもきた。
E.H.カーについてはまた別の機会に(この本は1961年、ケンブリッジ大学での連続講演をまとめたものなのだが、実はいろいろな意味でとても難しい)。


戦争と歴史について私がずっと抱いている最大の問題意識は以下。

なぜ私たち日本人は、いつまでたってもアジア・太平洋戦争を「政府レベル」ではもちろん、「民衆レベル」できちんと総括することをせず(できず)、この戦争で関わった他の人々(主としてアジアの人々、そしてアメリカの人々)と、ほんとうの意味で豊かな関係を築いていく将来的展望を、国際政治レベルでも、そして民衆レベルでも創ることができないでいるのだろうか?

なぜ私たち日本人は、いつまでたっても過去の戦争を受け身で捉え、私たちもまた悲惨な戦争の被害者であり平和を切に願う、今の平和は戦争のなかでの「尊い犠牲」の上にある、というような感情感傷レベルに留まっているのだろうか?

無知が何かを生み出すことはない。
知らないということを知ることから何かが始まる。
若い世代の「無知」に笑うことがある、というより呆然とする。
しかしそれは、とりもなおさず父であり母であり年配者であり人生の先達である私たちの責任ではないか?


そういう私もまた無知だ。
たとえばこんなことを私は最近まで知らなかった。

1944(昭和19)年、日本軍占領下のベトナムの北部は未曾有の凶作に見舞われた。ほんのわずかの収穫や備蓄は日本軍に持ち去られる。南部にはまだ余裕があったが輸送ルートを断たれ米を輸送することはできず、44年末から翌年にかけて大飢饉となる。
200万人のベトナム人が餓死した。
ー『太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦勝算なし』(NHK取材班編/角川文庫)による
  

8 6, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月05日

教科書がつまらないならー『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 / 朝日出版社)

歴史の教科書というものははっきりいってつまらない。

私が高校生時代に使った教科書は山川のものだった。
それを(もちろん新しい版だが)元にした『もういちど読む山川世界史』『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)を「もういちど」読み直してみてもまったく感想は同じ。本文より「コラム」の方がわずかに面白味がある程度。

「世界史」や「日本史」をわずか300ページくらいで記述する無理、というのが基本的にあるかもしれないが、それでもたとえば336ページの『ビジュアル版世界史物語』(西村貞二 / 講談社)の方がはるかに面白い。


教科書がなぜつまらないのかは『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 / 朝日出版社)を読めばよくわかる。

加藤陽子さんは、東大で日本近現代史を講じているのだが、この本は神奈川・栄光学園の歴史研究部を中心とした中高校生に5回にわたってレクチャーした内容をまとめたもの。

一方的に講義しているのではない。
「自分が作戦計画の立案者であったなら」とか「自分が満州移民として送り出される立場であったなら」とかも考えさせる。

アーネスト・メイ先生はなにがきっかけで『歴史の教訓』という本を書かねばならないと思ったのでしょうね。メイ先生の「問い」とはなんであったのか。書かれた1973年あたりがヒントです。
ーオイルショックがあった。
そう、いいところをついています。なぜオイルショックが引き起こされたか、そこまで思いいたるとわかるのですが。
ーベトナム戦争が終結する。
そう、ベトナム戦争。

という調子。

アメリカ政府機関のなかで、Best & Brightest(ベスト&ブライテスト、もっとも頭脳明晰で優秀)の補佐官たちが政策を立案していたはずだったのに、なぜこれほどまでベトナムに介入し泥沼にはまってしまったのか、をベトナム戦史編纂に従事していた歴史家メイは「問い」として立て、調べ考えていく。

歴史は誰かが出来事を並べて記すことではなく、歴史家がつくる(もちろん優れた郷土史家のものもあり、普通の市民の体験記が歴史に組み込まれることもある)。
教科書がつまらないことのひとつは、そうした歴史家たちがその時代と突き当たり、何を課題とし、どのように「問い」を立てて苦闘したかがまったく見えないこと。

加藤先生は、日本の支配層の立場だけでなく、反対する動き、一般庶民の捉え方、列強の立場、侵略と被侵略というだけでは見えてこないこと、等、最新の歴史学的知見も含めて縦横に脈略づけて述べる。
地図やグラフも工夫され、空間的、数量的にもイメージを喚起する。

また、生徒たちにも印象深かったらしい、日中戦争が迫るなか、「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」と「日本切腹、中国介錯」論を進言する胡適や、日本は通商が命であり持久戦はできないのだから、そもそも戦争する資格はないとすでに1929年の時点で主張した海軍提督、水野廣徳などの人物と意見なども歴史の文脈のなかで位置づける。

教科書のつまらなさのもうひとつは、時代と場の条件のなかでこうした人たちがどう問題を立て、どう解決しようとしたかが描かれないこと。

つまり、単に限られたなかに詰め込まれすぎているというのではなく、「今」の高見に立って事後的に整理し「時代に即応した簡潔かつ明確なかたち」(『もういちど読む山川世界史』)、「情報としての教養書」(『もういちど読む山川日本史』)にしているからこそつまらない。

教科書、とりわけ検定という名の検閲と事細かな学習指導要領のもとにある日本の教科書は、若い人が歴史を学び、様々な観点やそのわくわくするような面白さに気付き、知的好奇心を呼び起こす上で、とっかかりにはあまりならない。
よく言われるように、ぎっしり書かれた年代と固有名詞は、これらを「暗記」するという学習イメージと容易に結びつけられ、歴史を学ぶことへの敬遠や、あるいは逆に俗流の安易な歴史観やTVの歴史ドラマで満足することに流されるだろう。

だからこそ若い人たちにこういう本をぜひとも読んでほしい。
  

8 5, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月04日

安島太佳由『歩いて見た太平洋戦争の島々』『消滅する戦跡ー太平洋戦争激戦の島々』

安島太佳由(やすじまたかよし)さんは1959年、福岡県生まれ。大阪芸大で写真を学び、広告制作などの仕事ののちフリーカメラマンになる。

戦後50年となる1995年、日本の戦跡をたどることをライフワークと定め、東京に残る戦跡を探し撮影することから始め、日本全国の戦跡を訪ね歩く。

『歩いて見た太平洋戦争の島々』(安島太佳由 / 岩波ジュニア新書)、『消滅する戦跡ー太平洋戦争激戦の島々』(安島太佳由 / 窓社)は、太平洋戦争の激戦地となった島々の戦跡を訪れた記録。

日本の国内とはまた違う、なぜこんなはるか遠く離れたところでという南島で、安島さんは現地を歩いて見る大切さを実感する。

『歩いて見た太平洋戦争の島々』あとがきよりー

私は戦場跡に立つと、あらゆる想像力をめぐらし、そこで起きたことにできるだけ思いをはせるようにしました。戦場跡では、かならず兵士たちの死と直接むきあわなければなりませんでした。戦闘でもがき苦しみながら死んでいった兵士たち、故郷のこと家族のことを思いながら飢えや病気で死んでいった兵士たち、一見のどかに見える光景のなかに戦争の悲惨さや愚かさ、恐ろしさが垣間見えてきます。

私は何かできることをやらなければと思いました。それが「戦争の”跡”の時代」に生まれ、生きる私の役割だと思います。


安島さんは、一人でも多くの中学・高校生たちに、戦争について知ってもらい、写真の一枚一枚から過去の歴史を想像する力を持ってもらいたいと「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」というプロジェクトを立ち上げている。

そして次の目標、中国、台湾、朝鮮半島などのアジア諸国の戦跡の旅に向かう。
  

安島太佳由さんの他の本・写真集:

『日本の戦跡を見る』(岩波ジュニア新書)
『訪ねて見よう!日本の戦争遺産』(角川SSC選書)
『東京痕跡』(安島写真事務所)
『日本戦跡』(窓社)
『特攻漂流』(窓社)
『要塞列島』(窓社)
  

8 4, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月03日

なぜ歴史を学ぶかー『世界史読書案内』(津野田興一/岩波ジュニア新書)

著者の津野田さんは都立西高校の世界史の教員。

この高校のカリキュラムは、2年生で19世紀の歴史が必修、3年生で20世紀と古代から近世を選択で学ぶ。
現代の私たちの社会の基本的な仕組みや考え方が19世紀の「国民国家」形成のなかで作られたことを重視してこういう構成にしているという。

津野田さんは生徒たちと話すなかで、受験にとらわれない知識や教養への志向を感じ取る。
そこで「世界史読書案内」という独自のプリントを作り、授業の単元が終わるたびに、それに関連する本を紹介して好奇心を刺激する、という試みを始める。

「この本を貸して」「面白かったよ」「大学に入ったら片っ端から読みます」などの応答のなかで続けてきたものをまとめたのが本書。

私たちはなぜ歴史を学ばねばならないのか?
歴史を学ぶというのはどういうことなのか?
津野田さんは、それは究極のところ「今、ここにいる」「自分自身」を知るため、と説く。

そのためには「比較」し「相対化」しなければならない。
どうやって?
「時間軸」と「空間軸」のなかで、世界を知り理解すること、日本の歴史を世界のなかでとらえること、そして「今」を知ること。


いわゆる歴史書だけではないさまざまな本が紹介されている。

『大地』『西部戦線異状なし』『大地の子』『GO』『イワン・デニーソヴィチの一日』『石の花』『オイディプス王』『小説 十八史略』『李陵・山月記』『敦煌』『薔薇の名前』などの小説や『生物と無生物の間』もあり、『戦争中毒ーアメリカが軍国主義を抜け出せない本当の理由』のようなコミックもある。日本の若い世代がこれから特に理解しなければならないイスラーム世界と文化への誘いも充分ある。

それぞれの本についての記述は新書2ページ程度だが、単なる紹介ではない。それぞれが歴史や学問の脈絡やつながりのなかでどのような意味をもっているのかが分かりやすく記されている。
そしてなによりも、津野田さんがそれらの本に出会ったときのわくわく感、目が開かれていく知的興奮、「今ある自分」にとっての意味が伝わってくるのが素晴らしい。

挙げられている90冊ほどは私もほとんどを読んできており、若い頃からのそれぞれの本に向き合ったときの読書体験を思い起こす。
第1章「国民国家が生まれ、広がる」のとっぱなが、田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)であることがうれしい。
  

8 3, 2010 14.読書三昧, 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(0) | トラックバック(0)

2010年08月02日

歴史のバトン

『山川 世界史総合図録』(山川出版社)より


学生たちにこの地図の「太平洋戦線」というタイトルや「日本軍の攻撃」などの凡例を隠した上で見せると図の意味するものがなかなかわからない。

黄土色の部分は1942(昭和17)年夏、アジア太平洋における大日本帝国の占領、統治、軍事力展開が最大であったときの範囲。

大陸では満州から華北、中原、華南、ベトナム、タイからビルマ、マレー半島。そしてスマトラ、ジャワ、ボルネオ、ニューギニアといった大きな島から点在する小島の数々。

「大東亜共栄圏」というスローガンのもと、当時の経済・軍事力を無視してよくもまあこれだけ無謀に膨張させたものだと見返すたびに思う。


現在の若い人たちにとって、ベトナム、ラオス、タイなどはエスニック観光で人気、南洋の島々はリゾートでありダイビングツアーの対象だ。

しかしたとえばこれらの「楽園の島々」では、かつてこの図の茶色の線(日本軍の攻撃・進路)と青い線(アメリカ軍の反攻)が交錯し、砲弾銃弾の嵐、肉弾戦と火焔放射、ジャングルの泥沼の行軍、マラリアと餓死の地獄があった。

かろうじて日本に帰還できた今の若者の曽祖父や祖父は父に語らず、父は子に話しようはなく、アジア太平洋戦争の経験と記憶は風化の一途をたどった。

私もまた中国大陸に出征し瀕死の重傷をおいながら奇跡的に生還した父から戦争の話はほとんど聞くことはなかった。

カメラマン、安島太佳由さんは、戦死者、犠牲者の無念と戦争の理不尽を考えるとき「戦争の”跡”」の世代として何かできることをやらなくてはならない、と日本中の「戦跡」を訪ね歩き、太平洋戦争の島々も訪れ写真と文を発表しているが、南島で日本人のダイバー青年に出会い、ここは太平洋戦争の激戦地なのです、と話しても「へ?」と反応されるばかりだ。


バトンは渡されていない。
さまざまな、ほんとうにさまざまなバトンがあったはずだった。
どこかでたくさん落とされ失われた。
あるいは渡そうとする意思を喪失した。
受け取る立場にあると考えなかった。
バトンなどいらない新しくレースを始めればいいと思われた。


日本中が毎年「戦争の記憶」「平和」「原爆」「慰霊」などに覆われる8月、またかよもういいよと感じるかもしれない若い人々になにか少しでも届くものがあるように、落とされたバトンを拾ってみるのもいいかと思ってくれるきっかけになるように、なぜ今この道を走っているのだろうと振り返ってみてもらうために、「戦争」と「歴史」について考えてきていることや読んで欲しい本や映像のことなどを少し集中して書いてみようと思う。
  

8 2, 2010 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ | | コメント(2) | トラックバック(0)